わたくしは恋心を捨てました。それなのに
わたくしケイト・リリアージュは、このラネルド王国の王太子であるオリバー・エスカル殿下の婚約者です。
本日、わたくしの王太子妃教育が終わり、労いを兼ねてオリバー殿下とのお茶の席を設けていただけることになりました。最近お忙しいのか、殿下と顔を合わせることも少なく、寂しく思っていたわたくしのことを心配して、王妃殿下がお気遣いくださったことを、とてもありがたく思っております。
わたくしがオリバー殿下の婚約者に決まったのは三年ほど前。当時の私は十四歳。しかもわたくしの家は子爵家で、家格的に王族の婚約者になれる立場になく、淑女教育は『人前に出ても恥ずかしくない程度』しか受けていませんでした。
もちろんほかの高位貴族のご令嬢たちは、王太子妃候補になるべく、小さいころから厳しい教育を受けてきています。そんな方たちでも、王太子妃教育を十年は受けるといわれているのに、私はそれを三年でこなしたのですから、どれほどつらい日々であったかは想像できるのではないでしょうか? それこそ、睡眠時間を半分以下に削って勉強をする毎日だったのです。
では、なぜ子爵家の娘であるわたくしがオリバー様の婚約者に決まったのかと申しますと、わたくしが貴重な加護持ちで、我が一族が王国最強の魔導士の家系だからです。その加護というのが、『国に降りかかる災厄をはらう』というもの。とても抽象的な感じもしますが、これまで干ばつや水害、疫病の蔓延や、他国との戦争など、災厄と言われるような出来事がこの国で起こっていないのは、わたくしがいるからだそうです。
それが事実かは知りようがありませんが、とりあえず、わたくし、すごいですわね。
加護は誰でも授かれるものではありません。そして、その加護を知るのは十二歳のときに神殿で洗礼を受けるとき。なぜ、十二歳かというと、自分の加護を理解できる年齢というのが理由です。
加護を授かるのに身分などは関係ありません。しかし、もし平民の子どもが加護もちであった場合、神殿が保護をすることになっています。加護とは神から授けられたもので、当然のことながら悪用することは許されません。しかし、悪用されないとも限らないからです。
特に、生活に困っている平民に加護もちの子どもが生まれ、売られてしまったことも過去にはありました。もちろん、さらわれることもあるのです。加護が国外に流失することは大きな損失でもあります。そのため、神殿が引きとって保護をしつつ、その力を人々のために使うよう神官として育てるのです。
そして、婚約者となったもうひとつの理由が、わたくしが魔導士として名高いリリアージュ家の娘だからです。
また、この世界には魔法が存在していて、ほとんどの人がなんらかの魔法が使えます。
そして、我がリリアージュ家の人間は、血気盛んなところがあり、戦いの際には、騎士より前に立つこともある勇猛果敢な一族です。ですが、元来リリアージュ家は出世欲がないため、どんなに武功を立てようとも、素晴らしい魔法を開発しようとも、国の端の領地に籠ってのんびりすることを選び、それ以上を望みませんでした。
しかし、わたくしが殿下と婚約をすることになり、伯爵位を賜ったのです。子爵では王家との婚約を結ぶことができないそうで。父はありがた迷惑、とぼやいていましたが。
実は、オリバー殿下との婚約を父は断固拒否しておりました。当時、わたくしにも婚約者がおりましたから、わたくしも、とても、めいわ……いえ、困っておりましたし。しかし、陛下や王妃殿下が自ら我が屋敷まで足を運ばれるなどして、しつこ……いえ、熱心に説得され、根負けをした父は渋々うなずいたのです。
それにより、わたくしは当時の婚約者と婚約を解消しなくてはならなくなり、三日三晩枕を涙で濡らしました。当時は本当に悲しかったのですよ。
それからわたくしは王宮入りをし、一日も休むことなく王太子妃教育を受け、悲しむ時間も無くなってしまいましたが。
そういった事情がありますので、無事に王太子妃教育を終えることができたのは本当に喜ばしいことで、肩の荷が下りた気持ちでもあります。とはいえ、オリバー殿下と結婚をすれば、今度は未来の王妃として勉強をしなくてはならなくなるのですが。
「オリバー殿下はいつごろお見えになるのかしら?」
殿下のお顔を見るのも一カ月ぶりでしょうか? さすがにご無沙汰がすぎる気もしますが、それはしかたがありませんね。殿下もお忙しい御身ですし。
そこへ、ようやく殿下がいらっしゃるとの先触れが来ました。わたくしはもう一度鏡の前に立ち、身なりを確認して、お出むかえをしようとドアの前まで向かいました。
本日のお茶の席は、庭園に用意していると王妃殿下からうかがっております。花が咲きみだれていて見頃だとか。本当に楽しみでしかたがありません。
わたくしの顔は、王太子妃教育を修了した安堵と相まってほころんでいました。開いたドアの先で、殿下と見しらぬご令嬢が寄りそうように立っていることに気がつくまでは。
「……お待ちしておりました」
「遅くなってすまなかったね」
「とんでもないことでございます」
わたくしは今どんな顔をしているのでしょう?
「実は、今日はケイトに大切な話をしなくてはならないんだ」
「まぁ、なにかしら? とはいえ、ここではなんですので、庭園に移動いたしましょう」
「いや、ここで話をしたいのだが」
「まぁ……それでしたら、手短にお願いいたしますわ。わたくし、庭園でのお茶会をとても楽しみにしているのですから」
「あ、ああ」
オリバー殿下はとても明るく、笑顔を絶やさない太陽のようなお方である、とわたくしは思っております。ですが、今日の殿下は普段とは違い、何やら少しオドオドしているように感じます。
殿下がわたくしの部屋に入ってくると、なぜか見しらぬご令嬢も一緒に入ってきました。しかし、残念なことにあいさつもせずに、オリバー殿下の婚約者である私の部屋に勝手に入ってくるこの非常識なご令嬢を、わたくしが拒むことはできません。殿下が入室させたのですから、わたくしには何も言えませんもの。
殿下に促されてソファーに座ると、見しらぬご令嬢はわたくしの向かいに座った殿下の横に座りました。
あ、そこに座るのね、あいさつもしていないというのに。
不快ではありますが、わたくしから見しらぬご令嬢に関心を示すようなことはいたしません。当然です。紹介もされていませんし。
しかし、オリバー殿下が口にした言葉で、見しらぬご令嬢のことなど、一瞬で頭から消えてしまいまったのです。
「ケイト、申し訳ないが、君との婚約を解消させてくれないか?」
頭が真っ白になりました。
今日は、王太子妃教育を終えたわたくしを労ってお茶会を……?
