表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/17

僥倖

タクシーを職業にして三日目。

三日目なのに、俺は乗ってくれたお客様すべてに「今日が初日なんです」と嘘をついた。

初日のドライバーには、客は優しい。

声の角が取れて、言葉が少し柔らかくなる。

こちらが不慣れであることを、前提として受け入れてくれる。

その優しさは、仕事を回し始めたばかりの俺にとって、ありがたい毛布みたいなものだった。

罪悪感は――無かった。

……いや、正確には、罪悪感にまで育つ前に、疲れと必死さが先に来ていた。

嘘を吐いているという事実は胸の奥に沈めて、沈めたまま走っていた。

何組かのお客様を降ろし、空が薄暗くなり始めた頃。

俺は昨日も一昨日も実績のあった南町のホテル前に車を寄せた。

ここは“当たる”。理由はまだ言語化できない。けど身体が覚えている。

焦りが出てくる時間帯ほど、俺はこういう「当たる場所」に縋りたくなる。

そして、その通りになった。

ホテル前でカップルが手を挙げた。

男性はロングコート。肩が落ち着いていて、動きが無駄に速くない。

女性は少し派手だが、どこか品がある。

派手さが“目立ちたい”じゃなく、“自分をちゃんと扱っている”方向に見える。

いわゆる「いい女」ってやつだった。

車内に入ってきた瞬間、空気が変わった。

香水とか、服の値段とか、そういう単純な話じゃない。

二人とも、場の温度を自分たちで決められる人間の匂いがした。

ここでも俺は言ってしまう。

「今日、初日なんです」

嘘が口から出る速さに、自分で少し驚く。

まるで、運転操作の一つみたいに自然だった。

年の離れた二人だが、夫婦だという。

奥さんが俺の方を見て、さらっと言った。

「この人ね、昔タクシーのドライバーだったのよ」

俺はバックミラー越しに旦那さんを見た。

目が、静かだった。

派手に笑ったり、威張ったりしないのに、視線がまっすぐで、揺れない。

乗ってきた時からオーラがあると感じたのは、多分、あれだ。

“自分の機嫌を自分で持ってる人”の目だ。

奥さんは続ける。

「日本で一番売り上げのあるドライバーで、当時からタワマンに住んでたんだから」

俺の胸の奥で、何かがコツンと鳴った。

羨ましいとか、すごいとか、その前に――

「そんな人が、いま俺の後ろに座ってる」という緊張が、背中に張り付いた。

失礼を承知で聞いてしまった。

「秘訣って、何ですか?」

言った瞬間、心のどこかで「初日です」って嘘が、少し重くなった。

質問の資格なんかあるのか、と。

でももう口に出した。引っ込められない。

旦那さんは、間を置かずに言った。

「気持ちだよ」

たったそれだけ。

気持ちか。

俺は思った。根性とか、努力とか、我慢とか。

そういう“自分に向ける気持ち”の話だろう、と。

だから俺は、少し背筋を伸ばして、ハンドルを握り直した。

よし、もっと頑張ろう。もっと必死になろう。

そういう方向へ、自分を叱る準備をした。

奥さんは明るく、いろいろな話をしてくれた。

嫌味のないのろけ話で、聞いていて少しうらやましかった。

この人たちは、勝ち負けで生きてないのに、結果として勝ってる。

そんな種類の幸福があることを、会話の端々で見せられている気がした。

目的地の片町が近づく。

街の灯りが濃くなるほど、俺の胸の中の嘘も輪郭を持ち始める。

初日じゃない。三日目だ。

なのに俺は、優しさを引き出すために嘘を使った。

それでも走ってしまうのが、いまの俺だ。

片町に着き、停車する。

ドアを開けて二人が降りようとした、その瞬間。

旦那さんが、ふいに言った。

「最後に、いいことを教えてあげるよ」

声は静かなのに、言葉の芯だけが真っ直ぐだった。

「俺はね、乗ってくれるすべてのお客さんに、幸せになってほしいと思って仕事をしていた」

その言葉が、俺の中に落ちた瞬間――

さっきの「気持ち」が、別の形に変わった。

俺は勘違いしていた。

気持ちって、“頑張る気持ち”じゃない。

“相手に向ける気持ち”だ。

目的地まで運ぶのは、機械でもできる。

安全運転だって、教科書どおりなら誰でもできる。

でもこの人は、客を“運ぶ”んじゃなく、客の今日を少しでも良くしようとしていた。

そしてそれが、結果として売上になっていた。

売上のために客を見たんじゃない。

客を見ることが、そのまま仕事の中心に置かれていた。

俺がさっきまで纏っていた「初日です」という嘘が、

急に、みっともなく見えた。

嘘そのものが悪いんじゃない。

嘘の理由が、俺の小ささを照らしてしまったんだ。

タクシー家業三日目。

こんな素敵な人と巡り会えたことは、俺にとって僥倖だった。

そして同時に、宿題でもあった。

俺は次に誰かが乗ってきたら、

“初日です”と嘘を吐く前に、まず思い出すだろう。

――この人が言った「気持ち」を。

相手に向ける気持ちを、先に置けるかどうかを。

夜の片町へ消えていく二人の背中が、

俺の中の何かを、静かに入れ替えていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