ゼロだった数字
13時27分、配車センターから配車依頼が入った。
13時45分。
大手町にある、介護付き老人ホーム。
時間指定での配車だった。
場所は悪くない。
いや、正直に言えば、かなりありがたい。
東茶屋街にいた俺からなら、
現地までは三分もかからない。
待ち時間は十五分ほど。
たいした待機じゃない。
時間だけが、静かに埋まる距離だ。
今日は天気が良すぎた。
雲ひとつない晴れ。
こういう日は、タクシーは鳴らない。
歩ける人は歩く。
迷う人も、結局は歩く。
需要は、はっきりと減る。
まして、この時間帯だ。
昼下がり。
本来なら、いちばん弱い。
それでも、
こうして配車依頼が来た。
俺は、素直にありがたいと思った。
走らずに済む。
無理をしなくていい。
ただ、時間を守って向かえばいい。
約束の時間の十分前には現着していた。
俺は、少し早すぎたな、と思った。
一度、エントランスの前まで行って、
そのまま通り過ぎる。
近くのファミマまで車を出して、
お茶を一本買い、喉を潤した。
急ぐ必要はない。
焦らせる必要もない。
こういう時は、
時間を少しだけ外に逃がすほうがいい。
13時43分、現地に戻る。
あと二分。
配車センターに到着を知らせるボタンを押した。
形式的な操作だけど、
この一手で、仕事が仕事になる。
13時45分。
施設の中に入り、受付に到着を告げた。
中は、思っていたより静かだった。
床は柔らかい色で、
天井がやけに高い。
——ああ、
ここは元がホテルだったんだな。
受付の造りも、
いわゆる老人ホームのそれじゃない。
カウンターの高さも、照明の当て方も、
昔のホテルの名残を、そのまま使っている。
受付の奥から、
職員同士の小さな声が聞こえてきた。
「あー、十四階の◯◯様……」
階数で呼ばれる。
部屋番号じゃなく、
階で名前が出てくる。
そのやり取りを聞いた時、
ここが“高級”かどうかなんて、
もう考える必要はなかった。
俺は、
少し背筋を伸ばして、
待つことにした。
到着して、五分ほど経った頃だった。
ひとりの女性が、こちらに近づいてきた。
六十代くらいだろうか。
職員さんなのか、付き添いなのか、
その時はまだ分からなかった。
少し申し訳なさそうな顔で、
俺のところまで来て、言った。
「ごめんなさいね。
下着が濡れてて、今、替えているところなんです。
もう少し、待っててもらえますか」
ああ、そういうことか、と思った。
驚きはなかった。
嫌な感じもしなかった。
ただ、
段取りが一つ増えただけだ。
俺は、深く考えずに答えた。
「ゆっくりでいいですよ」
それで十分だった。
それ以上、言うことも、聞くこともなかった。
——十三分。
短くはない。
でも、今日は長く感じなかった。
この時間帯は、鳴らない。
走っても、回っても、鳴らない。
それはもう、身体で知っている。
この人がいなかったら、
俺はこの時間、ゼロだった。
ただ街を流して、
ガソリンだけを減らす時間になっていた。
配車センターから電話が入った。
待ちが長いから、メーターを入れていいか、
確認してくれるらしい。
ありがたいと思った。
同時に、少し照れた。
——いや、俺は何もしていない。
ただ、待っていただけだ。
やがて、二人が出てきた。
車椅子はない。
歩ける。
でも、付き添いが必要な歩き方だった。
ドアを開ける。
行き先を確認する。
「東山の交差点を左折して、
そのまま行った先の、
エネオスの隣の整形外科まで」
そのあと、少し間を置いて、
その人は続けた。
「ごめんなさいね。
こんなに待たせたのに、近い距離で」
俺は、一瞬だけ考えた。
どう返すのが、いちばん正直か。
「よく営業所で、
近い距離ばっかりやった、
って言うドライバーもいるんですけど」
そう前置きして、
メーターを指で示した。
「もし、お客さんが
この時間に使ってくれなかったら、
この数字は、ゼロなんです」
少しだけ間を置く。
「今、千百円になってますけど、
本来なら、ここはゼロだったんです」
高いとか、安いとか、
そういう話じゃない。
「ゼロだった数字が、
今、こうなってる。
それだけです」
最後に、はっきり言った。
「ありがとうございます。
胸を張って、乗ってください」
その言葉を聞いて、
二人は笑ってくれた。
「これからは、胸を張って乗るわ」
そう言われて、
俺はうなずいた。
「ええ。
胸を張って、乗ってください」
短い距離だった。
本当に、すぐ着く。
それでも、
この時間は、ゼロじゃなかった。
整形外科に着くと、
その人は冗談まじりに言った。
「一時間くらいで診察が終わるから、
待ってて」
俺は苦笑いして、正直に答えた。
「それは、さすがに無理ですね」
すると、
少し考えるような顔をしてから、
こう言ってくれた。
「じゃあ、帰りもあなたを指名したいわ」
俺にとって、
二度目の指名だった。
正直、嬉しかった。
でも、一時間後に自分がどこにいるかなんて、
俺にも分からない。
だから、こう答えた。
「なるべく近くにいられるようにして、
配車してもらえるよう、頑張ります」
それが、
その時の俺に言える、
いちばん正直な言葉だった。




