『手は挙がった。でも』
スクランブルには、人が多かった。
正直、思ったより多かった。
信号待ちの歩道に、
肩をすぼめた背中がいくつも並んでいた。
寒さのせいか、
酔いのせいか、
それとも帰る場所のせいか。
理由は分からないが、
「歩きたくない顔」をした人間が、
確かにそこにいた。
タクシーは、少なかった。
待機している車も見えたが、
不思議と、
俺の方に手が挙がった。
動いている車。
それだけで、
選ばれる夜がある。
今日は、強い日じゃなかった。
鳴らない時間が長く、
稼いでいる感触は薄い。
それでも、
止めるべきところで止め、
動くべきところで動いた。
雪は降っていない。
だが、路面はツルツルだ。
慎重に走る。
慎重すぎるくらいで、ちょうどいい。
急ぐ理由はない。
今日は、
「当てに行く日」じゃない。
いい客もいた。
どうしようもない客もいた。
途中で降りた男。
理由は察しがついた。
胸の奥に、
嫌な感情が残った。
それでも、
ハンドルは乱さなかった。
乱した瞬間に、
今日という一日が壊れる気がしたからだ。
夜の終盤、
ぽつりぽつりと、
距離のある仕事が入る。
長くはない。
だが、
歩ける距離でもない。
「今はこれでいい」
そう思える一本を、
淡々と重ねていく。
営業所で聞いた話が、
頭のどこかに引っかかっていた。
詳しい数字は言わない。
ただ、
「あぁ、あの人は今日も、
遠くまで行ったんだろうな」
そう思わせるだけの話だった。
悔しかった。
派手に、じゃない。
叫ぶほどでもない。
ただ、
静かに、
確実に、
心に残った。
俺は、逃げなかった。
鳴らない時間も、
外れの客も、
寒さも、
全部引き受けた。
でも、
それだけじゃ、
届かない場所がある。
それが、
今日ほどはっきり見えた夜はない。
スクランブルの信号が青になる。
人の流れが、
一斉に動く。
その中の何人かは、
またタクシーを探すだろう。
俺は、
その少し先で、
ハンドルを切る。
右折の先に、
今日も、客はいる。
そしてその先に、
まだ追いつけない背中が、
はっきりと残っている。
悔しい。
だから、
また走る。
この街で。




