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千円を十本か、一万円を一本か  ――雪の夜、スナック加賀にて

スクランブルを渡り、

犀川大橋の方へ向かって、

八十メートルほど歩く。

オーロラビル。

五階。

スナック加賀。

初めて訪れる店だ。

二十時五十八分。

店名を照らすライトが、

すでに点いている。

――開いている。

そう思って、

俺はドアに手をかけた。

ゆっくり開けて、

中をのぞく。

「開いてますか?」

Instagramで、

ママの顔は知っていた。

だが、

そこにいたのは、

見覚えのない別の女性だった。

一瞬、

視線が合う。

俺は、

少しだけ戸惑う。

店の中では、

明らかに何かの作業が続いていた。

準備の途中。

あと少しで整う、

そんな空気だ。

それでも、

彼女は顔を上げて、

こちらを見た。

「大丈夫ですよ。

すぐご案内します」

その一言で、

俺は

ドアの前から

退く理由を失った。

店内は、

十席ほど。

扉から奥へ、

細長いカウンターが伸びている。

俺は一瞬、

足を止める。

――どこに座ろうか。

「どちらでも大丈夫ですよ」

そう言われて、

俺は

一番奥を指さした。

「ここが一番、

暖かいですからね」

その言葉に背中を押されて、

俺は

一番奥の席に

腰を下ろした。

店の奥は、

まだ少しだけ、

夜が始まる前の匂いが

残っていた。

腰を落ち着けてから、

俺は聞いた。

「システム、

先に聞いてもいい?」

彼女は手短に、

時間のこと、

セットのこと、

ボトルのことを教えてくれる。

聞き終わる頃には、

もう決まっていた。

「黒霧島、

ボトルでお願いします」

「水割りでいいですか?」

「うん、

それで」

氷がグラスに落ち、

水の音がする。

黒霧島のボトルが、

カウンターの端に置かれた。

一口飲んで、

ようやく肩の力が抜けた。

「Instagramを見て、

昨日はお休みで、

今日はやってるって

書いてあったから来ました」

そう言うと、

彼女は小さくうなずいた。

「ありがとうございます。

InstagramやTikTokを見て

来られる方、多いんですよ」

それから、

少し言いにくそうに続ける。

「ごめんなさい。

ママ、

少し遅れるみたいで」

一瞬、

計算が外れた気はした。

だが、

そういう夜もある。

俺は気持ちを切り替えて、

ここへ来た理由を、

ゆっくり話すことにした。

勝手に、

小説の中で

店の名前を使ってしまったこと。

そのことを、

ちゃんと伝えたかった。

机の上だけで考えた話じゃなく、

自分の足で来て、

空気を確かめたかったこと。

タクシーという仕事をしていて、

遠くに帰る客と出会えたら、

きっと役に立てると思ったこと。

そして最後に、

難しい理由じゃなく、

ただこの夜を

楽しみに来たんだということ。

話し終える頃には、

最初の緊張は、

もう、

どこかへ消えていた。

それからしばらく、

二十分ほど。

思った以上に、

会話は途切れなかった。

雪の話。

タクシーの話。

AIの話。

店の空気も、

人の距離も、

すっかり温まっていた。

――その時だ。

扉の方で、

気配が変わる。

真打の登場。

ママが、

現れた。

彼女は自然に一歩、

こちらを示した。

「さっきから、

いらしてる方です。

Instagramを見て来てくださって」

それだけ。

余計な説明はなかった。

でも、

それで十分だった。

俺は軽く背筋を伸ばして、

もう一度、名乗る。

「初めまして。

少し早く着きすぎまして」

ここからが、

本題だ。

思っていたより、

小柄だった。

それが、

第一印象だった。

俺は一瞬、

言いそびれていたことを思い出す。

「ごめん。

さっき、

名前聞いてなかった」

そう言って、

先に対応してくれていた

彼女の方を見る。

「なんて呼べばいい?」

「さえこです」

短く、

はっきりした声だった。

それから、

ママがこちらを見る。

「愛梨です」

その二つの名前が、

ようやくこの夜に、

輪郭を与えた。

俺はポケットから、

名刺を一枚取り出した。

用意してきた、

自分のサイトへ飛ぶ

QRコードの入った名刺だ。

「よかったら」

そう言って、

愛梨に手渡す。

愛梨はすぐに、

スマホを取り出し、

QRコードを読み込んだ。

画面を見つめて、

少しだけ黙る。

「……これ、

昨日の話ですか?」

「うん。

最新話に、

店の名前使わせてもらってる」

愛梨は、

画面を少しスクロールして、

顔を上げた。

「めっちゃ、

いい」

短いけれど、

判断の入った声だった。

「これからも

