第2節 武道館の悲劇
本校舎の二階、職員室や校長室が並ぶ廊下の最も奥まった一角に、生徒会室はある。
「失礼します、新聞部ですが」代表して私が扉をノックする。
返事はない。もう一度、強くノックして呼びかけてみる。
やがて、扉がゆっくりと開いた。
「……何か?」
扉の隙間から顔をのぞかせたのは、小柄な女子生徒だった。フレームの細い眼鏡の奥から、感情の読めない平坦な視線をこちらに向けている。二年生会計の高梨蜜璃だ。そのクールというか、若干塩対応気味な態度は、一部では「冷酷女王」などと揶揄されているが、仕事の的確さと迅速さは生徒会随一と評されている。
「どうも、高梨さん。生徒会長はいるかな?」
「……会長と副会長は、今、校長室です」高梨は淡々と答えると、すぐに扉を閉めようとした。
「あっ、待って待って!」
閉まりかけた扉を、すかさず三鷹が手で押さえる。
「どうしたのー? びっくりしたじゃん」
高梨の後ろから、ひょっこりと別の女子生徒が顔を出した。同じく二年生会計の斎藤朱莉だ。お茶目な性格で、場を和ませるムードメーカー的存在だが、時折うっかりミスをやらかすのが玉に瑕、と聞いている。
「あ、新聞部の高崎先輩たち! こんにちはー! もしかして、例の件で聞き込みですか?」斎藤は、ぱっと表情を輝かせた。
「まあ、そんなところだ。会長と副会長は、いつ頃戻られそうかな?」
「んーっと、さっきから結構経つから、そろそろじゃないかなぁ? ほら、やっぱり噂通りっていうか、剣道部で大変なことがあったみたいで……」
「朱莉、余計なことは言わない」 高梨が、ぴしゃりと斎藤を制した。
「えー、だってぇ……。でも、本当にヤバいみたいですよ? なんでも、人が……」斎藤は声を潜めたが、その目は何かを言いたくてうずうずしている。
「じゃあ、今日はこの辺で───」私が会話を収めようとしたとき、廊下の向こうから二つの人影が近づいてくるのが見えた。
「あっ。会長! お客さんが来たよーー」
朱莉が手を振る先に、会長の川崎浩司と副会長の日野克がいた。川崎がこちらに気づき、「どうも」と一言。こちらも軽く会釈をする。
川崎浩司。私が出会った人の中で最も食えない男である。常に何を思考しているのか読めない。全てを見透かしているような態度、発言、挙動。その一挙手一投足に何か意味があるものだと自然と感じてしまう。ゆえに、慎重に言葉を選び、発さなくてはならない緊張が常に張り詰めてくる。
初めて川崎にあったのは、六月の中旬に行われた生徒総会前の予算編成の時だ。嵯峨ノ原高校では、一年の部活動活動費を決める生徒総会が例年、六月中旬に行われる。生徒会本部が予算案を作成し、それを総会に提出して採決するという流れだ。予算案の作成の際に「事前調査」という形で、それぞれの部活動の代表と本部役員の事前会談が行われる。そこで双方の合意が取れれば、生徒総会で異論なくスムーズに可決される。いわば、「事前調査」こそが真の生徒総会であると言える。先月の会談で川崎と私が対面し、合意形成するまで約5時間かかった。これは、歴代最長の記録だそうだ。その日の帰りは夜10時になっていたことをよく覚えている。
「お久しぶりですね、会長。生徒総会以来かな?」
「ああ、予算の編成は、新聞部が一番難しかったから覚えているよ。部長の高崎くん? だよね」
「ええ。覚えていただいて光栄です」
「最近の新聞部はどうだい? 私の記憶が正しければ、今年は部員が一人しか入らなかったようだが」
「痛いところを的確に突いてくる。流石ですね」
「褒めてくれて嬉しいよ。高崎くん」
今私がしたいのは、上面の言葉を並べる遊びじゃない。早く本題に移らせてもらおう。
「そういえば、」
私は意識的に声のトーンを下げて話し始めた。場を掌握するのには、雰囲気を制するということをこの3年で学んだ。
「今朝の騒ぎ……剣道部で、何か重大な問題が発生したようですねぇ。……川崎会長は何かご存知ですか?」
「さあ、どうだか」
川崎はとぼけた顔をしながら答えた。
「そうですか。でも今しがた校長室に出入りされましたよね? 何か情報を共有されたのでは?」
川崎は目を少し細め、私をじっと見据えた。
「ほう……。もし、仮にそのような情報を持っていたとして、それを新聞部の皆さんに提供することに、こちら側としては、どのようなメリットがあると?」