「何をおっしゃっているのかわかりませんが……」
殿下がハーッと大きな溜息をついて、ゆっくりと口を開きました。
「君との婚約を解消したいんだ、ケイト。わかってくれるよね?」
わかりませんわ、まったく。
殿下の婚約者候補と思われていた美しいご令嬢達や、そのご両親から心無いお言葉をかけられましたが、わたくしは自分の責任を果たすべく、覚悟を決めて殿下の婚約者になったのです。殿下もそのことはご存知のはずです。ですからまさか、こんなことを言われるとは思いもしませんでした。
しかし、わたくしが正気を取りもどすのにさほど時間はかかりませんでした。この非常識な見しらぬご令嬢を伴ってきたときから、何かあるような気はしていましたから。
「わたくしは何を理解すればよろしいのでしょうか?」
「だから……!」
「わたくしとの婚約解消、ですか?」
「そ、そうだよ。わかっているじゃないか」
いったい殿下はどうされたのでしょうか? 本当にこの方がわたくしの知っているオリバー殿下なのでしょうか?
「なぜなのか、うかがってもよろしいでしょうか?」
わたくしの言葉に、待っていましたと言わんばかりに見しらぬご令嬢がほほえみました。
「ここにいるダイアナを、生涯の伴侶にしたいと思っている」
そう言って見つめあったお二人は、手を握りあい、オリバー様の太陽のような笑顔は、まっすぐその見しらぬご令嬢に向けられています。
「そちらのご令嬢、ダイアナさん? ご紹介もいただいていないので、どこかの使用人かと思っておりました」
わたくしの精一杯の嫌味に、殿下もご令嬢も顔を引きつらせていますわ。
「それは申し訳なかったね。こちらは、ダイアナ・ホーソン男爵令嬢だ」
「ダイアナと申しますぅ。初めてお目にかかりますぅ」
見しらぬご令嬢はソファーから立ちあがり、ぎこちないカーテシーで挨拶をしました。
「ケイト・リリアージュですわ」
わたくしは王妃教育で身につけた、先生からも最高級の美しさと褒めていただいたカーテシーで返しました。もちろん、さらに感情を殺して最高級の笑顔付きです。ドレスを摘む手が微かに震えていましたが、きっとそれを悟らせないほどの笑顔を作れたと思っております。
わたくしはスッと笑顔を消して、ソファーに座り殿下に向きなおりました。
「それで、陛下はご存知なのでしょうか? 王妃殿下は? 皆様に周知のことと理解してよろしいのでしょうか?」
「い、いや、まだだ。まずは君に伝えたいと思って」
あら、わたくしを一番に考えてくださるなんて親切ですこと。
「さようでございましたか。それでしたら、婚約解消はお断りさせていただきます」
「な? なんだって?」
「わたくしたちの婚約が、そう簡単に解消できないことなんて、誰でも知っていることですわ」
「そんなことはわかっている。だから、君にこうして頭を下げているんじゃないか」
「何言ってんのかしら?」
「は? なんだって」
いつ、頭を下げたかしら?
「まぁいいです。わたくしに頭を下げたとして、それでどうにかなるとお思いで?」
わたくしが何重にも被っていた、自称『一生懸命頑張るかわいい女の子』の皮が剥がれてきているようです。それは、そうなりますよね、こんなおバカさんを相手にしていたら。
「き、君からも口添えしてもらいたい」
「は?」
「ですからぁ、ケイト様からもぉ、あなたのお父さんとぉ、国王様にぃ、解消したいと言ってくださいって言ってるんですぅ」
突然話に入ってきた見しらぬご令嬢は、バカみたいな猫なで声で、バカ丸出しのことを言っています。
頭がおかしいわ。
「ダイアナの言うとおりだ。君からも、陛下と伯爵に言ってはもらえないだろうか?」
「なぜ、わたくしが? 筋違いもいいところですわ。わたくしは解消をしないと言っているんですよ?」
「なんでですかぁ? オリバー様に愛されているのはわたしですぅ。だからぁ、ケイト様は婚約者をやめてくださいぃ」
言葉がおかしければ内容もおかしい。わたくしは何か夢を見ているのかもしれません。自分の頬をぎゅっとつねってみましたが。
……イタイ……。
「それで、あなた、どなたでしたかしら? わたくしはあなたに名前を呼ぶことを許していません。そしてわたくしは、オリバー殿下の婚約者です。立場を弁えてください」
わたくしがそう言えば、見しらぬご令嬢は、「オリバーさまぁ、ひどいですぅ」とかわいくすねて彼の腕にしがみつき、わたくしをにらんできます。
「ケイト、そんな言い方をしなくてもいいではないか。ダイアナは君と仲良くなりたいんだよ」
頭がおかしいのがもう一人。この人、こんなにおバカさんだったかしら?
「王太子の婚約者ってずいぶんとお安いものでしたのね」
「なんだって?」
「いえ、なんでもありませんわ」
根回しもしないで他力本願なおバカさんたちは、これでも国を背負う王太子と王太子妃になろうとしているのですよね? 信じられませんわ、本当に。人の努力をなんだと思っているのでしょうか?
