忘れ物
その日は、よく話した。
行き先までの時間がちょうどよく、
言葉が途切れなかった。
仕事の話。
街の話。
それから、書いている小説の話。
その夜、菊川には
音の余韻がまだ漂っていた。
BanBanでライブがあり、
人たちが、時間差で街に流れ出てくる。
何組も乗せた。
行き先も、歩調も、それぞれ違う。
ただ、どの人も
「今」を終えた顔をしていた。
その中の一人だった。
「読むの、楽しみにしてます」
そう言われたのは、
正直、かなり嬉しかった。
車を止め、
いつも通り、声をかける。
「お忘れ物はございませんか?」
相手は一度、シートを見て、
「大丈夫です」と言って降りた。
その数分後だった。
車内に残った気配に気づいたのは。
足元にあったのは、
黒い足マット。
その上に、
黒いPORTERの財布。
目に入るまで、
時間がかかった。
もちろん、分かっている。
忘れ物は、
誰か一人の責任じゃない。
声掛けもしている。
確認もしている。
それでも、
タクシーに乗った人が何かを忘れるたび、
思ってしまう。
俺のせいじゃないか、と。
会話が弾んだ分だけ、
安心させすぎたんじゃないか。
降りる瞬間の集中を、
奪ってしまったんじゃないか。
そんなこと、
証明できるはずもないのに。
この仕事は、
人を目的地まで運ぶ仕事だ。
でも同時に、
人の一日の一部を預かる仕事でもある。
その一部に、
小さな抜け落ちがあった。
0にはできない。
分かっている。
それでも、0に近づけたい。
忘れ物が戻ったあとも、
その気持ちは、
しばらくシートの上に残っていた。
次に乗せた人にも、
同じように声をかける。
「お忘れ物はございませんか?」
それは確認じゃない。
祈りに近い。