来たか。予想通りの切り返しだ。
「メリットですか? もちろん、ありますとも。我々はこの学校の報道機関です。生徒会の活動を好意的に報道し、その評価を高めることもできれば、その逆もまた然り。情報は、使い方次第で薬にも毒にもなります。……聡明な会長なら、この言葉の意味、ご理解いただけますよね?」
半ば脅しに近い言葉だ。新聞部として、決して褒められたやり方ではないかもしれない。だが、情報を引き出すためには、時にこのような駆け引きも必要となる。どこかの政治家にでもなった気分だ。
「ハハ。面白い。実に面白い。気に入ったよ、高崎くん」
川崎は、くるりと踵を返し、我々を生徒会室の中へと促した。
「川崎! こいつらに……」
副会長の日野が納得のいかない様子で止めに入った。が、川崎は右手を出し、無言でそれを制止した。日野については、あまりよく知らないが、どうやら川崎とは深い仲らしい。
「どうぞ、ソファに。ああ、高梨くん。悪いが入口の鍵を頼む」
「……わかりました」
正式に我々は生徒会室に招き入れられたということだろう。生徒会室は、あまり入ったことがなかったが、ずいぶん立派だ。部屋の中央には、来客用なのだろう、重厚なワインレッドのソファが二つ、向かい合わせに置かれている。壁際には、生徒会役員の使う事務机がいくつか並び、奥には一際大きな、おそらくは会長専用であろうデスクが鎮座している。まるで、どこかの会社の応接室か役員室に迷い込んだかのようだ。
我々は促されるままにソファに腰を下ろし、川崎は向かい側のソファに座った。日野も続いて川崎の隣に座った。高梨は鍵を閉めた後、黙って自分のデスクに戻りパソコン作業を再開した。斎藤は、興味津々といった様子で、少し離れた場所からこちらの様子を窺っている。
「さて、ここから話す内容は、まだ一般生徒には伏せられている、極めて機密性の高い情報だ。くれぐれも情報の取り扱いには注意してくれたまえ」
「録音しても?」私が尋ねると、川崎は少し考えた後、頷いた。
「構わん。厳重な管理下に置かれているなら、何も言うことはない」
「ありがとうございます」
形式上、お礼を述べた後、私は「松戸」と小声で指示を出した。
松戸は、制服のポケットから小型のボイスレコーダーを取り出し、机の上に置いた。赤い録音ランプが、静かに点灯する。
「先程、校長先生と警察と俺たちで情報を共有してきた。内容としては……単刀直入に言うと、此度の騒動は、『殺人事件』だ」
空気がピリついた気がした。「殺人事件」という言葉は、小説やドラマの中でしか聞かない。現実で実際に聞くと、その言葉の重みを感じた。
「現場は武道館の一階にある教官室。知ってのとおり普段は、柔道部の豊橋先生と剣道部の多部先生によって使用されている場所だ。そこで今朝、剣道部2年の藤沢智也という生徒がうつ伏せで倒れているのを剣道部部長の佐渡が発見した。柔道場や剣道場には、常にカギが掛けられていて、そのカギは教官室で常に保管されていたらしい。佐渡は朝練をするために、剣道場のカギを取ろうとして教官室に行ったところ、藤沢を発見したということだ」
「朝というとどのくらいの時間に?」
「だいたい6時半くらいだと聞いている」
剣道部の朝練は早いな。新聞部はその点良かった。朝練などというシステムがうちにあったら、今頃、部員が過労死するだろう。
「藤沢くんの死因は?」
「藤沢は身体中に殴られたような傷───恐らく、竹刀で叩かれたような傷───があり、その上、背後からナイフで刺されたようだ。直接的な死因は、まだ判明していない。そして、ここからが奇妙なのだが……」
川崎は身体を前のめりにして、話を続けた。
「警察の現場検証によると、血痕の様子から殺害現場は教官室ではなく、二階の剣道場である可能性が極めて高いそうだ。藤沢の荷物も剣道場にあったしな」
「では、犯人は剣道場で藤沢くんを殺害した後、わざわざ教官室へと運んだということですか?」
松戸が疑問を呈する。
「ああ。しかし不可解なことに、剣道場から教官室へと続く階段や廊下には、引き摺られた跡がなかったそうだ。つまり、地面に付かないようにして、例えば担いだりして、運んだのではないかと警察は見ている」
剣道場で殺し、教官室に運んだとすると、その意図はなんだ?
