ハーロイの街 1
ゆるく異世界放浪記 ~第一話、水上都市 その一~
この世界の馬車の乗り心地は、機嫌の悪い男が運転する車に似ている。どちらも適度にスリリングで、外の景色だけはやたらと魅力的だ。
ガタガタと派手に揺れる馬車の荷台の片隅で、私は悪友が言ったつまらないジョークを思い出していた。私の座るスペース以外は荷物で埋め尽くされている荷台の中で、ふうっと一つ息を吐いて苦笑し、詰まれた藁の束に背を預け外の景色に目を向ける。
この見知らぬ世界で旅をはじめ、沢山の荷物を馬車に運び込む事に苦戦していた行商人に、私は荷物の積み込み係を買って出た。当初は訝しげな顔をしていた商人だったが、テキパキと荷物を纏めて馬車に積み込んでいく私の手際にすっかり感心し、積み込み係として馬車に乗ることを認めて貰ったのだ。
引越し屋での短期バイトがこんな所で役に立つとは、旅をはじめたばかりの私には思いもよらぬ幸運であった。
そのうえ、行商人は私が外出時に持っていた道具の数々にも興味を示し、これは珍しいとライターや懐中電灯といったいくつかの道具を、非常に高値で買い取ってくれた。
おかげで私は、この未知の世界で旅費の心配をすること無く旅を続けられた。
「ユルク、見えてきたぞ」
「本当かい? マーロウ」
馬車の前方で馬を走らせている行商人のマーロウが私に声を掛けた。
狭い荷台の中を這うように前進し、屋根付きの荷台を抜ける。湿気を帯びた風が、髪を揺らす。
一つ大きく深呼吸をする。海のかおりを思わせる、水辺の空気を胸いっぱいに吸い込むと、マーロウの横に腰を降ろした。大きな馬車の先頭は、二人が座ってもまだ余裕のあるゆったりとした作りだ。
白い髭に赤茶の帽子をかぶったマーロウが馬車の手綱を握っていた片手を離した。
「ほれ、ユルク。あれだ」
マーロウの指さした先には、木造の民家と思しき建物がいくつも立ち並んでいた。家と家のかすかな隙間からは、光が溢れている。キラキラと輝きを放っているのは、陽の光を全身で照り返している水面であった。
「あれが、水上都市……」
「そう。お前さんのお目当て、水上都市ハーロイだ。……よっと」
マーロウが馬に鞭を入れる、乾いた音が辺りに響いた。馬車が走っていた街道を外れ、水上都市目指して進んでいく。整備されていない道に、馬車の揺れが更に激しくなった。荷台の荷物たちが、うらめしそうにガタガタと抗議の音をあげはじめる。
荷物運びとして雇われた私の馬車の旅が、終わりに近づいていた。ハーロイをじっと見つめて目を輝かせている私の横顔を見て、マーロウがにっと笑った。
「子供みてぇな目をしているな、お前は。霧の都で会った時はよ。水上都市が見たいから馬車に乗せてくれ、なぁんていきなり言われてびっくりしたもんだけどな。けどまぁ、荷物持ちとして雇ってみたら大の男が二人がかりで持つ荷物までひょいひょい運んじまうんだ、驚いたもんだぜ」
「こっちこそ本当に助かったよ、マーロウ。アテもなくて歩いていくつもりだったんだけどね。それは無理だって笑われたっけ?」
「当ったり前だ! 何日かかると思ってやがる。本当に面白い奴だ。おし、着いた」
文字を刻まれた石造りの大きな建物の前で、馬車が止まる。
私が少し見かけた文字が正しければ、ここが街への入り口となっているはずだ。ぴょんと馬車を飛び下り、自分の荷物を荷台から降ろす。その様子を見ていたマーロウがため息をついた。
「やれやれ、こっから先は私が自分で荷物の積み降ろしをしないといけねぇと思うと、本当に憂鬱だぜ」
「あはは。荷物の持ち運びのコツは教えたでしょ? あとは慣れだよ。ヒモの結び方とかも、ちゃんと練習すればすぐ身につくよ。怪我には気を付けてね。あと、これを」
「これは?」
数枚の紙を差し出す。眉をしかめながら受け取ったマーロウが、その一番上の紙に視線を落とし、私に尋ねた。
「文字はまだちょっと勉強中だけど、絵も交えてヒモの結び方や荷物の運び方を書いておいたよ。人を雇う時にも役に立つかもしれない。持っていって」
「そうか。ありがとうよ」
紙を服の懐にしまったマーロウが、馬の轡をとって馬車を降りた。休憩の合図なのか、馬はその場で草をはみ始めた。
マーロウが右手を差し出す。私もそれに応え、がっちりと握手を交わす。
「楽しかったぜ、ユルク」
「私もだよ、マーロウ。色々、ありがとう」
