サマーメモリー ~家族を裏切り、永遠に失った夏~
一年前、私は夫と娘を捨てた。
後悔してもし切れない。
優しい夫と可愛い小学生の娘、そして私の三人家族。
笑顔の絶えない幸せな家庭だった。
私は家計の足しにしたいと、近所のスーパーでパートを始める。
それがすべての始まりだった。
二年前の冬。
パート先の店長に口説かれ始めた。
最初は相手にしなかった。
『いつも綺麗ですね』
『僕なら貴女を放っておかない』
『一度食事に行きませんか』
忘れていた私の中の「女」が首をもたげる。
私を「妻」や「母」ではなく「女」として見てくれる店長。
いつしか彼の口説き文句に陶酔していった。
そして、彼の熱意に負け、身体の関係を結ぶ。
私をひたすらに求める獣のような激しいセックス。
身体の中を走る快楽に溺れていく。
『貴女との出会いは運命的だ』
『妻とはもう別れる』
『いつか一緒になろう』
不倫は麻薬。
一度ハマれば抜け出すことは困難だ。
もう火遊びでは済まされない。
彼と一緒になりたい。
私の中で夫と娘は、邪魔な存在になっていた。
昨年の夏。
夫が私の目の前に投げ出した書類と写真。
『調査報告書 ✕✕探偵興信所』
不倫がバレた。
しかし、私は狂っていた。
離婚する良いタイミングだと考えたのだ。
結婚前からの貯金で慰謝料を支払い、離婚。
親権も手放し、面会も不要だと断った。
夫から養育費はいらないと言われる。
ラッキーだと思った。
私は夫に言った。
「あなたには男としての魅力を感じない」
「私は運命の出会いを果たし、真実の愛を知った」
「出会う順番が違っていただけ」
「あなたとのつまらないセックスは苦痛だった」
「二度と会うことはない」
そして、私は娘にも言った。
「私はもうお母さんではない」
「街で見かけても声をかけないで」
「もう二度と会わないし、会えないからね」
泣き叫ぶ娘を抱き締める夫。
私を睨みつけていた。
何とも思わなかった。
あとは彼の奥さんに慰謝料を払えば完了。
彼も離婚することにしたらしい。
慰謝料の支払いで私の貯金の大部分が無くなった。
それでも、これで彼と結ばれると喜んだ。
荷物を持って家を出ると、照りつける夏の太陽が待っていた。
その年の一番の暑さを記録した日。
私にとっては人生最良の一日になった。
今年の二月。
お互いの離婚のごたごたも落ち着き、彼と籍を入れた。
これで名実ともに彼の妻となった。
彼も大喜びしている。
私は人生の絶頂期を迎えた。
あとは転がり落ちるだけだと気付かずに。
三月。
彼が懲戒解雇された。
パートの既婚者(私)と不倫していたことがバレたのだ。
貯金は残りわずか。
でも、私たちなら大丈夫。
真実の愛が私たちを結んでいるから。
四月。
彼の職探しが難航。
「懲戒解雇」という事実が重くのしかかっていた。
私たちの貯金は底を尽きつつある。
五月。
仕事と金のことで、彼との喧嘩が絶えなくなった。
「なんでこんな女と一緒になってしまったんだ」
彼の言葉に愛情が冷めていくのを感じた。
六月。
離婚届を残し、彼が消えた。
もう涙も出なかった。
離婚届を提出して、彼の部屋を出る。
七月。
なけなしの貯金で安アパートを借りた。
親からは縁を切られているので援助は望めない。
毎日パートで働いても、かつかつの生活だ。
八月。
家族を捨てた日から一年。
エアコンも無い安アパート。
壊れかけた扇風機が熱風を送ってくる。
私は汗を掻きながら、一枚の写真をずっと眺めていた。
二年前の夏に家族旅行で箱根に行った時のものだ。
手元に残る唯一の家族の履歴で、私の心の支え。
箱根ピクニックガーデンのユリ園で綺麗な花を楽しんだ。
芦ノ湖で海賊船を模した遊覧船に乗った。
お土産に寄木細工の小物入れを買った。
本当に楽しかった。
写真の三人は幸せそうな笑顔を浮かべている。
娘の部屋にもこの写真が飾られていた。
私は写真と財布だけを持って外に出る。
酷暑とは言え、部屋の中よりも風が心地良い。
私の足は無意識のうちに以前住んでいた家へ向かっていた。
炎天下の中、どれだけ歩いただろうか。
家が見えてきた。
しかし――
『売物件』
――もうあのひとと娘はいなかった。
敷地内に入り、鍵の隠し場所を探ると、まだ鍵があった。
その鍵で家の中に入ると、淀んだ熱気が出迎えた。
微かに懐かしい匂いがする。
当たり前だがもぬけの殻。
家の中はがらんとしていた。
こんなに広かったのかと記憶との差を埋めていく。
居間に入った。
何も無い部屋の真ん中にポツンと紙くずがあった。
その紙くずを手に取り、広げる。
私は膝から崩れ落ちた。
娘の部屋に飾られていた家族旅行の写真だった。
私の顔が黒いマジックで塗り潰されている。
私は持ってきていた自分の家族写真を震える手で床に置く。
そして、自分の顔が塗り潰されたぐちゃぐちゃの写真をポケットにしまった。
私は自分の犯した不倫という罪の重さ、そして自分が捨てたモノの大きさに気付き、心が潰れそうになりながら家を後にした。
居間に残された写真は、誰に見られることもなく、夏の熱気に晒されながら、幸せそうな三人家族を映し出していた。