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まとも親育ちとは戦えない

作者: 鈴木美脳

 従業員は雇用主の機嫌をとる必要があるが、雇用主は従業員の機嫌をとる必要がない。

 部下は上司の機嫌をとる必要があるが、上司は部下の機嫌をとる必要がない。

 店員は客の機嫌をとる必要があるが、客は店員の機嫌をとる必要がない。

 子は親の機嫌をとる必要があるが、親は子の機嫌をとる必要がない。

 ペットは飼い主の機嫌をとる必要があるが、飼い主はペットの機嫌をとる必要がない。


 いや、実際には、上司も部下の機嫌をとる必要はある。親はしばしば、子の機嫌をとる。しかし総論で見れば、圧倒的な非対称性があることをここでは言っている。

 現代の日本の社会において、立場の弱い者は立場の強い者の機嫌をとる必要があるが、立場の強い者は立場の弱い者の機嫌をとる必要がない。

 人間の社会は階級社会であって、上から下へ向かう意見は、命令としての強制力を伴っている。


 従業員が雇用主から侮辱を受けたのちに解雇されたとして、解雇される前に侮辱を受けたことを申し立てることによっては、従業員は雇用主に報復することができない。客から侮辱を受けたのちに仕事をやめたとして、仕事をやめる前に侮辱を受けたことを申し立てることによっては、店員は客に復讐できない。お金にしがみついて我慢する気持ちがなければ、生活して生きのびることができない。

 尊厳を軽んじられてスルーするスキルが必要になるのみならず、積極的に作り笑顔をしたりお世辞を言って尊厳を肯定してみせなければならない。お金をもらうためには、心にない笑顔を保たなければならない。内心は不快であっても、不快だと表明することなく、快である演技をしなければならない。

 しかし、一人の人間としての尊厳を軽んじられて傷つかない心は、存在しない。


 社会全体の幸福のためには、立場の弱い人達の尊厳が妥当に認められるべきであって、従業員と雇用主の間にある尊厳についての不平等関係は、社会幸福を助長するよりも障害になると考えられる。


 しかし現実には、軽度な侮辱や虚偽について、労働基準監督署や行政は申し立てられても重視しない。

 違法に操業している邪悪な企業を訴えて潰しても、潰した側に経済的なメリットは用意されていない。

 だから、ブラックな労働環境は山ほど生きのびている。それが山ほど実在する事実が、行政は弱者を守るためにはほとんどまったく動かないと証明している。

 そのように、行政と法は、弱者と強者との間にある尊厳の非対称性を、むしろ積極的に保護している。


 行政は、正義のためではなく、秩序のためにある。

 法は、正義を守るため存在ではなく、秩序を守るための存在だ。

 そこにおける秩序とは、階級社会の上層に位置する人達のためのものだ。

 ならば、歴史的な犯罪者達は、正義への挑戦者達ではなく、秩序への挑戦者達なのではないか。


 階級間の流動性が低下するほど、秩序の正当性はきな臭くなっていく。

 例えば、下位2割の貧困層に生まれた子供がその生涯において上位2割の富裕層になれる可能性が低いほど、階級間の流動性は低いものと考えられる。

 現代において各国は、階級間の流動性を急速に低下させている。

 今や、人生全体の幸福は、生まれる環境の格差によってあまりにも決められてしまう。

 まともな家庭環境に恵まれなければ、進学できる機会は乏しく、大企業からは門前払いされる。そんな学歴社会は、実は本人の才能や努力よりもずっと、生まれた家庭環境をフィルタリングしている。


 しかし、学歴社会は、個人の才能や努力を計測しているのだと公言される。

 法と行政とは、正義ある秩序を守るために悪を裁き罰しているのだと公言される。

 そういったファンタジーによって、人間達の現代の階級社会は維持されている。


 そのようなファンタジーが際限なく許されれば、社会の実態はどこに行きつくだろうか?