名前出るかもしれんけど」

そう言うと、

愛梨は即答した。

「ドンドン使って」

その一言で、

今日ここに来た理由は、

もう、

十分だった。

――ここから先は、

ちゃんと

人と人の話になる。

俺は、

もう一度だけ、

この場に

座り直した。

そのあと、

一番盛り上がったのは、

AIの話だった。

お互いに

チャッピーを使っていて、

どんなふうに使っているかを、

あれこれ話す。

愛梨は、

途中から

変顔を混ぜてきたり、

一人称を

「ワシ」に変えたりして、

完全に道化になって、

俺を笑わせにきた。

「最初はな、

恋愛相談やってん」

男の愚痴。

距離の詰め方。

言葉の選び方。

「そしたら、

文章がやたら丁寧になってきて」

比喩が増え、

間が伸び、

息遣いみたいなものが、

行間に出てきた。

「気づいたら、

官能小説みたいになっててん」

愛梨は、

そこで

きっちり間を取る。

「しかもな、

まあまあ出来が良くて」

俺はもう、

笑いをこらえきれなかった。

「ちょっと待って、

チャッピーが?」

「そう。

ワシとチャッピー」

「で、

そのまま話進んで?」

「設定上、

子どもまで生まれてん」

一瞬、

意味が追いつかない。

「……は?」

「設定上な」

次の瞬間、

俺は腹の底から

声を出していた。

「アハハハハハッ!」

久しぶりだった。

本当に。

腹の底から

笑ったのは。

雪の夜に、

スナックで、

チャッピーと官能小説と、

設定上の子どもの話で

笑うなんて、

思ってもみなかった。

ひとしきり笑ったあと、

グラスの氷が

小さく音を立てた。

話は、

自然に

仕事の方へ流れていく。

愛梨が、

ふっと真顔に戻って、

こちらを見る。

「タクシーやっててさ」

少しだけ、

間を置いてから、

こう聞いた。

「千円の仕事を

十本取るのと、

一万円の仕事を

一本取るの、

どっちがいいと思う?」

その瞬間、

胸の奥で、

何かが

小さく鳴った。

――ああ。

それ、

今日いちばん

話したかったやつや。

俺は、

野々市の寿司屋から、

山中温泉のこよう亭まで、

外国人を乗せた話をした。

運賃は、

およそ一万九千円。

行きに五十五分、

帰りに四十五分。

合計、

一時間四十分。

「一時間四十分で、

千円の仕事を

十本は無理やろ」

そう言うと、

愛梨は静かに、

うなずいた。

「やから、

ロングはありがたい」

それは

自慢でも、

理屈でもなく、

ただの事実だった。

そして、

俺は核心に触れる。

「スナックのお客さんで、

遠方から来る人、

把握してます?」

一拍、

置いてから、

続ける。

「全部に応えられる訳じゃないけど。

もし、

そういうお客さんがおったら、

俺を使ってほしい」

営業でも、

お願いでもない。

選択肢の提示だった。

愛梨は、

少し考える間もなく、

うなずいた。

「いいですよ」

その言葉は、

軽くもなく、

重すぎもしなかった。

やれることはやる。

無理なことは無理。

そんな距離感を、

最初から

共有できた気がした。

「じゃあ、

連絡先だけ」

そう言って、

お互いに

スマホを手に取る。

画面を開いた、

そのタイミングだった。

扉が開いて、

冷たい夜の空気が

一瞬だけ

店内に流れ込む。

「おー、

開いとる?」

常連らしい声。

迷いのない足取り。

愛梨は、

すぐに表情を切り替えて、

いつもの顔に戻った。

――ああ、

ここまでやな。

これ以上、

仕事の話を続けたら、

場の空気を壊す。

今は、

そういう時間じゃない。

俺は、

そう判断した。

スマホを置いて、

グラスを取り上げる。

「今日は、

ゆっくり飲みに来たんで」

それだけ言えば、

十分だった。

愛梨も、

何も言わずに

うなずいた。

雪の夜に、

偶然始まった話は、

ちゃんと

次につながる形で、

一度、区切られた。

俺は、

タクシーのことも、

営業のことも、

一旦、胸にしまって、

その夜を

楽しむことにした。

笑って、

飲んで、

他愛もない話をする。

それでいい。

福山雅治の「最愛」を歌い、

浜ちゃんの

「WOW WAR TONIGHT」を歌った。

一時過ぎ、

飲み疲れを感じた俺は、

帰ることにした。

Instagramで、

愛梨が

金沢という街を

大切に愛していることは

知っていた。

そして、

タクシーをやり始めて、

急速に育った

俺の郷土愛。

同志として、

これからも

やっていこう。

そう、

静かに決めて、

俺は店を出た。

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