where going — 最初の800円 —
どうしても忘れられない一人がいる。
まだ十日余りしか働いていない。
それでも、はっきりと言えることがある。
この先、きっと忘れないお客様がいるということだ。
それは――
タクシー稼業初日。
一番最初のお客様。
人生で、
「タクシーに乗せた最初の人」になった、
あの一人だ。
初日ということで、
所長からは「八時出勤でいい」と言われていた。
それなのに俺は、
三十分も早く営業所に着いていた。
理由は、特別なものじゃない。
眠れなかっただけだ。
早く着きすぎた車内で、
まだ新しいハンドルを握りながら、
俺は何度も時計を見ていた。
――早すぎるな。
――でも、遅れるよりはいい。
その時の俺は、
タクシーの流れも、街の癖も、
何ひとつ分かっていなかった。
分かっていたのは、
「今日から始まる」という事実だけだった。
講習は、一日だけだった。
金沢市内を走りながら、
待機場所の話を聞いた。
会社依頼の仕組み。
GOアプリの使い方。
説明は、たしかに受けた。
丁寧だったと思う。
だが――
正直に言えば、
ほとんど理解できていなかった。
信号、標識、歩行者。
知らない道。
知らない景色。
知らない仕事。
「ここ、よく鳴るから覚えといて」
そう言われても、
その“ここ”が、もう分からない。
俺は相づちを打ちながら、
ただ必死にハンドルを握っていた。
そんな状況だったが、
想像よりもはるかに早く、
GOが鳴った。
東茶屋街を左に見て、
浅野川に架かる橋を渡る。
橋場町の交差点を右折した、その時だった。
画面が、青く光る。
同時に、
10――
9――
8――
7――
カウントダウンが始まる。
そういえば、
GOはアプリを操作した場所から、
一番近くにいるタクシーが選ばれると、
さっき聞いたばかりだった。
十秒以内に取らなければ、権利は消える。
その後は、
すべてのGO搭載車に信号が飛び、
早い者勝ちになる。
頭では分かっていた。
だが、指が動かない。
カウントが、容赦なく減っていく。
6――
5――
俺は、
迷いながらも、
モバイルにタッチした。
今なら分かる。
画面には、
お客様の名前。
性別。
二十代か、三十代かという目安。
そして、
目的地が入力されていれば、
行き先まで表示される。
だが、その時の俺は、
何ひとつ見ていなかった。
はじめてのお客様。
はじめての仕事。
胸の奥が、妙に熱くて、
頭の中は真っ白だった。
ただ、
ナビに表示された
「ここにいる」というアイコンだけを見ていた。
そこまでの距離――
三百メートル。
曲がる必要はない。
このまま、
この道の延長線上に、
お客様がいる。
制限速度四十キロの道。
俺は、かなりゆっくり走った。
――びびっていたからだ。
やがて、
画面のアイコンと、
現実の人物が重なった。
歩道に立つ、
大きなトランクを引いた人影。
金髪。
碧眼。
俺のタクシー人生、
最初のお客様は――
外国人だった。
車を止め、
ドアを開ける。
だが、
彼女はすぐには乗り込んでこなかった。
――あれ?
一瞬、戸惑う。
何か不手際があったのか。
場所が違ったのか。
彼女は、
俺のタクシーの後ろへ回った。
その時になって、
俺は気づいた。
見えていたはずなのに、
まったく見えていなかった。
トランクだ。
彼女は、
大きなトランクを
積みたかったのだ。
いろんな仕事をしてきた俺は、
本当は知っている。
サービスというのは、
相手に言われてから動くことじゃない。
相手がしてほしいことを、
言われる前に差し出すことだ。
それに気づいた瞬間、
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
気づきの薄い自分が、
正直、恥ずかしかった。
トランクを積み、
彼女が後部座席に座る。
――困った。
俺は、英語が分からない。
頭の中を必死に探り、
知っている言葉をかき集める。
そして俺は、
思わず聞いていた。
「……where going?」
彼女は、
少しだけ間を置いて、
こう答えた。
「Kanazawa Station.」
それだけだった。
だが、その一言で、
俺には十分だった。
――ああ、仕事になった。
ハンドルを握り直し、
俺は前を向いた。
急加速はしない。
急ブレーキも、
急ハンドルもしない。
ただ、
この人を
無事に目的地まで運ぶ。
そう決めて走り、
ようやく金沢駅に着いた。
タクシー降り場に入り、
会計をしようとした、その時――
俺は気づいた。
メーターが、
動いていなかった。
慌てて、
実車ボタンと迎車ボタンを押す。
表示された金額は、
八百円。
トランクを下ろしながら、
俺は思った。
失敗ばかりだったな、と。
ミスだらけのスタート。
決して格好いい初日じゃない。
それでも――
一仕事を終えたという安心感のほうが、
確かに勝っていた。
どうしても忘れられない一人。
それは、
俺のタクシー人生を、
確かに走り出させた人だった




