僥倖
タクシーを職業にして三日目。
三日目なのに、俺は乗ってくれたお客様すべてに「今日が初日なんです」と嘘をついた。
初日のドライバーには、客は優しい。
声の角が取れて、言葉が少し柔らかくなる。
こちらが不慣れであることを、前提として受け入れてくれる。
その優しさは、仕事を回し始めたばかりの俺にとって、ありがたい毛布みたいなものだった。
罪悪感は――無かった。
……いや、正確には、罪悪感にまで育つ前に、疲れと必死さが先に来ていた。
嘘を吐いているという事実は胸の奥に沈めて、沈めたまま走っていた。
何組かのお客様を降ろし、空が薄暗くなり始めた頃。
俺は昨日も一昨日も実績のあった南町のホテル前に車を寄せた。
ここは“当たる”。理由はまだ言語化できない。けど身体が覚えている。
焦りが出てくる時間帯ほど、俺はこういう「当たる場所」に縋りたくなる。
そして、その通りになった。
ホテル前でカップルが手を挙げた。
男性はロングコート。肩が落ち着いていて、動きが無駄に速くない。
女性は少し派手だが、どこか品がある。
派手さが“目立ちたい”じゃなく、“自分をちゃんと扱っている”方向に見える。
いわゆる「いい女」ってやつだった。
車内に入ってきた瞬間、空気が変わった。
香水とか、服の値段とか、そういう単純な話じゃない。
二人とも、場の温度を自分たちで決められる人間の匂いがした。
ここでも俺は言ってしまう。
「今日、初日なんです」
嘘が口から出る速さに、自分で少し驚く。
まるで、運転操作の一つみたいに自然だった。
年の離れた二人だが、夫婦だという。
奥さんが俺の方を見て、さらっと言った。
「この人ね、昔タクシーのドライバーだったのよ」
俺はバックミラー越しに旦那さんを見た。
目が、静かだった。
派手に笑ったり、威張ったりしないのに、視線がまっすぐで、揺れない。
乗ってきた時からオーラがあると感じたのは、多分、あれだ。
“自分の機嫌を自分で持ってる人”の目だ。
奥さんは続ける。
「日本で一番売り上げのあるドライバーで、当時からタワマンに住んでたんだから」
俺の胸の奥で、何かがコツンと鳴った。
羨ましいとか、すごいとか、その前に――
「そんな人が、いま俺の後ろに座ってる」という緊張が、背中に張り付いた。
失礼を承知で聞いてしまった。
「秘訣って、何ですか?」
言った瞬間、心のどこかで「初日です」って嘘が、少し重くなった。
質問の資格なんかあるのか、と。
でももう口に出した。引っ込められない。
旦那さんは、間を置かずに言った。
「気持ちだよ」
たったそれだけ。
気持ちか。
俺は思った。根性とか、努力とか、我慢とか。
そういう“自分に向ける気持ち”の話だろう、と。
だから俺は、少し背筋を伸ばして、ハンドルを握り直した。
よし、もっと頑張ろう。もっと必死になろう。
そういう方向へ、自分を叱る準備をした。
奥さんは明るく、いろいろな話をしてくれた。
嫌味のないのろけ話で、聞いていて少しうらやましかった。
この人たちは、勝ち負けで生きてないのに、結果として勝ってる。
そんな種類の幸福があることを、会話の端々で見せられている気がした。
目的地の片町が近づく。
街の灯りが濃くなるほど、俺の胸の中の嘘も輪郭を持ち始める。
初日じゃない。三日目だ。
なのに俺は、優しさを引き出すために嘘を使った。
それでも走ってしまうのが、いまの俺だ。
片町に着き、停車する。
ドアを開けて二人が降りようとした、その瞬間。
旦那さんが、ふいに言った。
「最後に、いいことを教えてあげるよ」
声は静かなのに、言葉の芯だけが真っ直ぐだった。
「俺はね、乗ってくれるすべてのお客さんに、幸せになってほしいと思って仕事をしていた」
その言葉が、俺の中に落ちた瞬間――
さっきの「気持ち」が、別の形に変わった。
俺は勘違いしていた。
気持ちって、“頑張る気持ち”じゃない。
“相手に向ける気持ち”だ。
目的地まで運ぶのは、機械でもできる。
安全運転だって、教科書どおりなら誰でもできる。
でもこの人は、客を“運ぶ”んじゃなく、客の今日を少しでも良くしようとしていた。
そしてそれが、結果として売上になっていた。
売上のために客を見たんじゃない。
客を見ることが、そのまま仕事の中心に置かれていた。
俺がさっきまで纏っていた「初日です」という嘘が、
急に、みっともなく見えた。
嘘そのものが悪いんじゃない。
嘘の理由が、俺の小ささを照らしてしまったんだ。
タクシー家業三日目。
こんな素敵な人と巡り会えたことは、俺にとって僥倖だった。
そして同時に、宿題でもあった。
俺は次に誰かが乗ってきたら、
“初日です”と嘘を吐く前に、まず思い出すだろう。
――この人が言った「気持ち」を。
相手に向ける気持ちを、先に置けるかどうかを。
夜の片町へ消えていく二人の背中が、
俺の中の何かを、静かに入れ替えていった。