「それで、あなた」
「はいぃ」
わたくしの被っていた猫もあと数枚です。
「オリバー殿下に婚約者がいることはご存知でしたの?」
「……クスン、はい、知っていました。でもぉ、わたし、クスン、オリバー様の優しさに触れて温もりを知ってぇ、クスン、もうこの思いを止められなくなってしまったんですぅ」
「ダイアナ……」
二人が手を握りあって世界を作りあげているときに、私はこれからについて算段を立てていました。
「べつにそれでしたら、愛妾でよろしいのでは? あなたに王太子妃教育を施すことほど無駄なことはありませんし」
「愛妾?」
「なんでわたしが愛妾なんですか!」
「この国は一夫一妻制です。側妃は娶れませんから、せめて愛妾くらいは許してあげますと言っているのです」
「ひ、ひどい、わたしは……」
「ケ、ケイト、いくらなんでも、結婚する前から愛妾がいるなんて、私の立場が」
立場? なんの?
「だったら、諦めてください。それができないのなら、ご自分で陛下に直接お伝えください」
「それができないから、君に頼んでいるんじゃないか」
「埒があきませんね」
「ケイト様が変なことばかり言うからいけないんですぅ。わたしのお腹にはもうオリバー様の赤ちゃんがいるんですからぁ!!」
げ……。
「ダ、ダイアナ!」
わたくしは唖然としましたし、オリバー殿下はお顔を真っ青にされています。見しらぬご令嬢だけはご満悦のご様子ですが。
「でしたら婚約解消ではなく、婚約破棄ですね」
「婚約破棄?」
「そうです。あなたがたは不貞を働いたのですから、わたくしはお二人に対して慰謝料を請求いたします」
「ケ、ケイト!」
「どうされましたか? 婚約破棄をして差しあげると言っているのです。喜んでください。孫がお生まれになるなんて、陛下が喜んでくださるでしょう」
そう言うとわたくしは立ちあがり、机の引き出しにしまってある、婚約の際に交わした誓約書の写しを取りだし、殿下の前に座りなおしました。そして、丁寧にすべてを読みあげて差しあげましたわ。
「なんだ、その金額は?!」
「これは陛下とわたくしの父が直接話しあって決めたものです。これには誓約の誓いの魔法がかけられているため、一切の反故はできません」
「なんだって!」
「ちょっとぉ、なんでわたしまでお金払うんですかぁ。わたしは関係ないですよぉ」
当事者のクセに何を言っているのかしら、と溜息が出ますが、どうも頭が機能停止しているようなので、見しらぬご令嬢のご家族に責任を取ってもらいましょう。
「殿下、あなたはわたくしの人生に責任を持たなくてはならないことを、お忘れではないですか?」
「それは、婚約者なのだからな。しかし、私にも人生がある。そして、私はダイアナの人生にも責任を持たなくてはならないのだ」
「子供ができたからですか?」
「そ、そうだ」
「では、婚約者のわたくしは、体の関係がなく、子も宿していないので責任を取る必要はないと?」
「そういうわけではないが、私と婚約を解消しても、君にはまだ次の出会いがあるだろう?」
殿下にはわたくしのことなど、赤の他人の話くらいにしか思えないのでしょう。あまりにひどくて吐き気さえしてきました。
「ケイト様、わたしたち、もう離れることができないんですぅ!」
「うるさい」
わたしが見しらぬご令嬢をひとにらみすると、私の魔法でその気持ち悪い猫なで声を出す口が、ぴったりとひっついて、まったく離れなくなりました。
「喋るな、邪魔をするな」
見しらぬご令嬢は、わたしの怒りをはらんだ声にビクリと肩を震わせ、顔を赤くして開かない口をどうにか開こうとして、顔がみにくく歪んでいます。
「あなたに口を開く権利を与えていない。わたくしが許すまで大人しくしていなさい」
わたしの猫の皮が一枚もなくなってしまいましたわ。
「ケイト、頼む、そんな乱暴なことはしないでくれ」
オリバー殿下は顔を青くしてうつむき気味です。
「ああ、やっと少し頭が下がってきましたね。でも、もっとちゃんと頭を下げないと、ダメじゃないかしら?」
「え?」
そう言って顔を上げようとしたオリバー殿下の頭を、わたしは人差し指をクイッと曲げて、無理やり下げさせました。
「ケ、ケイト、こんなことをしていいと思っているのか? 私は王太子だぞ」
「だから? わたしはケイト・リリアージュ。この国の守護を任された防衛の要にして、殿下の呪いを引きうけた唯一。国王陛下が、わたしに頭を下げてあなたの婚約者に据えたことをご存じないのかしら?」
「…なんだって?」
殿下は初めて聞いた話であるかのように、目を白黒させて混乱しているようです。これはいったい、どういうことでしょう?
