第四章 新しい生活と揺れる心(1)
魔動車を降りた志乃は、目の前に広がる光景に目を丸くさせた。
「す…すごい……。これが異世界なんだ。まるで、映画の中に入ったみたい」
そう言って、見る物すべてに瞳を輝かせる志乃にジークリンデは、柔らかい微笑みを向けた。
ジークリンデは、志乃が転ばないように、その小さな手を握ってエスコートする。
そんなジークリンデの様子を少し離れたところから見ていたハルバートは、呆れた表情になっていた。
それもそうだろう、ジークリンデが志乃をハルバートたちに会わせた時のことを思えば。
時間は少し遡り、志乃が着替えを済ませて部屋を出てきたところまで話は戻る。
裾に小さな花の刺繍がされた白いワンピースを身に着けた志乃が部屋を出てきたとき、ジークリンデは、ハルバートが見たこともないくらいの笑顔を見せたのだ。
普段のジークリンデは、人々に頼もしい笑みを浮かべる人なのだが、今のジークリンデの笑顔は、それとは異なっていたのだ。
たとえて言うなら、今のジークリンデの笑顔は、砂糖でできたケーキにハチミツをかけたような、胸焼けしてしまいそうなほどの甘ったるさがあったのだ。
付き合いの長いハルバートには、一目でジークリンデが志乃に恋心を抱いていることが分かった。
ハルバートの志乃に対しての第一印象は、「子リスのような少女」だった。
周囲を警戒するように部屋を恐る恐る出てくる様子は、この弱い存在を守らなければと思わせるものがあったのだ。
ジークリンデは、部屋から顔を出した志乃に駆け寄って、慣れた様子で抱き上げていた。
「シノ、可愛いな。よく似合ってるよ」
「ジーク……。あの、自分で歩けるので、おろ―――」
「だーめ。シノの体は、もうシノだけのものじゃないんだ。俺の世界で一番大切な宝物なんだから。俺が、シノを大切にするのは当然」
「なっ! 何言ってるの! ジークのばか……」
「うんうん。シノは本当に可愛いなぁ。ちゅっ」
「ひゃ! な、なに?」
「シノのほっぺたが可愛くてついな?」
目の前で繰り広げられる激甘な空間に、ハルバートだけではなく、その場にいた他の部下たちも遠い目をすることとなる。
俺たちは、いったい何を見せられているんだと。
それでも、ハルバートは、何とか自分にここが踏ん張りどころだと言い聞かせて、ジークリンデに声をかけることに成功する。
「ゴホン。あー、えーと。ジークリンデ様……。我々のことをお忘れではないのですか? 完全に忘れてますよね? 忘れてるよな?」
途中言葉が乱れてしまいつつも、何とかジークリンデに自分たちの存在を思い出させることができた。
ジークリンデは、悪びれることもなくハルバートたちを視界に入れてから、志乃に視線を戻す。
志乃はというと、周囲にいるジークリンデ以外の存在にたった今気が付いたようで、火が点いたように全身を赤く染めていた。
そんな志乃を可愛いとばかりに見つめたジークリンデは、自然に志乃の額にキスをしていた。
そして、志乃が何かを言う前に、口を開いた。
「シノ、紹介するよ。さっき声をかけてきたのは、ハルバートだ。あいつは、いろいろと喧しいところはあるが、いいやつだ」
ハルバートを皮切りに、その場にいる部下たちを順番に志乃に紹介していった。
そして、ハルバートたちにも志乃を紹介する。
「この子がシノだ。俺の嫁になる、俺の宝だ」
まさか、ジークリンデが自分のことをそんな風に紹介するなど思ってもいなかった志乃は、手足をばたつかせてそれを拒否する。
「な! ち、違います! もう! 私、結婚するだなんて言ってないから!!」
「えっ? 俺のこと嫌いか?」
しゅんと肩を落としたジークリンデがあまりにも悲しそうな表情になっていたため、志乃はしどろもどろに言い訳をする。
「別に、嫌いと言う訳ではなくて……、私たち会ってそんなに経ってないし、お互いのことも知らないことだらけだし」
志乃のしどろもどろな言い訳に、ジークリンデは口元をニヤリとさせたことにハルバート以外は気が付かなかった。
気が付いたハルバートは、志乃のこの後の運命がなんとなく予測できてしまい、「ご愁傷さまです」と心の中で思う。
「そうか、嫌いではないということは、好きということだな。それなら問題ない。それに、愛に時間なんて関係ない。これからゆっくりじっくりお互いのことを知っていけばいいんだから。そだろう、シノ?」
「え? あの、ちが、そうじゃ」
「うん。照れ屋なところも可愛いんだな。ちゅっ」
「ひゃぁぁ」
完全にジークリンデに主導権を握られてしまっている状況で、志乃はどうすることもできなかった。
ただし、額や頬に優しくキスをされることを心の中で嬉しいと思う自分に気が付かないふりをすることに精一杯で、周囲の人たちが志乃とジークリンデのことを生温い視線で見ていたことに気が付かなかった。
もし志乃が、その視線に気が付いていたならば、ジークリンデを振り払って逃げ出していたことだろう。