「俺もお前も旅を続けてれば、またいつか会うこともあるかな。そんときまで、元気でな」
マーロウは握手を終えると再び馬車に飛び乗った。そして、荷台に置いてあった小さな皮袋を一つ引っ張りだした。
「ほれ、取っときな」
「これは?」
投げ渡された袋を受け取って、首を傾げてマーロウに問う。マーロウが微笑んだ。
「短い間だったが、正直五人分くらいは働いて貰った。それに、お前の話す元々居たっていうおかしな世界の話も面白かったよ。この不思議な道具たちも使い勝手がいい。何より俺はお前が気にいった、だからやるよ」
「けど、もうお金は十分……」
「いいからとっとけ。なに、大したもんじゃねえよ。じゃあな、ユルク。また会おうぜ」
「マーロウ!」
手を振ったマーロウが馬に鞭を入れた。二頭の馬が、気だるげに駆け出して行く。大きく揺れる馬車の先頭で、マーロウがライターをかざして笑っていた。
私は、そんなマーロウの馬車が見えなくなるまで手を振り続けた。
また一つ、この世界で温かい気持ちになった。胸に満ちていくようなぬくもりに、頬が緩む。渡された皮袋には、数枚の金貨と葉巻が五本ほど入っていた。
マーロウがいつも吸っていた、甘い香りのする葉巻だ。彼のお気に入りで、南方の都市でしか買えないというものである。
「気前良すぎだよ、マーロウ」
見えなくなった馬車の方角に向けて呟くと、もう一度大きく手を振った。紙の束の中に仕込んだマーロウへの手紙には、いつ気がつくであろうか? そんなことを考えてくすりと笑い、荷物を背負う。
目の前では、石造りの建物がなかなか入ってこない訪問者を待ち焦がれていた。
「水上都市ハーロイか……」
もう一度水辺の空気を深く吸い込むと、私は建物の中に進んでいった。
・・・
(ここは、不思議な街だ)
石造りの建物で入国手続きを終えた私は、そこにいた男に案内された小高い丘に建てられた国境線の上の小屋から窓の外を眺めていた。街を一望できる水平線に目をやりながら、ゆっくりと息を吐いた。
その額にうっすらと汗がにじんでいる。
水上都市ハーロイ。街の気候は熱帯に近く蒸し暑いが、水の上を吹き抜けてくる風は心地よい涼しさを運んでくれる。この小屋に案内してくれた男の姿は、まだ見えない。私は持っていた日記帳を開いた。
かつて大地の神の怒りを買い、地面を奪われた。そんな伝説が、この都市にはあるのだそうだ。
この場所は、地面を大きなカルデラ状にくりぬかれた形の、荒れた大地となっていた。それを哀れんだ水の神の涙が地面にたまり、今の水上都市を形作ったのだという。
マーロウが旅の道中に話してくれた伝説は、現実的に考えればあまりにも荒唐無稽なものであった。
だが、いやだからこそ、見知らぬ異世界に迷い込んだ私にとっては、胸の躍るような伝説であった。
それに、伝説好きな冒険者たちにはいかにもウケの良さそうな話である。
酒に酔い、鼻息荒くこの都市の伝説を語ったマーロウの顔を思い出し、ふっと苦笑した。マーロウの顔を赤く照らした、二人で囲んだたき火が懐かしい。
目の前に広がる光景を目の当たりにして、彼のあの剣幕も納得出来るという気がした。
水面に広がる街並みに目を遣り思案をめぐらせていると、こちらに向かって一艘の小舟が滑るように近づいて来た。
小舟の上には、この小屋に案内してくれた青年が乗っている。
「いやぁ、すっかりお待たせしちゃって。種まきに行っていた舟がようやく戻りました。どうぞ」
日焼けした肌に人懐こい笑みを浮かべるこの青年は、ハーロイの国境線で警備と街のガイドを仕事にしているという。ナッツと名乗った彼に入国のための手続きに声をかけたのは、もう三十分程も前である。
手続きは簡単なもので、マーロウから受け取った賃金の十分の一も払うこと無く入国することが出来た。宿も手配してくれるのだという。
ナッツが言うにはこの水上都市では、その景観を売りにした観光も大きな事業の一つなのだという。旅人に寛大な都市は、こちらとしてもありがたい限りである。
ただ、旅行者を乗せて水上都市を行き来する小舟が、ちょうど出払ってしまっていた。
街の人間が使う粗末な小舟は、舟になれていない人間を乗せるのは危険なのだというと、その小舟に乗ったナッツは舟を求めて水面に漕ぎ出してしまった。