するとドアの外から足音が聞こえてきました。
「失礼する!」
ノックもせずに入ってきたのは国王アーバイン。
「これはいったい? 何が起こっているのだ? オリバー、これはどういうことだ」
息を切らして入ってきた陛下は、口を開くことができずにバタバタしている見しらぬご令嬢や、頭を無理やり魔法で下げさせられ、わたしの話を整理できずにぼうっとしているオリバー殿下を見て、ギョッとしていらっしゃいます。仕方がないので殿下の魔法は解いて差しあげました。
「ケイト、いったいオリバーは何をしたんだ。もしや、君に何か失礼なことをしたりしていないだろうか?」
陛下はわたしを気遣うように目を細め、誰かもわからない令嬢を一瞥してオリバー殿下の正面に立たれました。
「オリバー殿下が、陛下にお話があるそうですわ」
「……聞こう」
陛下を前にビクンと肩を震わせたオリバー殿下は、口の中でごもごもと何かを言っていますが何も聞きとれません。
「はっきり言わんか! この国を背負う者がそんなんでどうする!!」
陛下の低く怒気を込めた声に、オリバー殿下はすくみ上りました。本当にこの方はわたしの知るオリバー殿でしょうか? わたしに婚約解消を迫るお姿も、不貞行為を働いた事実も、おろおろとして瞳をさまよわせるお姿も、わたしはこれまで見たことがありません。もちろん、これまで陛下がオリバー殿下に声を荒らげたこともありません。
わたしは上辺のお姿に騙されていたのでしょうか。
「オリバー。このまま何も説明がないまま事態を収めることなどできんぞ!」
「は、はい……あの、ケイトと、婚約、の、かいしょう、を」
「婚約破棄」
わたしは間髪を容れずに『解消』を『破棄』に訂正しました。
「こ、婚約、は、きで」
「何を言っておるのだ? 正気か?」
陛下の顔を見なくてもとても怒っていらっしゃることがわかります。当たり前ですわよね。勝手に婚約破棄なんて。
「オリバー、お前は自分が何を言っているのか本当にわかっているのか?」
「はい、しかし、ダイアナにはすでに私の子が!」
「なんだと」
陛下の怒りは絶頂に達したようです。お顔を真っ赤にされてブルブルとお身体を震わせていらっしゃいます。
「貴様は、ケイトがありながら不貞を働いたと言うか!」
「あ……いえ……」
陛下の怒りにオリバー殿下は言葉も出ないようです。
わたしが話を進めるしかありませんね。
「陛下、わたしはこの婚約破棄を受けいれますわ」
「ま、待ってくれケイト、頼む! それだけは勘弁してくれ」
陛下は慌ててわたしの前に跪きました。
「父上、国王たるあなたがケイトに跪くなど!」
「黙れ、このバカ者が! 貴様はこの責任をどのように取るつもりだ」
「はい、慰謝料を払います」
「そんなもので責任が取れるか!!」
陛下の声が悲痛に響きました。気がつけば王妃殿下も宰相もいらっしゃっています。そうですよね、こうなりますよね。
「ケイトちゃん、嘘よね? 婚約破棄なんてしないわよね?」
王妃殿下が涙ぐみながらわたしに訴えてきますが、もう、わたしがどうとかそういう問題ではないですよね。
「王妃殿下。これまでとてもかわいがっていただいたのに、このようなことになりまして申し訳ございません。わたしがしっかりしていないばかりに」
「そんなこと言わないでケイトちゃん。私はあなた以外の娘なんていらないわ」
王妃殿下の泣く姿は、人々の涙を誘いますが、わたしにはそれは通用しませんよ? わたし、王妃殿下が、左右どちらからでも、必要なほうから涙を流せることを知っていますもの。
前に殿下が「私の特技よ」と言って、見せてくださいましたから。あのときは本当に感動しましたが、こうなるとまったくその涙に説得力がありませんわね。
「母上、ダイアナはすでに私の子供を身籠っています。どうか、これからは彼女をかわいがってあげてください」
「……いらないわよ、そんな子」
先ほどまで涙されていた王妃殿下は氷点下の冷たさで一蹴されました。
「母上! なんてことをおっしゃるのです」
「オリバー、お前も口をふさいでもらったほうがいいのではないかしら?」
王妃殿下の見しらぬご令嬢を見る目はとても冷たく、まるで汚いものでも見るかのようにお顔をゆがめていて、オリバー殿下を黙らせるに十分だったようです。
「陛下」
陛下がわたしのほうに向かれました。
「わたしがオリバー殿下と婚約したときのことを、覚えていらっしゃいますか?」
「もちろんだ。忘れるわけがない」
「わたしが十二歳で洗礼を受け、加護を持っていることを知ってすぐのことでしたわ」
「そうだ、君の加護は『国に降りかかる災厄をはらう』。この国にとって至高の宝となる加護だ」
「そうです。その加護のせいで、わたしは最愛の人との結婚を断念しなくてはならなくなりました」
「……」
彼のことを思いだすと胸が締めつけられるようですわ。
「わたし、ずっと彼のことが好きで、彼もわたしのことを好きだと言ってくれていたのですよ? 当時のわたしはまだ子どもでしたけど、それでも、彼との未来は輝いていたのです。陛下も王妃殿下もご存じでしたわね」
「……ああ」
「ケイトちゃん……」
「それなのに、わたしたちの婚約は決まっていたのに、オリバー殿下との婚約の話がきて。……彼とは婚約を解消したのですよ」
「……父上、私はそんなこと知りませんでしたよ」
オリバー殿下は顔を青くされたまま、わたしと陛下を何度も見ています。
わたしの加護は、この国にとって、オリバー殿下にとってなくてはならないものです。なぜなら、オリバー殿下は『国に降りかかる災厄を引きうける』という、呪いのような加護を持って生まれた方だからです。
加護は十二歳のときに受ける洗礼で知ることができますが、王家はその限りではありません。殿下は生まれたときに洗礼を受け、その恐ろしい加護を持つ者だと知らされました。陛下はそのとき、殿下の加護を知る者をすべて亡き者にしました。そして殿下を、加護を持たない者として育てたのです。
そのとき陛下はどのようなお気持ちだったでしょうか? 殿下がこの国にいる限り、災厄が殿下に向かってやってくるのです。戦々恐々としながら、息子を見つめていたのではないかと想像できます。
