第二話 決別の焔
ダルシム矢野は、薄汚れたすのこの上で覚醒した。崩れた壁から覗く外はまだ薄暗い。飛脚ウォッチを見ると時刻は午前4時を回ったあたりだった。
飛脚の仕事は、毎朝午前5時半にスラムの中央ゲートに集合することから始まる。6時になると最寄りの国営シェルターから国家高等飛脚員が配給を中央ゲートに運び込むので、これを受け取り民草に配達する事になる。
矢野家のあばら家から中央ゲートまでは、走れば10分ほどでたどり着ける距離である。もう少し眠ろうかと思い、ダルシム矢野が瞳を閉じようとした時、台所から声が聞こえてきた。
「だるや〜ん、ご飯じゃぞ。お仕事行く前に食べときんしゃい」
老女の声に応えると、ダルシム矢野は重い体をゆっくりと起こし、居間に移動した。
「ほれ、じぇりーをこねたお団子じゃ。寝起きじゃけぇ、体に優しいように、えなどりは温めておいたからのぅ」
「ありがとう、ばあちゃん。いただきます!」
団子を頬張りながら、ダルシム矢野は対面に座る老婆を見る。老婆の手元には栄養補給ゼリーが1つ置かれているだけだった。
「ばあちゃん、エナドリもちゃんと飲みなよ」
「ええんじゃ。わしゃあ、あれは好かん。じゃから、だるやんの為に押入れに貯めとるんじゃ。配給が始まってからもう半年じゃ。200本近く溜まっとるけぇ。好きなときに飲みんしゃい」
毎朝のお決まりのやり取り。ダルシム矢野は、老婆に少しでも栄養を取って欲しい。老婆は、ダルシム矢野に少しでも形ある物を残してやりたい。お互いが互いを思いやった結果、矢野家の押し入れにはエナジードリンクが日に日に積み上がっていくのだった。
「だるやん、そろそろ家を出る時間じゃ。気をつけてのぅ。」
「そうだね、ばあちゃん、行ってくるね」
ダルシム矢野が疾走のための加速を始めようとした時、背後から老女の声がかかった。
「だるやんっ」
ダルシム矢野が反射的に振り返ると、そこには真っ直ぐと自分を見つめる老女が立っていた。老女に拾われてから20年、彼女のこのような表情は見たことがなく、ダルシム矢野は面食らってしまった。
「呼び止めてすまんねぇ。少し顔を見せておくれ」
老女はダルシム矢野を見つめると、愛おしいものを見るような優しい瞳で微笑んだ。
「大きくなったのぅ。おどりゃあ、わしの自慢の孫じゃて」
「ばあちゃん………どうしたの?」
「何でもない、ほれ! 仕事遅れるぞえ? 行ってきんしゃい」
「行ってきます、出来るだけ早く仕事終わらせて帰ってくるね!」
見慣れぬ老女の表情と発言に、一抹の不安を抱えながらも、ダルシム矢野は中央ゲートに向けて疾走する。道中、ダルシム矢野は不安を振り払うように思考する。老女は齢80オーバー、気弱になっているのかもしれない。帰ったらちゃんとエナドリを飲むように説得しよう。そんなことを考えている内に中央ゲートに到着した。
ダルシム矢野は早く家に帰りたい一真で全力疾走を繰り返した。この瞬間、ダルシム矢野は間違いなく世界最速の飛脚であった。努力の甲斐もあり、ヘトヘトになりながらも、15時には一件を残してすべての配達を完遂する事ができた。残すは老女の家、ダルシム矢野の家だけだ。
ダルシム矢野は早る気持を抑え込み、走りなれた道を疾走する。程なくして、矢野家に到着したダルシム矢野は放心した。
結果から言うと矢野家は野盗の襲撃を受け、見るも無惨な程に荒らされていた。脳が麻痺したかのように機能しない。焦燥感に襲われる。しかし、体が動かない。頭が真っ白で、何も考えられない。
どれほどの時間そうしていただろう。1分かもしれないし1時間かもしれない。ダルシム矢野は、ゆっくりと震える手を玄関のドアに伸ばそうとした。その時だった。
「ヒャッハー、エナドリ大量じゃあああああああああ」
家の中から野太い咆哮が響いてきた。その瞬間、ダルシム矢野は、無意識のうちにドアを蹴破り、居間に向けて疾走した。
廊下と居間を隔てる襖を体当たりで打ち抜き、部屋に飛び込んだダルシム矢野は目撃してしまう。髭面の山賊が、押し入れからエナドリをナップサックに詰め込んでいる姿。そして、その足元にうつ伏せに倒れている老女を。
