闇の街シェイド 5
シェイド5
私はどうしてしまったのだろうーー。
闇の中でひどく心地の良い時間を過ごして、世界に一人きりになって、そこからーー。
何人かの声と、まぶしい明かり。担ぐように鉱山から連れ出されて、それでーー。
甘く、柔らかなミルクのような香りに包まれていた。
繊細な何かが、唇に触れた。
思わずその心地よい刺激に、息をついた。繊細なそれは、息をはいた私の唇に再び重ねられた。
優しい小さな光。影が揺れている。闇の中じゃない。
だけど、ここはこんなにも優しい。
柔らかな香りが強くなった。抱きしめられているのだと、ようやく気付いた。
「アン、ジュ……」
名を呼ぶと、細い指が私の髪を撫でた。
「ユルク、大丈夫だからね」
「うん……」
我ながらなんとも弱弱しい声が出た。アンジュの手を握る。
大丈夫、大丈夫、大丈夫ーー。
ほんの一時、妙な夢を見ただけだ。あの、暗闇に飲まれる夢を。
アンジュがいる、だから大丈夫。もう一度アンジュの胸に顔を埋めて深呼吸した。
「アンジュ、迷惑かけてしまってごめんね。もう、大丈夫だから」
「本当に、ユルク? 無理してない?」
「立ったら少しふらつくかもだけど、問題なし! アンジュ、ずっとそばにいてくれたんだね、ありがとう」
「なんにも出来なかったけど……」
「そんなことない! アンジュの存在で私、闇の中から帰って来れたよ」
「うん、なら良かった」
薄暗い部屋の時計を見るともう八時を過ぎていた、ユルクはなんとか身を起こして言った。
「アンジュ、朝ごはんにしようか。もうお腹空いてるだろう?」
「ユルクはご飯食べられそう?」
「なんとか」
二人で乱れていた服を整え、アンジュに手を引かれるようにして一階の食堂へ向かう。
そこには日の目の女性がいて、脇のテーブルに大きな荷物袋があった。
「おはようございます」
「おはようございます、ユルク様、アンジュ様。ユルク様、ご機嫌はいかがですか?」
「ありがとうございます。おかげ様でなんとか。あの、その袋は?」
「ユルク様が砕石した闇の鉱石の一部です。少ないですが持って行ってください」
「そんな、私は鉱山の人に迷惑をかけてしまったのに頂くわけには……」
私が辞退すると、日の目の女性が優し気に笑った。
「ユルク様はなんとも力持ちであらせられるようで。工夫が一週間はかかるほどの距離を採掘なさったそうですよ。これでも少ないくらいだと鉱山の者たちが言っておりました」
「そうなんですか? ひたすらに掘り進めていたもので……では、ありがたく受け取らせて頂きます」
「はい、是非。さぁさ、朝食の準備も整いました、どうぞお召し上がりください」
私たちが話し込んでいる間に食事の準備は済まされていた。
日の目の女性は遠慮がちに離れたところに座りコーヒーを飲み始めたようだ。
私もぼやけた頭を覚ますべくコーヒーをお願いする。良い香りがする琥珀色の液体がすぐに運ばれて来た。
アンジュはフルーツティーを頼んだようで、さわやかな香りが流れて来た。
「それじゃあ、いただきます」
「いただきます」
アンジュと向かい合って手を合わせる。まずはコーヒーをブラックで。
もやもやとしていた頭に心地よい刺激が通る。
朝食はパンとシチュー、サラダであった。パン生地はほんのり甘くシチューとよく合う。
シチューは具沢山の甘口で、よく煮てあって具材が口の中で溶ける。
サラダは新鮮な野菜を使っているのだろう、食べると心地よい歯ごたえで水分をふんだんに含んでいた。
「美味しいね、ユルク」
目の前でニコニコと美味しそうに食べているアンジュが愛らしい。
私もどこか心が暖まるような食事に、ゆっくりと気持ちがほぐされるようであった。
「そういえばアンジュ、シェイドの観光はもういいの?」
「うん、昨日ゆっくりしたから。ユルクは?」
「私は今日一日見て回りたいかな、鉱石の採集は無事終わったし」
「なら、日の目の人の受け売りだけどわたしが案内してあげるね」
私たちは食事を終えると、部屋で一休みして観光に出た。
ロウソクが作られている場所や、皆の暮らしを支える食料関係の場所が多かった。
あとは坑道で、ハーロイに比べると見て回るところも多くなかった。
「ハーロイは本当に観光者向けの場所だったんだね」
「うん、わたしはハーロイしか知らないけど、色んな旅行者さんたちが来ていたよ」