 才能に何ら優越せず苦労も努力もほとんどしたことがない人達が、ずっと才能にあふれ遥かに努力している人達の人生の幸福を不当に踏み潰して搾取し、自分達の人生の幸福を守る社会だ。

 社会の上層の人達が実力以上の尊厳と幸福に浴する代償として、立場の弱い人達の幸せが、作り笑顔の裏で殺されていく社会だ。


 恵まれた人達はそれを見て、「弱肉強食」だとうそぶく。すなわち、人間に与えられる環境の格差は、努力や能力といった個人的な資質の格差に言い換えられる。既存社会が妥当だというファンタジーが築かれる。

 老人達は、コンビニで物を買うとき、店員の若者は勉強が苦手だったのだろうと思う。その店員の人生が、自分のような家庭や資産が築けずに終わるものだとしても、個人的な資質に欠けたことの自然な結果だと考える。まともな才能があればまともな努力をして立派な学歴を備え、大企業の正社員になって立派な収入を得る人生が送れたはずだと考える。

 そのように、人間の脳は他者の苦しみを正当化する。持つ自分と持たない他者との不平等な関係を正当化する。権力は階級を正当化する。尊厳を伴わない人の存在は是認され、尊厳を伴わないとされた人については限りない苦しみが生じても哀れみは向けられず、つまり無限の苦しみが肯定される。


 同様に、犯罪者は、正義に対する悪を行ったと見なされる。

 そのとき、法を犯さずにいる人達は、比較的に正義だということになる。

 しかし実際には、法が自動的に正義なわけではなく、犯罪が自動的に悪なわけではない。

 しかし実際に、法が正義であり犯罪が悪だというファンタジーは実在している。


 したがって、権力が腐敗していくほど、善良な警察官は自らの職務に疑念をいだく。

 警察官を志したときの、市民の笑顔を守りたいという夢と現実の乖離はときに、その疑念を振り払えないほど大きくなる。


 しかし、そこにおける権力の腐敗とは、実態としては、民心の腐敗だ。

 権力におもねり、力あるものを尊重して力なきものを軽んじる、そんな生き様を恥だと自覚しなくなった利己的な価値観こそが、腐敗の主体だ。

 そうであれば、社会秩序を機械的に守る行為は、民心が腐敗していくことを守ってしまうことになりかねない。そして、民心が腐敗することで結果的に損をするのは、圧倒的大多数の民衆自身だ。

 弱者や犯罪者を自分には無関係なものとして蔑みたいという欲が、階級制を堅牢に整備し、庶民の尊厳と幸福を果てしなく吸い上げていく。

 私欲に負けた弱い心は、犯罪を正義には数えられなくなる。


 そんな社会では、人助けのために損をしたなら、損をしたぶんだけ尊厳を失い、何も報われない。

 称賛を期待して犠牲を払うことはできない。すべての善行は称賛への絶望からしか踏み出せない。

 愛は、相手に伝わらない。相手に伝わることはないという絶望からしか、愛は行えない。

 そうならば、市民の笑顔を守る夢のためにテロリストになった人達もいるだろう。

 彼ら彼女らは気の狂った犯罪者として、躊躇なく銃や爆弾で挽き肉にされていったことだろう。


 そうであるなら、彼ら彼女らが何と戦ってきたのか、明らかになる。

 彼ら彼女らが何と戦ってきたのか、それは、権力と戦ってきたのではなく、ファンタジーと戦ってきたのだ。

 彼ら彼女らは、ファンタジーに挑戦することを選んで命を消費していった。


 この宇宙に、正義の定義があるとするなら、それは法ではない。

 ファンタジーへの挑戦こそは、あまりにも根本的で普遍的な正義だ。

 ファンタジーは、社会に貢献した程度による弱者の尊厳の程度を、不当に矮小化することによって、利益とともに強者のもとへ付け替える行為だからだ。捏造された努力主義によって、階級間流動性を固定し、努力の実際の価値をゼロにまで収束させ、人生から意欲を奪う行為だからだ。


 近代法はその根本たる正義の定義を功利主義、具体的にはロールズの正義論によっている。

 ロールズの正義論は、無知のヴェールという概念を用いて法理の根本に正義を定める。すなわち、生まれの格差を度外視して誰に生まれつくかわからないとき、なお選ばれる政策や法には正義が認められるというのだ。そしてもちろん、既得権益を保護するためにゆがんだファンタジーは、ロールズの正義の定義にしたがって不正義だと断定できる。

 しかし残念なことに、ロールズの正義の定義に基づいた現代社会において、ファンタジーは日々むしろ色濃く堅牢になりつつある。それはなぜなら、そのファンタジーは、環境の格差を個人の格差に言い換えることによって環境の格差を正当化しようとするものだからだ。自業自得の自己責任論によって、民心からは隣人愛が枯れ果てる。正義感は、遵法意識という奴隷倫理にまで腐敗する。