そしてわたしは殿下と同じ日に生まれました。
そのため、この国は災厄に見舞われることもなく、これまで平穏な時間が過ぎております。
陛下は当時、殿下の加護の神託が間違いだった、と思っていらっしゃったそうです。ですが、実はこれまで災厄に見舞われることがなかったのは、わたしの加護によるものだとわかったとき、国王陛下はリリアージュ家までお越しになり、わたしに頭を下げ、父に土下座をしてオリバー殿下との婚約にこぎ付けたのです。
「なんてことだ…」
事実を知った殿下が、真っ青な顔をしてわたしを見つめていますが、もうわたしには関係ありません。
「オリバーとケイトを会わせたとき、オリバーがケイトに好意を持ったことがわかったから、真実を告げずにいたんだ。ケイトが自分の加護のせいで好きな男と引きさかれたことを知ってしまえば、後ろめたく感じて、心から愛することができないと思ったんだ。私の選択は間違っていないはずだったんだ。二人の関係は良好だったし、ケイトは王太子妃教育を頑張ってくれていた。リリアージュ伯爵の先読みなんてあてにならないと思っていたんだ」
リリアージュ伯爵の先読み。わたしの父の加護のことで、夢に見たことが未来で本当に起こるため、予知夢ともいわれております。しかし、その未来は絶対ではありません。回避することを強く望み行動すれば、父が先読みした未来を変えることができます。
しかし強い意志を持って行動しなければ、どんなに進む道を変えても結果は変わりません。生半可な覚悟では未来を変えることはできないのです。
父が見た先読みの中で、わたしと手を取りあっていたのは侯爵家の次男スティーヴン様でした。二人は結婚をし、永遠の眠りにつくそのときまで幸せに暮らす、というのが父の先読みです。
そしてわたしの両親は、爵位を兄に譲ったあと、美しい海の見える白壁のかわいらしい家で、のんびりと余生を過ごす。そんな穏やかな人生を見たというのに。
しかし、陛下にそれを何度伝えても、引きさがることはありませんでした。
あのとき、陛下がリリアージュ家に足を運ばれ婚約を申しこまれたとき、父ははっきりと言ったのです。娘の未来に殿下はおりません。ですから、この婚約を受けることはできません。娘が殿下と結婚をしなくても、この国に娘がいる限り、災厄が降ることはないのです、と。娘がオリバー殿下と結婚をすれば、二人の関係は破綻するかもしれない、と。
「父の先読みを変えるには、強い心と行動が必要なのです。そうでなければ結果を変えることはできません。たとえ陛下が強く願っても、当のオリバー殿下がそう思って行動しなければ意味がないのです」
陛下はがっくりと膝を突き項垂れていらっしゃいます。
「殿下、あなたはわたしになんと言ったか覚えていらっしゃいますでしょうか?」
「私が」
「あなたはわたしに、『私を選んでくれてありがとう。生涯君を愛し守り抜くよ』と、そうおっしゃったのです」
「私は……確かにそう言った」
「わたし、その言葉を信じて今日までやってきましたのよ。強い信念を持って、本当に、父の先読みを回避するつもりでやってきたのです」
「ケイト、すまない。でも、あのときは本当にそう思っていたんだ。だが、君は私を愛しているようには思えなくて不安だったんだ」
「え?」
「君は私のため、国のためと言うが、私を愛しているとは言ってくれなかった」
そうでしたでしょうか? 言われてみればそんな気もしますが、それがなんだというのでしょうか?
「わたしが愛していると言えば、こんなことはしなかったと?」
「……」
「わたしの胸に育った思いは恋ではないかもしれません。ですが、殿下を敬愛していたことは確かです。恋情がないと、結婚はできませんか? 確かにそういう考え方もあるでしょう。しかし、わたしたちは王家と貴族の婚姻です。恋情だけで務まるものではないのです」
あなたがわたしに恋情を求めるのであればわたしは? 焦がれる思いを捨ててきたわたしは一体どうなるのです?
「わたしが愛したあの人は、わたしに幸せになれと手紙を残して姿を消しました。わたしが未練を残さないように、行先も告げずに消えてしまいましたのよ。わたしはあの人への思いを全て捨てて、殿下のため、国のために生きようと決めましたのに、当のあなたは甘やかな愛をお求めとは」
笑ってしまいますわ。
わたしは見しらぬご令嬢の魔法を解きました。
「元気な子を産んでください。きっと、逞しく育つでしょう」
声を出すことはできず、されど涙は止まらず、息苦しさに恐怖さえ覚えたでしょう。見しらぬご令嬢は肩を大きく揺らし、ぜぇぜぇと品のない呼吸をしていらっしゃいます。
「何よぉ、わたしにこんなことして、ぜ、絶対に許さないんだから」
「……あなたは何も理解する気がないのですね。また口をふさいでしまおうかしら?」
そう言うと見しらぬご令嬢は慌てて口を両手で隠しました。
「ふふふ、さ、わたしはそろそろお暇をさせていただきます」
「待ってくれ、ケイト。お願いだ。今、君がいなくなってしまったら、私はどうしたらいいんだ?」
殿下は泣きそうになりながら縋ってきましたが、もう遅いのです。
「知りませんわ」
「ケイト!」
オリバー殿下はそう言って床に膝を突いて涙をこぼされました。
「ケイト、私からも頼む。どうか……そうだ! コリンソンと婚約を結びなおすのはどうだろうか?」
陛下が、とてもいい案でも思いついたかのようにおっしゃいました。
コリンソン様とは第二王子です。婚約者も決まっていて、お二人が揃うと天使のようにかわいらしく、お二人を見ているとその仲睦まじいお姿におもわず癒されてしまう、そんな存在です。
「もし、陛下がそのようなことを本気でおっしゃっているのでしたら、軽蔑いたしますわ」
「――っ! す、すまない。だが、頼むから考えなおしてくれ」
「お断りいたします」
「ケ、ケイト!」
「もう、よろしいでしょうか? いつまでもこんな所にいても仕方ありませんので、帰らせていただきます。婚約破棄の手続きは早々にお願いいたします。わたしは意外と気が短いので、あまり待ちませんから」
「もし、婚約破棄を取りやめたら?」
オリバー殿下ったら、バカなことをおっしゃるのね。