そもそも、教官室で殺されたということはないのか? いや、日本の警察にあおのような間違いはあり得ないだろう。となると、「なぜ」運んだのか? それとも、運ぶ「必要性」があったのか……。
「現場の状況を話そう」川崎は続けた。
「剣道場には、殺害現場らしき血痕のそばに、血のついた竹刀があったという。恐らく、それが藤沢をボコボコにした凶器だと警察は考えている」
「なるほど」
「そしてもう一つ」川崎は人差し指を立てて言った。
「剣道場の壁際に設置されている、普段体育の授業の時に使う竹刀置き場があるだろ。その中に一本だけ、これも血のついた竹刀が置いてあったそうだ」
「一本だけ……? たくさんの竹刀の中で?」
「ああ、奇妙だが明らかに一本だけだそうだ」
「その竹刀も凶器として使用された……と?」
「それも凶器だという可能性は十分にあるだろう。ただ、どちらの竹刀も特に壊れていたわけではないため、二本目を使用する意図はわからないな」
二本の血染めの竹刀。一本は現場に、もう一本は竹刀置き場に。壊れてもいないのに、なぜ二本も使ったのか? 藤沢に激しく抵抗され、一本目を手放してしまい、やむなく近くにあった二本目を使ったということか? だとしても、なぜ使用後に一本だけを律儀に片付けたのか? 疑問が次々と湧き上がってくる。
「……では、死亡推定時刻などは?」
「死亡推定時刻は、だいたい昨日の夜7時〜9時の間だそうだ。昨日は剣道部と柔道部、どちらも活動はオフの日で、藤沢が自主練として一人で剣道場を使っていたらしい。つまり、犯行時刻には藤沢以外誰もいなかった可能性が高い。密室という訳ではないにしても、目撃者を見つけるのは困難だろう」
藤沢が一人のところを意図的に狙った、ということか。となると、犯人は武道館の部活動状況を知っていた人物……剣道部員、柔道部員、あるいは顧問。いや、職員室に掲示されている施設利用表を見れば、外部の人間でも知ることは可能か……。
「犯人の目処は?」
「さあね。外部の人間かもしれないし、剣道部の部員の犯行かもしれない」
川崎は言葉を濁した。憶測で物を言うつもりはない、ということだろう。本校の生徒が犯人だったとしたら、それはあまりにも悲しい結末だが、その可能性から目を背けるわけにもいかない。
「参考までに、剣道部員の顔と名前がわかるような資料をいただけませんか? 我々も、独自に調査を進める上で必要になるかもしれません」
「ふむ、なるほど。それくらいなら協力しよう。高梨くん、悪いが、例のモノを出してくれるかな」
川崎の指示を受け、高梨は黙って立ち上がり、部屋の隅にある鍵付きの書類棚に向かった。中からファイルを取り出し、一枚の集合写真を取り出してこちらへ持ってきた。
「これは、剣道部が去年、県大会で優勝した時の記念写真だ。現3年生と、被害者の藤沢くんも写っているはずだ。原本の持ち出しは厳禁だが、コピーして渡すことなら可能だ」
川崎は写真を受け取り、テーブルの上に置いた。写真の中では、道着に身を包んだ少年たちが、誇らしげな表情で並んでいる。その中の一人が、もうこの世にいないとは、にわかには信じがたい。
「前列中央、トロフィーを手にしているのが、当時の部長、赤羽。今はもう卒業している。その右隣、現部長の佐渡。その隣が、副部長の堺。そして、その隣、葉山。さらに隣が、茅ヶ崎。この四人が、現3年生のメンバーということになる」
川崎の指が、写真の中の少年たちを一人ずつなぞっていく。
「そして、後列。佐渡の後ろにいるのが、今回犠牲となった藤沢智也くんだ。彼の隣が鶴岡。その隣が、上尾。あとは……まあ、その他、といったところかな」
「さて、と」
川崎は、話は終わりだと言わんばかりに、すっとソファから立ち上がった。そして、自ら入口のドアの鍵を開けた。我々も、促されるように立ち上がる。
「俺が知っている情報はこんくらいだ。あとは、この情報をどう料理するかは任せるが、うちの株を下げるような真似をしたら、予算がどうなるか……わかっているよな?」
ハハ。脅しには脅しか。
「ご心配なく。もちろん大切に使わさせていただきますよ、川崎会長」