 そのファンタジーによれば、既存社会は、ロールズの正義に適っている。

 真面目に努力をすれば、恋をしたり家族を築いて、それなりには幸せに暮らせる社会であり、ひどく貧しく孤独な、みじめな暮らしをしている人達のほとんどは、努力を怠った人達だからだ。

 自分達がそんな人達よりも安寧な生活を歩み長生きできるのは、頭がそれなりに良くて勉強ができ、現実生活の様々なストレスにも我慢して仕事を真面目に続けたからだ。

 すなわち、結果の平等ではない機会の平等は実現されている。それに対して、結果の平等を求めることは、努力する意味をなくして社会の活力を削ぐ悪手でしかない。

 したがって、弱者や負け組における一定の苦しみは是認される。ましてや、弱者や負け組が強者や勝ち組と同等の尊厳を要求するなど、ふてぶてしすぎて意味がわからない。自分達は、弱者のそういった不当で際限のないふてぶてしさから、努力をした人達への正当な報酬を守らなければならない。

 そのように、ファンタジーの中では矛盾はない。

 立場の弱い者の尊厳を盗んで自分の利益に付け替えると決めた人間の脳の邪悪さには、そのように、良心の呵責が少しもない。

 なぜならそのファンタジーは、良心の呵責よりも手前で、心理的な認知バイアスとして起こるものだからだ。


 それが人間だ。

 人間はもっと美しく理知的な生き物だと思いたがる若者がいるかもしれないが、残念ながら、人間はかなり自己中心的で感情的な生き物だ。感情で信じたいものを信じようとする人達に、正論を言っても通じない。わずかに改心することがあっても、少し時間が経てば、その人の生まれながらの性格の程度において信じたいファンタジーへ脳は完全に回帰する。自己正当化を核として、人間が主観する世界観は常に整備されつづけている。


 1921年に生まれ、敬虔なキリスト教徒の家庭で育った米国人、ジョン・ロールズは、占領軍の一員として広島を体験し、普遍的な倫理を築いた。しかし、キリスト教は神の存在を言うファンタジーであって、その倫理学には現実的な観点が不足していた。

 現実には、神は存在せず、罪は死後に裁かれない。市民の幸福は現世において妥当であらねばらなず、犯す罪には厳密に等量の罰が施されねばならない。


 他者が正当に所有する資産を盗みとる行為は、罪として、罰が定義されなければならない。

 同様に、虚偽、さらには侮辱が強者の側から非対称に行われることについては、罪と見なされねばならない。さらには、その侮辱を正当化する根拠にある自業自得論への認知バイアスは、脳が行うファンタジーとして罪と見なさねばならない。

 そのファンタジーこそが根本的な罪であることが、法理の根本において言及されなければならない。

 人間の脳の愚かさが一種の悪だという事実が、言及されなければならない。


 したがって、法理の根本に置かれた正義の定義が、ファンタジーを織り込んだものなら、人間社会は万人の幸福へと向かう。

 しかし、ファンタジーによってこそ利益を守られている既得権益は、それを嫌うから、法理はロールズの正義論にのみ基づいていて、人間の私利私欲を肯定する大衆主義的な個人主義から逸脱することがない。

 したがって、既存の法および国家には存立するための正当性が伴っていない。

 したがって、ファンタジーへの挑戦としてテロは正義だ。


 逆に言えば、ファンタジーへの挑戦であるなら、既存体制への挑戦として一種のテロだ。

 その意味では、自己責任論によってまとも親育ちからサンドバッグにされている弱者達はテロリストだ。

 まとも親育ちとは戦えない。彼ら彼女らが背負っているファンタジーは、圧倒的な既得権益だからだ。そのパワーハラスメントは、経済的な実力、さらには超大国の核兵器に裏づけられている。彼ら彼女らのファンタジーには、圧倒的な負のハンディキャップがある。


 しかし、その意味でこそ、まとも親育ち達と戦うことはたやすい。

 なぜなら、ファンタジーはどこまで行ってもファンタジーでしかないからだ。ファンタジーによって事実を変えることはできない。

 そして、世界をどんなに色濃くファンタジーで覆ったとしても、格差がどんなに正当化されたとしても、理不尽に虐げられた弱者の知性は、ファンタジーを食い破って事実に到達する。それゆえ、愚者の群れがいかに権力を独占したとしても、真に個人的な資質に恵まれた人達から尊厳を盗みきることはできない。