それでも、ハーロイ名産だといって出してくれた女神の水で入れたお茶を飲みながら、ゆっくり水平線を眺める時間は、決して悪くは無かった。
もともと、急ぐ旅ではないのだ。ほんのりと香る紅茶によくにたお茶は、しっかりとした甘味を含んでいた。馬車に揺られて疲れた体には、その甘味が心地よかった。
ナッツに案内されて、小屋の中に作られた船着場に降りる。水と共に生きるこの都市では、木造の小屋の殆どが、一階部分に小さな船着場があるのだという。
木造りの小屋の中にある小さな港は、それ自体が私にとっては目新しいものであった。
「足下に気を付けてくださいね」
そういうと、ナッツは器用に小舟に飛び乗った。小舟はさして揺れることも無く、ナッツを受け止めた。思いのほか、船底は安定しているのかもしれない。ナッツに続き、舟に片足をのせた。
ぐらりと、舟が大きく左に傾く。
「うわっ!」
思わず、舟にのせた片足を地面に戻した。足に、しっかりとした感覚が伝わる。ずっしりとした地面は、やはり安心感があった。
「僕がバランスをとりますから、大丈夫ですよ。のったら真ん中に座ってください」
思わず身を引いた私にナッツが笑顔で声をかけ、舟の中心を指さした。ご丁寧に、そこには一枚のこった刺繍の施された布が敷いてある。客人を座らせる場所なのだろう。
先ほどとは大違いのたどたどしい足取りでなんとか舟にのりこむと、私は指定された場所に荷物とともに腰かけた。
川辺を旅行したときに何度も嗅いだ、水面特有のかおりが一層濃くなり、私の鼻をくすぐった。聞いたことの無い鳥の鳴き声が、水平線を泳ぐように響いている。
知らない場所に来たのだと言う事を、全身で感じる。小舟は、静かに水面を滑り出した。
水をかき分ける静かな音とともに、目の前に水の街が広がっていく。一面に広がる水面は、晴れ渡った空を映し出し真っ青に色づいている。目をあげれば、真っ青な空。視線を戻せば再び、世界を青く映し出す水。
空と水面が一つになったような青い世界に、千切れ、はぐれた雲が白い影を落とし流れてゆく。全てを映し出す鏡のようだ。
水面を見つめると、そこに映った不思議そうな顔をした自分の顔が見つめ返してきた。
口元がほころぶ。
なんという場所なのだろう。
なんという空なのだろう。
無限に続く青に、一瞬のような永遠を感じる。小さな小舟が、青い世界を少しずつかき分けて進んでいく。それに乗って自分は、この青い世界の中心に進んでいくのだ。
なんという、贅沢な時間なのだろう。
中心に進んでいく小舟の上で、大きくため息をつき、もう一度周囲を見渡した。ポツリポツリと、水面に生えている塔のようなものが見えた。岸には、水面を囲むようにぐるりと木造の小屋が広がっている。
「あの塔のようなものは、なんだい? 建物の作りが、周りの小屋と随分違うね」
「はい。水の中に作る建物は、全て石造りになっています。石は水の中でもしっかりと組めますからね。この建物たちは、石を一個一個沈めて長い時間をかけて作っていくんですよ」
「凄いな。この建物、石を一個一個詰んで作っていくのかぁ」
ナッツが小舟を建物に寄せてくれた。目の前に、ひときわ大きな塔がそびえ立っている。ナッツに尋ねると、これは中央省庁の建物らしい。街の事は、この場所で会議をして決めるのだという。
自分たちの横を、沢山の石を積みあげた舟が走り抜けていく。彼らもまた、この水の世界に少しずつ積み上げられ、目の前の建物のようになってゆくのであろうか。
遠大な計画だ。
一粒一粒の石の欠片たちを運び、沈め、組み上げていく。気の遠くなる、それでいて確かな人々の営み。石の壁に触れた。冷たく、しっかりとした手応えが返ってくる。そこには、完成してもなお石がひとつの命として息づいているような迫力がある。
石を運ぶ彼らは、この石たちにどんな思いを込めているのか。石たちは、思いを受けて、より頑強になってゆくのであろうか。
不意に、舟が大きく曲がった。小舟のへりに捕まり、塔に向けていた視線を前方に戻す。
目の前の木をよけるために、ナッツが長い木の棒を使い、大きく道筋をそらしていた。木はいたるところから生えてきている。
「随分と沢山、水の中から木がはえているんだねぇ」
「ええ。ハーロイにとって、この木々は街の命綱ですから」
「命綱?」
ナッツの意外な返事に、身を乗り出して、青々とした葉をつけた木々に目を遣った。