「さぁ? この国が転覆? するかもしれませんね」
「ケイト、本気か?」
「あなた次第です、オリバー殿下」
「そんな……」
「それでは、皆さまごきげんよう」
わたしはニコッと笑い、自慢のカテーシーをして部屋を出ました。
「ケイト!!」
オリバー殿下が走って追いかけて来たようですが、殿下が廊下に出てくる前に瞬間移動でリリアージュ邸に帰りました。
屋敷に戻ると両親が出むかえてくれました。
「そろそろ帰ってくるころだろうと思っていたよ。大変だったね」
父はすべてを知っていたようです。母も少し涙ぐんでいますが、笑顔でわたしを抱きしめてくださいました。
「さ、急いで国を出なさい。陛下が国境を閉鎖する前に」
「お父様たちはいかがなさいますの」
「私たちのことは心配いらないよ。慰謝料を沢山いただいて、婚約破棄の手続きを終わらせるし、そのあとのことはちゃんと考えてあるから」
「わかりました。あとで必ずお会いできますよね?」
「あぁ、もちろんだ。お前にこのイヤリングを渡しておくよ」
父の手には綺麗なダイアのイヤリングが二つ。
「いつもこれを身につけておいてくれ。もうひとつが必ずお前を見つけるから」
「わかりました。ありがとうございます、お父様。お母様も」
「ケイト、私のかわいい天使。必ず無事に国境を越えてちょうだい」
お母様がわたしを抱きしめて頭をなでてくださりました。
「はい。愛しています」
「私もよ。さぁ、お行きなさい」
「はい、では、ごきげんよう」
母から渡された大きなバッグとポーチを持って、国境の少し手前まで瞬間移動し、父が用意してくれた偽の身分証明書を提示して、わたしは国境を無事に越えることができました。
父がもうひとつのイヤリングを、紙で作った鳥の足にくくりつけて大空に飛ばしたのは、わたしが瞬間移動したすぐあとのことでした。
「必ず、彼に届けてくれ」
お父様が祈るように呟いたのを、わたしは遠く離れた国境から、聞いたような気がいたしました。
それからわたしはふたつの国を抜けて、ストリア帝国に来ました。
海がキラキラと輝く美しい街並みを望む、少し小高い丘にポツンと立つ赤い屋根のかわいらしい家は、父がわたしのために用意しておいてくれたものです。わたしがこの家にたどり着いたとき、飛びたしてきたのは、幼いころからずっとわたしの侍女を務めてくれていたハンナでした。そして、ハンナの後ろから顔をのぞかせたのは、執事見習いとしてリリアージュ家で働いていたトマス。
「ハンナ、トマス!」
わたしは嬉しくてハンナと抱きあって喜びました。二人はわたしが到着するまで、心配で夜も眠れなかったそうです。わたしの瞬間移動は、行ったことのある所までしか使えません。そのため王国を出たあとは乗合馬車を乗りつぎここまで来たため、かなりの日数を要することになったのです。
父は、わたしが一生遊んで暮らせるほどのお金を用意してくださっていたので、しばらくはのんびりすることにしました。でもせっかく自由になったのだから、好きなことをしたい思いもあります。ありがたいことにお金はたくさんありますし、わたしは魔導士として優秀です。
「ね、ハンナ。わたし、学校を開こうかと思うの」
「学校でございますか?」
「そう、魔法学校よ。無償でやるつもりだから、お金のない子供でも通えると思うの」
「それは素晴らしいですね」
「そう思う? 主にね、生活魔法を教えるの。それ以外にも、習いたいことがあったらできる限り教えるの」
「楽しそうですね! 私もお手伝いしたいです、いや、習いたいかも」
「ふふ、良いわよ。ハンナも一緒にやりましょう!」
「それなら、僕も習いたいです」
トマスも目を輝かせています。
「もちろんよ。トマスはもともと魔力量が多いから、練習すれば高等魔法も使えるようになると思うわ」
わたしがそう言うと、トマスはますます嬉しそうな顔をして喜んでいます。
「いいな、トマス」
「ハンナ、あなたはとても手先が器用で慎重な性格だから、練習すればもっと便利な生活魔法を使えるようになるわ」
「本当ですか?」
「ええ、本当よ」
「わぁ、楽しみです。お嬢様」
ハンナもとても喜んでいました。
それから、二か月もしないうちに開校し、『丘の上の学校』と呼ばれるわたしの魔法学校は毎日賑やかなものになりました。見ず知らずの新参者が開いた学校ですので、誰も来てくれないかと心配しましたが、無償で学べることと、主に生活に根付いた魔法を教えていることが良かったようで、割とすんなり皆さんに受けいれられたようです。
それにほとんどの人が使える魔法ですが、学校に通えないがために基本的なことを学べず、単純な魔法しか使えなかった方たちからとても感謝をされています。
「皆さん、とても楽しそうでしたね」
ハンナが、授業を終えてソファーに深く腰を下ろし、手で肩をほぐしている私に温かい紅茶を淹れてくれました。
「ええ。本当に」
わたしの生活はずいぶんと充実したものになりました。以前の生活が充実していなかったかと言えばそうでもないのですが、やはりわたしには王太子妃より、こうして魔法を使う生活のほうが性に会っているようです。
あれから何度か両親から手紙が届きました。
オリバー殿下は廃嫡され、見しらぬご令嬢と結婚し、王国の端の荒れた領地を与えられ、そこに住まわれるそうです。災厄は殿下が引きうけますから、王都から少しでも遠くにやることで災厄から逃れようとなさったのでしょう。災厄の大きさによっては王都にも波及するでしょうが、王都に殿下がいるよりはましでしょう。
父は婚約破棄の手続きを粛々と進め、もう少しでこちらにいらっしゃるそうです。ちゃっかりしている父は、わたしが住むこの家より海に近い所に、白壁のかわいらしい家を用意していて、母とのんびりなさるそうです。
わたしには兄がいますが、彼は領地に残るそうです。責任感のある兄らしい決断です。殿下がいらっしゃる領地とは王都を挟んで反対側になるため、災厄もリリアージュ領までは届かないでしょう。
ハンナが淹れてくれた紅茶を飲みながらのんびりしていると、コンコンとドアを叩く音がしました。生徒が忘れものでも取りに来たのでしょうか?
