表のまま走る
タクシーの乗務員証は、
今はもう、表に顔も名前も出さなくていいらしい。
何年か前、
女性のタクシードライバーが、
乗客にスマホで撮影された。
それがきっかけで、ルールが変わったと聞いた。
顔写真。
氏名。
免許の期限。
そういうものは、
客から直接見えない形へ、
順次切り替えられていった。
正しい判断だと思う。
守られるべき人は、確かにいる。
それでも俺は、
いまも乗務員証を裏返さない。
顔も、名前も、
表に出したまま走っている。
――見られて困るものじゃないからだ。
別に、
立派な理由があるわけじゃない。
正義感でもないし、
何かに抗っているつもりもない。
ただ、
タクシーという仕事が、
そういうものだと思っている。
知らない人間同士が、
狭い車内で、
短くない時間を一緒に過ごす。
客は後部座席。
俺はハンドルの前。
どこの誰かも分からない相手に、
行き先を委ね、
身体を預ける。
その最初の不安を、
少しでも軽くしたい。
だから俺は、
自分が誰なのかを、
最初に差し出す。
ある日、
先輩のドライバーに声をかけられた。
「お前、あれ、見せとるんか」
先輩は、
助手席側の掲示に目をやって言った。
「ああ。あえて」
「そんなん、今は見せんでいいぞ」
悪気はなかったと思う。
忠告のつもりだったんだろう。
「知ってますよ」
「なら、なんで?」
少し間があった。
「見せたらいけないわけじゃ、
ないですよね」
先輩は、
少しだけ黙って、
それから肩をすくめた。
「変わっとるな」
たぶん、
心の中では、
もっとハッキリ思ったはずだ。
――こいつ、変な奴やな。
それでいい。
変に思われても、
次の日も俺は、
同じように走る。
乗務員証は、
裏返さない。
ある夜、
乗せた客が、
ふと助手席側に視線を落とした。
「名前、見えるんですね」
驚いたような声だった。
「はい。
見られて困るものでもないので」
それだけ答えた。
客は少しうなずいて、
こう言った。
「その方が、安心できるよ」
俺は、
「ありがとうございます」とだけ返した。
それ以上、
何かを付け足す必要はなかった。
世界が少しずつ、
見えない方向へ進んでいく中で。
俺は、
顔と名前を出したまま、走る。
それが、
俺なりのやり方だ。
表のまま、
今日も走っている。