背の高い木々たちは全体的に枝に宿している葉が少ない。表面の樹皮は色素が薄く、木の表面は全体的に微かに白んでいるようだ。殆どの木はどちらかと言えば細身で、これが文字通りの命綱であれば、不安になってしまいそうである。
日本で目にした杉や松などに比べれば、余りにも弱弱しく、強いて特徴や強味を見出すのであれば、水の中で発芽し生い茂る生体が珍しい。
ナッツがじっと木を眺める私のために、小舟を木の真横に寄せて、停泊してくれた。手を伸ばし、命綱と呼ばれた木にそっと触れる。木の表面は思いのほか艶があり、あまり水分を含んでいない。
「これが、水上都市の命綱……?」
私の問いかけに、ナッツは大きく頷いて見せた。
「この木々が、水上都市全体の水を生かしているのですよ」
「木が水を生かす? 水が、木を生かしているのではないのかい?」
「それもあります。両方なんですよ」
ナッツがにっこりと笑い、慣れた口ぶりで説明をはじめた。
「この都市に溜まっている水は、地形の問題で水の入れ替えが困難なのです。でも、水は一所に留まり続ければ、腐り、力を失っていってしまいます。それを、このハーロイ全体に生えている木々が循環させていんですよ」
そう言いながら、ナッツが数歩、こちらに歩み寄る。特別な歩き方でもあるのか、ナッツが動いても小舟は殆ど揺れる事は無かった。
座っている私の横まで歩くと、手を伸ばし木の先に生えた葉を一枚静かにむしった。枝から離された葉と枝の隙間から、ほのかに緑に色づいた水が流れる。
「木全体がこの街の水を吸い上げ、陽の光を浴びて水を雲へと気化させるんです。気化した雲は雨雲となり、この街に新たな水を運びます。その水は、この木々と街の人々を生かしてくれるんですよ」
にっこりとほほ笑んだナッツが、私に葉を手渡した。受け取った葉は柔らかく、未だ少量の樹液を流し続けている。水のにおいに慣れきっていた鼻に、生々しい新緑の香りが訪れた。
葉を顔に寄せ、大きく息を吸う。潤いに満ちた香りは、木や葉が含む水分量の豊富さを物語っているようであった。
「すごいもんだねぇ」
思いのままに出た言葉は、我ながら少々陳腐な言葉であった。自然のたくましさには、ただただ、すごいという言葉しか浮かんでこない。気取った言葉をかけることもまた、無粋な気がした。
ぱしゃりと音を立て、小さな魚が透明な水面を波打たせる。この魚もまた、木を生かし水を生かし、彼らに生かされているのか。やはり、この生命の育みに余計な言葉などいらないのだろう。
手を伸ばし触れた水は柔らかく、何もかもを包み込むようであった。
「それにね。この木は、僕たちを生かすだけではないんです。僕たちの心まで潤してくれるんです」
「心を?」
ナッツの言葉に水面に向けた顔を上げる。横では、ナッツが愛おしげに木の幹を撫でていた。
「はい。ハーロイの木は、一年に一度だけその身に花を咲かせます。街中の木々が一斉に花を開かせるんです。それはもう絶景ですよ」
「この木々が、花を……」
「ええ。薄いピンク色の、小さな柔らかい花が一面に咲き誇ります」
「……まるで、桜だな」
「桜?」
見渡す水平線に点々と広がる、ハーロイの木々。ここに見える木々が、一斉にその身に花を携える。その光景は、一体どのようなものであろうか。
束の間、心の中でその絶景を思い描こうと試みた。
しかし、この幻想的な水の世界一面に花が咲き誇る光景は、どうしたって自分の貧しい想像力を越えてしまっている。自分は今ここにいるではないか。ここで、花が咲き誇るのをこの目で見ればいい。
そう心の中で語り掛け、もう一度ナッツに顔を向けた。
「この木が花を咲かせるのは、いつ頃かわかるかい?」
「お客さんは運がいいですよ。今見た所、もうだいぶ蕾も大きくなってきている。数日中には咲くでしょう」
「それはまた。本当に、ラッキーだな」
知らず知らずのうちに、口許がほころんでいた。自分は、運がいい。改めて胸の奥でそう呟く。
「この木々が花を咲かせるまで、辛抱強く泊めてくれる宿はあるかな?」
「とびっきりのとこをご案内しますよ」
親指を立てて頷いたナッツが、小舟の先頭に戻る。私を乗せた小舟が、心地よい速度で鏡のような水面を滑り出していった。
ストックがある分は毎週水曜日、土曜日、日曜日の19時頃に更新予定です。