坂道は、呼ばれる
坂道は、街の本音が露出する場所だ。
平地では誤魔化せることも、坂では通用しない。
足腰の弱さも、年齢も、体調も。
全部、正直に出る。
大樋のなるわ営業所を出て、
山側環状に乗ろうとした、その瞬間だった。
会社依頼が鳴る。
画面を一瞥して、少しだけ息を吐いた。
東長江。
環状線のすぐ脇。
表通りからは見えない、坂の奥だ。
――ああ、そういうことか。
ハンドルを切りながら、
頭の中で点が線になる。
ここに一番近かったのは、たぶん俺だ。
こういう依頼は、理由なく飛んでこない。
坂の途中。
道は細く、傾斜は容赦がない。
バス停は遠く、歩くには覚悟がいる。
車がなければ、外に出るだけで一仕事の場所だ。
待っていたのは、足の不自由な人だった。
歩幅は小さく、動きは慎重。
こちらを急がせることはないが、
自分の身体とは、ずっと交渉しているように見えた。
「病院まで」
それだけで、十分だった。
余計な言葉は、必要ない。
走り出してしばらくしてから、
その人がぽつりと言う。
「私、よく富士タクシー呼ぶんです」
自慢でもない。
不満でもない。
ただの事実だ。
ミラー越しに、その表情を見る。
なるほど、と思う。
ここではタクシーは、
便利な移動手段じゃない。
生活そのものだ。
坂道の家は、逃げない。
観光みたいに季節で消えない。
飲み屋みたいに曜日で変わらない。
今日も、明日も、
誰かがこの坂を下りられなくなる。
だから、呼ばれる。
そして、
近くにいる車が、選ばれる。
病院に着き、ドアを開ける。
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
そう声をかけると、その人は小さく頷いた。
それでいい。
この仕事に、派手さはいらない。
坂を振り返ることはしなかった。
だが、確かに残った。
――坂道は、
――街が本当に必要としている場所だ。
俺はまた、次の道へとハンドルを切った。