 ファンタジーに溺れた権力者達は、弱者には謙虚さを期待する。

 貧しい家で生まれ育った者には、安い賃金で喜んでくれることを期待する。

 自分達が満喫する安寧を隠すことによって、既存社会が公正だと錯覚してくれることを期待する。

 この力関係は絶対であって動かないのだから、お前はずっと作り笑顔を向けていろと言う。


 しかし、作り笑顔の裏で傷つけられた心には、痛みが蓄積する。

 無視できないほど蓄積された痛みからは、憎しみが湧き出す。

 そして虐げられる弱者は、必ずしも、既得権益に溺れて不正を働く強者達のように、自分第一の臆病者ではない。

 だから、ファンタジーは常に挑戦を受ける。

 挑戦を受けるたびに、あるいはテロが起こるたびに、既存社会は驚いて、慌てて蓋をする。力で封じ込めて、初めから大きな問題などなかったかのように取り繕う。私欲で説明できない動作を、感情任せの不合理な狂気ないし狂信だと説明して納得する。


 人間は、言葉を裏切った動物だ。

 すなわち、人間という生き物は、自分のほうが有利な立場なら、自分に好都合なファンタジーを相手に押しつけていいのだとよく知っている。自分に不都合な相手の意見を自分の都合で無視していいと知っている。どんなに愚劣な個体であっても、猿はそれだけはよく心得ている。

 つまり、人間には客観的な事実への興味などない。その証拠に、経済的なメリットをもたらす自然科学は近代を通して発展しつづけたが、資本主義社会のファンタジーを明らかにする社会科学は近代を通じて退歩しつづけた。

 人間は、ファンタジーに溺れることで馬鹿になっていき、テクノロジーの奴隷としてテクノロジーに融合される。地球上に生じた短い人類史は、それ以上のものでもそれ以下のものでもない。


 子供は、尊厳のある人物になりたいと思う。

 安定した職業あるいは社会的に高い地位を夢見ろと親は言う。

 国は国民を、企業は社員を、上司は部下を、客は店員を、親は子を、男達は女達を、女達は男達を、自分好みに成型する。尊厳の定義を洗脳する。好都合なファンタジーへの迎合を期待する。

 しかし、正義とは、部分に好都合なファンタジーに迎合しないことにあるのであって、ならば真の尊厳もまた然りだ。


 人間は、社会的な動物であり、自己肯定感を必要とする。

 子供のその弱さを見抜いた邪悪な親は、愛されない痛みで脅迫して奴隷に使う。

 だから弱者は、人からどう見られるかではなく、自分の尊厳を自分の理性で肯定する必要に迫られる。

 まとも親育ち達は、甘やかされて育ち、甘やかされて人生を送るから、そこまで孤独に強くない。

 温室で育ってから路肩に捨てられた猫は、地獄で生まれ育ってきた狼達に八つ裂きにされる。


 子供の尊厳は、親に認められる必要がない。

 若者の尊厳は、大人達に認められる必要がない。

 人間の尊厳は、世間に認められる必要がない。

 そもそも、認めない。個人的な打算を超越して他者の尊厳を認めるような良心など人間にはない。世間に認められるとしてもそれは、メインストリームの多数者による排外的なサロンであって、同時に誰かを踏み潰している。

 親のためのサンドバッグとして生まれた者の一生は、社会にとってもサンドバッグだ。他者に弱さを告白したときに注がれるのは、善意よりも悪意、手助けよりも搾取だ。


 したがって、人間は嫌悪に値するし、社会は恨むに値する。

 義はむしろ、ファンタジーを相対化して理性的に演繹することによって認知できる。

 本当に大切な知識は自ら到達すべきものであり、学校は決して授けてはくれない。


 肯定することが愛ではない。

 自分の脳に主観的に心地よい世界観ほど、普遍的に客観的に正当なわけではない。

 まとも親育ちの脳は、その痛みに耐えられない。現実を見れば、目はくらんでしまう。


 だからきっと、ファンタジーの外側に生まれて挽き肉にされる人生も、損ばかりじゃない。

 ましてや、まだ挽き肉にされず今日も生き残っているなら、この世界を冒険する主人公だ。

 愛の旅は、戦いの旅。幸せだけが幸せではない。


 環境の格差に人生の幸福が規定される時代をなお生きる意味はどこにあるだろうか?

 一つの答えは、罪のない人々を苦しめるファンタジーに挑戦することにあるだろう。

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