トマスがドアを開けるのかと思えば、「今は手が離せないのでお嬢様が出てください」なんて隣の部屋から言います。わたしもすっかり、自分のことは自分でやるようになってしまったので、トマスのそんなお願いに何も思わず、「はーい」と応えてドアを開けました。
「やぁ、こんにちは、ケイト。この時間だと、こんばんは、かな?」
そこに立っていたのは、ウェスタン侯爵家の次男スティーヴン様です。黒く艶やかな短い髪に黒い瞳、高くてがっちりした体躯は、最後に会った時よりずっと逞しく、あのころと変わらないのは美しく優しい笑顔だけです。
「スティーヴン様……」
「久しぶりだね、ケイト」
「スティーヴン様!!」
わたしは、あふれる涙を止めることができずにそのまま彼の胸に飛びこみました。
まさか彼に会えるなんて思ってもいなかったのです。彼は強い意志を持って、わたしから離れました。わたしも同じです。もう、振りかえってはいけない、そう思って彼と決別したのです。
「どうしてここに?」
「伯爵が教えてくれたんだ」
「お父様が?」
「ああ。このイヤリングをしていれば、必ず君の所まで導いてくれるって」
見あげれば、スティーヴン様の耳にはわたしがつけているイヤリングの片割れが光っています。
「そうでしたか」
「ケイト、会いたかった」
そう言って、ぎゅっと腕に力を入れたスティーヴン様の切ない声を聞くと、わたしの胸もきゅっとして、捨てたはずの恋心があふれ出てきてしまいました。
オリバー殿下にあんなに酷いことを言ったのに、わたしはこの恋を捨ててはいなかったのです。ただこの思いに蓋をして気がつかないようにしていただけだったのです。それを認めてしまえば、もうあふれる思いを止めることはできません。
「スティーヴン様、わたしも、わたしもお会いたかったです」
わたしの腕に力が入り、体いっぱいでスティーヴン様を感じていました。スティーヴン様の香りに包まれて、頭が真っ白になりそうです
「お二人共、そろそろ邸にお入りくださいませ」
二人きりの世界に入りこんだわたしたちを、ハンナとトマスが生温かく見守っていましたが、そろそろいい加減にしてほしいと思ったようです。
「あ、あら、やだ、ハンナ、いたの?トマスも」
「当たり前でございます。さぁ、スティーヴン様も」
「ああ、ありがとう。ハンナもトマスも久しぶりだね」
「ご無沙汰しております、スティーヴン様」
ハンナとトマスも嬉しそうに挨拶をしました。
わたしは夢でも見ているのではないかしら。こんな所にスティーヴン様がいらっしゃるなんて、そんなこと、そんな幸せなこと、夢以外にありえないわ。
そんな夢見心地のわたしの手をスティーヴン様が引いてくださり、ソファーまで来ると、すとんとなぜかスティーヴン様の膝の上にわたしを座らせました。
「え? え? なんですの? ……スティーヴン様?」
わたしは突然の出来事に、ますますわけがわからなくなってしまいました。
「わ、わたしはどうしたらいいのかしら……?」
思わずきょろきょろとあたりを見まわしてハンナに助けを求めました。それに対して、スティーヴン様はますます腕に力を込めてわたしを抱きしめてきます。
「しばらくこのままで」
そんなスティーヴン様を見て、さすがのハンナも少し声を荒げました。
「スティーヴン様! いくらなんでも、やりすぎです!」
「ハンナ。私はケイト枯渇で死にそうなんだ。私に生きてほしいと思うなら、目をつむるか隣の部屋に行ってくれ」
わたし枯渇? なんですか、それは?
するとハンナは大きな溜息。
「仕方ないですね。今回は見のがします。ですが! それ以上のことはまだですよ!」
「わかっているよ」
それ以上のことー?!!!
ハンナとトマスはそう言って隣の部屋に行ってしまいました。
「あ、ハンナ、トマス」
わたしは慌てて声をかけましたが、さらにスティーヴン様の力強い腕に抱きすくめられ、身動きがとれません。
「ケイト」
「は、はい」
「きれいになったね」
わたしを上目遣いに見あげ、とろけるような笑顔で発せられたそのお言葉に、わたしの赤かった顔は更に赤く、指先まで真っ赤になってしまいました。心臓が大きく跳ねあがりスティーヴン様に聞かれてしまうと思うと、恥ずかしさは増すばかりです。
「ス、スティーヴン様はとても、とても格好よくて、以前よりもっと素敵になられました」
スティーヴン様の鍛えあげられた体はとてもたくましく、少し野性味が加わり、幼いころのかわいらしい面影は残念ながら残っておりません。あ、でもやはり優しい目元だけはあの頃と同じです。
「ははは、ありがとう。君がそう言ってくれるなら頑張ったかいがあるな」
「スティーヴン様。わたしは今のこの状況が理解できていませんの。スティーヴン様はなぜ、ここに?」
「どうしてかな?」
「それを聞いておりますのに」
スティーヴン様のちょっと意地悪なお顔は、わたしをからかうときによくしていた懐かしいお顔です。
「教えてくださいまし」
わたしがスティーヴン様の頬に手を添えると、スティーヴン様はわたしの手に頬をすり寄せてきます。
かわいい。スティーヴン様ってこんなにかわいらしかったかしら?
「君の幸せのためだよ」
「え?」
「君の幸せを願ったから、私はここにいるんだ」
「わたしの幸せ……」
「ケイトが殿下の婚約者となったとき、おじさんに言われたんだ。先読みを変えるも変えないも自分次第だと。だから、私はケイトの幸せだけを願うことにした。殿下と一緒なって幸せならそれでいい。それ以外に幸せがあるなら……それでもいい。ただ君の幸せだけが私の願いだ」
「スティーヴン様」
「私がここにいるのはケイトが幸せになるから。それだけだよ。最初から決まっていたことではあるけどね」
父の先読みには、最初から二人が共にある姿しかありませんでした。だから、スティーヴン様はわたしの幸せだけを願っていれば、再び二人がめぐりあうこともあると思っていらしたのです。
でもそれは、わたしがそれを望めば、の話だと思っておりました。殿下と何事もなく過ごせば、こうして再び会うことはできなかったのです。それとも、わたしが殿下に、国に尽くそうとした思いが足りなかったのでしょうか?
「ケイトの尽くそうとする思いより、私のケイトを愛する気持ちのほうが強かった。それでいいだろう?」
そう言って、スティーヴン様はわたしの髪を手に取り口づけなさいました。
「ハンナが隣の部屋からのぞき見ているからね。今日はこれ以上できなくて残念だ」
何をおっしゃっていますのー!!
