第五話 開戦前夜
ダルシム矢野は、大覇王ドームの正面ゲートをくぐり抜け、要塞内部に侵入した。その瞬間、視界が白く塗りつぶされた。磨き抜かれた大理石の床に目が眩む。人生で初めて経験する上質な間接照明に、ダルシム矢野の桿体細胞が悲鳴を上げる。
まるで太陽に近づきすぎて、爆散したイカロスになったかの様な感覚に陥ったダルシム矢野は、その場で受け身を取り、瞬きを繰り返した。
一瞬の後、視界を取り戻したダルシム矢野は、正面の受付ロビーからこちらを凝視して、困惑の表情を浮かべている職員のおばさんの元に歩み寄り、礼節を持って語りかけた。
「あまりにも眩しかったもので、つい暴れてしまいました。失礼いたしました。覇王ゲームに参加したいのですが、受付はこちらで?」
ダルシム矢野の説明で納得がいったのか、おばさんは警戒心を緩めた。
「はい、覇王ゲーム参加希望と言うことですね? こちらの用紙にお名前と住所をご記入ください。」
ダルシム矢野は、おばさんから申込書を受け取ると、ロビーの机に腰掛けて必要事項を記入した。
【覇王候補人間申し込み嘆願書】
名前:ダルシム矢野(真名は不明)
年齢:推定20歳
性別:男
住所:無し
職業:無し
一言:人が人に優しくなれる世界のため、覇王になりたいです。
「記入しました!」
おばさんは、ダルシム矢野から書類を受け取り、記入漏れがないか確かめると、向かって左の通路を指差した。通路の脇にはコンパニオンが立て札を抱えて直立していた。立て札には『覇王候補生歓待パーティー会場 宴ドームはこちら』と書かれている。
「これで覇王ゲーム参加の受付は成されました。戦いの前にしばしの休息を。あちらの宴ドームにて、歓待の宴が開かれますので、ぜひご参加くださいませ」
言葉の終わりに一礼するおばさんに送り出され、ダルシム矢野は通路を闊歩する。通路を進むにつれて、自身と同様に宴ドームに向かっているであろう人々が散見されるようになってきた。
浮足立った様子の群衆を、ダルシム矢野は冷やかな眼光で睥睨する。このような凡夫共が覇王足り得るのだろうか。
思考が表情に現れていたのだろう。ダルシム矢野の、まるで般若のような憤怒の表情に、すれ違う職員が小さく悲鳴を上げ、その場に倒れ込んでしまう。その様子を訝しんだ通行人が、ダルシム矢野に視線を向ける。そして、その顔を見た瞬間、恐怖のあまり床にへたり込んだ。
また一人、また一人、ダルシム矢野の前に人が倒れ込む。肩を怒らせ通路を闊歩するダルシム矢野に、まるで跪き忠誠を誓うかのようにひれ伏す人々。その異様な光景は、宴ドームの大広間、宴の間まで続いた。
通路の突き当り、『宴』の文字が大きく刻印された両開きの大扉の前で、ダルシム矢野は立ち止まる。己と志を同じくする覇王の卵達をひと目見ておきたい。そう思い宴へ乗り込むことにしたダルシム矢野であったが、道中の浮足立った者共によって、まだ見ぬ同胞への期待は地に落ちていた。
せっかくだから食事でもしておくか。無理くり理由を絞り出し、ダルシム矢野は宴門を開け放ち、宴ドームの大ルーム、宴の間へと足を踏み入れた。
所狭しと並べられた宴会机に、見たことも無い豪華な食事。生まれてこの方、スラムで飢えながら育ったダルシム矢野には、ここが極楽浄土かと一瞬失神しかけた。しかし、すぐにホールの中央から放たれる異様なまでの存在感に、現実に引き戻される。
気を引き締め、馳走を意識領域から一時的に締め出し、異様な気配の主に目を向けた。
その男は、抜身の剣のごとく研ぎ澄まされていた。ホール中央に設置された神輿の高みに鎮座して、眼下に蔓延る有象無象を睥睨しつつ、寿司を咀嚼する初老の益荒男。
この男こそが日本の支配者。大日本国首相その人であった。