宿への帰り道、アンジュが私の手を取りながら言った。
「でも、ユルクがよくなって本当に良かった!」
「ありがとう、たくさん心配かけたよね、ごめんね」
「ううん、謝らないで。そばに居ることしか出来なかったし」
「それが私の救いになったんだよ」
アンジュの髪を撫でながら言うと、アンジュは嬉しそうに微笑んだ。
「それなら良かった! ユルクのためならわたし、なんでもする」
「それは心強いな」
手をつなぎながら宿への帰路につく。アンジュの細い指がこしょこしょと動く。
そのたび、私も手を握り返す。そんなささやかな幸せが心地良い。
宿についたころには時刻は夕方に差し掛かっていた。思ったよりもゆっくり見ていたようだ。
明日の出立に備え荷物を確認しておく。鉱石を運ばねばならないのが少し手間であった。
「ユルク、その闇の鉱石だっけ? それを持ってハーロイに戻るの?」
「いや、ほかのギルドでも鉱石の受け付けはしてくれるらしいから、明日冒険者ギルドに寄って行き先を決めようと思っているよ」
「そうなんだ、ギルドは便利だね」
ベッドの上で荷造りしている私に、アンジュは肩を寄せて来た。
「私はこの世界をほとんど見ていないし知識としても知らないから、どこにでも行ってみたい気持ちはあるけれど、アンジュはどこか見てみたい街はあるのかい?」
「えー、そうだなー、芸術の街アステルや炎の街レグラムとか見てみたいかなぁ」
「へぇ、それはどんな街なんだい?」
「芸術の街アステルは、旅芸人を多く招いていて、色々な見世物小屋が並んでいるらしいの。夜の酒場では吟遊詩人が詩を詠んで、とっても活気にあふれた街なんだって。炎の街レグラムは、様々なものを生産している鍛冶の街。ナイフやフォークから剣にいたるまで生産している、いわば生み出す街なの」
あ、でも大地の街ルドラにも行ってみたいなー、とアンジュの行きたい先は止まらない。
「芸術の街に炎の街か。私も見てみたいな」
まだまだこの世界には見るものが溢れている。そう思うと私の好奇心も刺激された。
「わたしもギルドの依頼受けてみようかなぁ、一応冒険者になったわけだし」
「焦る事はないよ、ふたりでひとつ受けてゆっくり世界を見て回るのがいいさ」
「うん、ユルクとずっと一緒」
膝に寝転んできたアンジュが笑顔で言った。その髪を優しく撫でる。
「アンジュとずっと一緒だよ。離れないでね」
しばらく膝にかかる心地よい重みに意識を傾ける。
アンジュの横顔をなぞってはその綺麗なラインに心奪われた。
「やん、ユルクくすぐったい」
「ああ、ごめんごめん」
慌てて手を離すも手持ち無沙汰で、今度はアンジュの髪を撫でた。
サラサラの銀髪は積もったばかりの雪原のようであった。
「明日はギルドに寄って街を出るけど、思い残すことはない?」
「うん、素敵な街だからいつまでもいたいけど、新しい場所も見てみたいから」
「そっか、そうだね。この世界を回りつくしたいもんね」
指先で弾力のある頬に触れた、アンジュは笑っている。
「もうっ、ユルクはイタズラさんなんだからー」
「アンジュが可愛いから、ついね」
「そんなんでごまかされないもん!」
アンジュが私の脇腹に手を回してきて、こそこそと動かした。
思わず笑いがもれるが、アンジュは攻撃の手をゆるめない。
「あはは、わかったわかった、まいったよアンジュ!」
「えへへ、くすぐられるユルクも可愛いもん」
「そんなことないよー」
ベッドでアンジュとじゃれる時間はかけがえのないものになりつつある。
ひとりが気楽だったころの自分を、今ではよく思い出せない。
アンジュがいなければ不安で心配で、泣きわめいてしまうかもしれない。
それだけ大切な人に出会えた感謝を胸に、アンジュに向かい合った。
「アンジュ、本当にありがとう。私はひとりが気ままでいいと思っていたけど、アンジュと旅をしてからはアンジュがとてもかけがえのない人になったよ。一緒にいてくれて、ありがとう」
「ユルク……わたしも! わたしもユルクがいてくれて嬉しい。ひとりぼっちにしないでくれてありがとう。あんないきなりの申し出を受け入れてくれてありがとう」
言葉にしたら気恥ずかしいことも、アンジュの前では素直に伝えられた。
照れや恥ずかしさよりも、伝えたいという気持ちが勝る。
同性だから話しやすいのだろうか。だけど、この胸の高まりはーー。
アンジュを特別に思っている気持ちの証左であった。