もうわたしの心臓は持ちません。わたしは、恥ずかしくて恥ずかしくてスティーヴン様の頭をぎゅーっと抱きしめてしまいました。
「ケイト、私が君を幸せにしたい」
「……はい」
スティーヴン様の頭を抱きしめていた腕を緩めると、スティーヴン様がわたしの両手を優しく握り、熱くとろける瞳でわたしを見つめています。わたしは目をそらすこともできず、体中で鐘を鳴らしているかのようにドキドキしながらスティーヴン様を見つめました。
「ケイト、私と結婚してください。私はあなたをずっと愛しています。今もあなたを思う気持ちは募るばかりです。どうか、私とこれからを歩んでくれませんか?」
「わたしも、ずっとスティーヴン様を愛しています。これからもずっと、わたしをおそばに置いてかわいがってくださいませ……」
もうわたしは恥ずかしくて、だんだん声が小さくなり、最後までスティーヴン様に聞こえたかわかりません。でも、スティーヴン様が髪をなで、優しくわたしに口づけをしてくださりました。わたしは一瞬にしてすべてがとろけきってしまい、何も考えられなくなってしまいました、のですが。
「スティーヴン様!!」
「ひゃ!」
突然ハンナが飛びだしてきてわたしたちを引きはなしました。わたしの心臓は、ときめきと驚きで早鐘を鳴らしまくっています。
「ハ、ハンナ?」
「これ以上は、いくらなんでもいけません。旦那様のお許しもいただいていないのに」
もう、もう! いいところだったのにー!!
「ごめんね、ハンナ。ちょっと私も浮かれてしまって止められなかったよ」
そう言って笑ったスティーヴン様、とても素敵。もうわたしには、どんなスティーヴン様も素敵にしか見えません。
それから、半年後。わたしたちは婚約をいたしました。もちろんわたくしたちの両親が二人の婚約に反対することはありません。
「当然だ。二人はそういう運命なのだから」
父はすべてわかったうえで、陛下の打診を受けたのです。父は何度も、お伝えしたのです。殿下と結婚しなくても、私が国を離れなければ災厄をはらうのだと。
それでも、陛下はわたしと殿下との結婚を望まれていました。すべての災厄をはらう加護は何百年に一人現れるか現れないかの貴重なもの。そしてわたしは王国最強の魔導士の家系。
そんな貴重な存在を手に入れれば、息子の未来と、王家の安泰は約束されたようなものなのでしょう。けっして国の未来を考えてのことではないのです。
しかし、わたしとの婚約が破棄されたことで、隠されていた殿下の加護が露見し、国はひどく混乱をしているそうです。もちろんオリバー殿下は廃嫡。一代限りの男爵位を賜り、見しらぬご令嬢と共に西の小さな領に送られたそうです。
恐ろしいことに、殿下が西の領に向かうために通った道には、大量の害虫が発生し、今や殿下が住みついた領を中心に、その被害が広がり、農作物がすべて食いあらされる、という事態にみまわれているそうです。
そして陛下は、それを解決することと、周囲からのつき上げを抑えることで精いっぱい。きっと災厄はこれからも降りかかるでしょうに、最初からこれでは先が思いやられます。
国民の不満は日に日に膨れあがり、暴動が起こるかもしれない、と戦々恐々とする日々は目の前に迫っていますね。
そして、肝心のオリバー殿下のもとには、殿下さえ亡き者にすれば災厄が終わる、と周辺に住む貴族たちが次々と刺客を送りこんでいるそうで、殿下と見しらぬ令嬢は恐怖に震える日々を送っているとか。
実際には国に降りかかるはずだったあらゆる災厄が、殿下を中心に起こっているだけで、殿下が無駄に災厄を呼びこんでいるわけではないのですが。つまり、殿下を亡き者にすれば、災厄がなくなるわけではなく、起こるはずだった場所で災厄が起こるだけなのです。
それなら、殿下の周辺だけ災厄に備えればどうにかなるのでは? と思いますが、そう簡単なことではないですね。
殿下と見しらぬご令嬢を、人の住まない山奥に送りこむ手もあるでしょうが、そうなれば生きてはいけないでしょうし、陛下がそうはさせないでしょう。
殿下が亡くなれば、災厄は起こるはずだった場所で起こるため、被害が分散し、一か所に不満が集まることはなくなります。とはいえ、起こるはずだった場所なんて言われても誰も納得はしないでしょうが。
手詰まりとなったとき陛下はどのような選択をするのでしょうか。父の先読みでもそれは見えないそうで、とても残念だ、とぼやいております。
もうわたくしには関係ないことですが、兄だけは心配です。まぁ、父には幸せに過ごす兄の姿しか見えないそうなので、それほど心配はしていません。
一年後、わたしとスティーヴン様は結婚いたしました。
魔法学校も順調で、充実した毎日を過ごしています。両親もときどき遊びに来ては手伝ってくれるので、生徒たちもとても喜んでいます。実は我がリリアージュ家が魔導士として優秀であることは、国外でも知られていることだったようです。
それに最近、帝国からの打診で、帝国の魔導士教育にも携わるようになり、益々忙しい日々です。
ですが、愛する旦那様と一緒ならすべてが幸せです。スティーヴン様と一緒なら、猫を被らなくてもかわいいわたしでいられるのです。これからもわたしたちは手を取りあって幸せな人生を歩んでいきますわ。
余談になりますが、彼の国の国王は退位に追いこまれ、王妃と共に幽閉されているそうです。王位には、継承権第三位の公爵家の方が就かれたとか。
第二王子であらせられるコリンソン様は、王妃殿下のご実家に養子入りし、養父が持つ爵位のひとつを継ぐことが決まったそうです。婚約はそのまま維持されるそうで、なによりです。
そして、オリバー殿下は、奪われる前にご自身でその命を絶たれたそうです。降りかかる災厄や、次々に送りこまれる暗殺者、領民からの非難に耐えられなかったとか。
いったい、殿下の加護にはどんな意味があったのでしょうか?
思えば殿下はあまりに恵まれない環境だったように思います。親が用意した道を歩いただけなのに、その道はエゴと欲が散りばめられ、ただ守られるだけで考えることをせず、させられず。その結果、本分を見失い奈落へと落ちていく、そんな人生を最初から用意されていた殿下。
いったい、殿下の加護はなんのためにあったのでしょうか。
神が与える特別な力である加護は、本来わたしたちを守り助けるためのもののはずなのに。気まぐれというにはあまりに残酷な加護に、ちょっと神という存在を疑ってしまいますわね。
それでは、皆さまごきげんよう。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
誤字報告ありがとうございます。何度チェックしてもご指摘いただく誤字…
とても助かります。ありがとうございます!