ダルシム矢野は、呼吸すら忘れて首相に見入っていた。今まで出会ってきた者たちの中で、この男が最も『覇』である。ダルシム矢野は、その場に無意識の内にひれ伏そうとする足に渾身の力を込め、男に屈服しようとする本能に抗った。
決死の思いで直立を続けるダルシム矢野を置き去りに、宴の熱は加熱していく。
「ーーーハッ!」
気合の掛け声と共に、首相が神輿の頂きに屹立した。先程までの騒ぎが嘘かのように、宴の席が一瞬の内に静寂に包まれる。参加者たちは固唾をのみ、首相の動向に注目する。
「皆さん、楽しんでおられますかな?」
「ウオオオオオォォォォ」
「よろしい。皆さんには、明日の戦いに備えて英気を養っていただきたい。故に極上の余興を用意しました。ご堪能あれ! 大覇王カーニバル!」
首相が言い終わるやいなや、四方八方の襖が開き、サンバの衣装に身を包んだ齢10にも満たない子供たちが会場になだれ込んできた。
リズミカルな祭り囃子に合わせて、子供たちが舞を舞う。
現代日本において、娯楽は一部の最上流層にしか縁のないものである。故に鮮やかな衣装に、見慣れぬ踊り、これらは極上の娯楽そのものであるのだ。
会場には、鳴り止まぬ歓声が響き渡り、皆が見様見真似で即席のカーニバルを始めている。
「………愚民めが」
神輿の上で会場の様子を眺めやり、首相は小さく吐き捨てた。冷ややかな視線で会場を見回していた首相は、不意に唯一自分のことを睨みつける男がいる事に気付き、感嘆の声を上げた。
「ほぅ」
首相の『覇』に当てられ、ダルシム矢野は身動きを封じられていた。しかし、カーニバル少年隊の乱入により、ダルシム矢野を縛る鎖は引き千切られた。
それは純然なる怒りの感情。ダルシム矢野は、神輿の上に鎮座する男に射殺さんばかりの鋭き眼光を向けた。その刹那、首相の視線とダルシム矢野の視線が重なった。それと同時に会場に、一迅の突風が吹き抜けた。テーブルの上の刺し身が吹き飛ばされ、不快な音と共に壁に張り付いた。
それは、稲妻の顕現。ダルシム矢野は、爆発的な加速を持って次の瞬間には首相に肉薄し、その胸ぐらを掴み咆哮を上げた。
「年端も行かぬ子供に低俗な舞を踊らせて、恥を知れっ!!」
首相は胸ぐらを掴まれながらも、一切臆すことなく寿司を咀嚼する。そして、口元に僅かな笑みを浮かべた。
「合格です。」
「なんだと!?」
「覇王ゲームの予選に合格したと言ったのですよ」
予期せぬ朗報に困惑するダルシム矢野に、首相は話を続ける。
「現在、宴ドームの全宴ルームを総動員して100の宴を同時開催しています。各宴で合格者は先着1名。選考基準は宴に飲まれない事です。」
首相は一旦言葉を区切り、周りを見渡した。
「ご覧なさい。生まれて初めて見る馳走、初めて体感するカーニバルの熱気、皆が非日常の享楽に溺れています。その中で君だけが、平常心を保っていた。それにーーー」
首相は柔和な笑みを浮かべた。
「君は、子供たちのために激怒した。誰かの為に行動できる人だ。今の日本に君のような若者がいることを、私は嬉しく思う」
ダルシム矢野は、偉いおじさんの称賛に照れくさくなり、そっぽを向く。
「人と話すときは目を見なさい。失礼ですよ」
ダルシム矢野は、非礼を自覚し慌てて首相の目を見た。
「よろしい。さて、宴もたけなわ。合格者には、部屋が用意されています。明日の開戦に備え今日はもう眠りなさい」
首相は、懐からルームキーを取り出し、ダルシム矢野に手渡した。
「では、よい夢を」
ダルシム矢野は、丁寧にお辞儀をすると出口に向けて歩き出す。その背中に声が投げかけられる。
「ーーー君、名前は?」
「ダルシム矢野」
ダルシム矢野は、振り返ることなく答えると会場を立ち去った。