世界が壊れる音がした。
「殺してやる」
ダルシム矢野は、老女に配達するために持っていたエナドリを、山賊の後頭部目掛けて投擲した。山賊は、押し入れを物色しながらエナドリを数十本飲み干していたようで、酩酊状態であった。故に受け身を取ることなく、投擲されたエナドリは山賊の後頭部にクリティカルヒットした。
「いってえええええええ!!!!!」
山賊は予期せぬ激痛に咆哮を上げると、そのまま盛大に倒れ込んだ。ダルシム矢野は、山賊の飲み散らかしたエナドリの缶を拾い上げると、そのまま両手で掴み引き千切った。鋭利な金属の断面が、まるでナイフのようにダルシム矢野の手元で煌めいた。
ダルシム矢野は、失神した山賊にゆっくりと歩み寄り、エナドリックナイフを薄汚れた首元に突きつけた。その瞬間であった。
「だ………るぅ………やんっ、い………いっかん、よ」
ダルシム矢野は反射的に咆哮した。
「ばあちゃあああああん!!!!」
ダルシム矢野は老女に駆け寄った。息はある。息はあるが、これはもう助からない。それを悟ったダルシム矢野の瞳からは、止め処なく涙が溢れてくる。
本当は予感していた。だから、怒りで不安を上塗りした。山賊に全ての意識と感情を向けることで、老女の事を視界に入れないように、意識に入れないようにした。残酷で受け入れがたい現実を見たくなかったから。
でも、もう無理だ。山賊への怒りは急速に萎んでいき、今やダルシム矢野の全ては老女に向かってしまった。底しれない絶望がダルシム矢野に襲いかかる。血が出るほどに拳を握りしめ、歯を食いしばっていると、瀕死の老女がか細い声を上げた。
「人を………恨んでは、いけない、よ………」
そんなの無理だ。
「優し………い、だ、るやん………で、いて………おくれぇ」
無理だよ。
「でき………る、ね?」
出来ないよ。
「………だるやん!!しっかりしんしゃい!!」
はっと息を呑み、ダルシム矢野は顔を上げて老女を見た。老女は、どこまでも安らかな表情で事切れていた。その顔を見ていると、自身の中の怒りが徐々に消えていく気がした。
しばらく老女の顔を見つめ、その穏やかなデスマスクを脳裏に焼き付けると、ダルシム矢野は老女の体を抱き上げ庭に運んだ。もはや失神した山賊には目もくれない。
ダルシム矢野は庭に穴を掘り、老女の遺体を埋葬した。スモッグに覆われた漆黒の空を見上げて、ダルシム矢野は瞑想する。ゆっくりと目を閉じ老女の言葉を思い出す。
ばあちゃんは、人を恨むなと言った。
優しくあれと言った。
この怒りと絶望は何処に向ければいい?
………世界だ。こんな世界だから人は人に優しくなれない。
余裕がないから、他者より自分を優先する
誰かを踏みにじらねければ、生きられない世界だから山賊が発生する
人が人らしく人を愛せる世界を
そのためには………
「僕は世界を否定する!!」
目を見開くと、ダルシム矢野は飛脚ウォッチを引きちぎり天高く投擲した。今のダルシム矢野にとって飛脚ウォッチは、この絶望の世界を作った政府の象徴だ。ダルシム矢野は今この時、飛脚と決別した。
今この瞬間が運命の収束点。すべての因果が集う特異点。運命の歯車が爆発四散した。
投擲された飛脚ウォッチは、ダルシム矢野の家の裏を疾走中の飛脚の頭上に落下した。
ボッカーン!!!!!
時計の自爆機構が作動して、大爆発が巻き起こる。そして、その爆風に飲まれて、さらに別の飛脚の時計が誘爆される。
ズッドーン!!!!! ボッカーン!!!!! ズッドーン!!!!!
スラムの至るところで爆発が繰り返される。スラム人の7割が飛脚である。つまり、スラムには大量の飛脚が所狭しと走り回っているのだ。一度火がつくと、もうどうすることも出来ない。火薬庫に松明が投げ込まれたかの如く、スラムを包む炎は勢いを増し続ける。
スラムには絶え間なく爆発音が響き渡っている。紅蓮の炎に包まれたスラム街を逃げ回る飛脚達。
ズッドーン!!!! また一人。
ボッカーン!!!! また一人。
飛脚が煉獄に取り込まれて行く。炎となりし飛脚は爆風に乗りスラムを駆け抜ける。ダルシム矢野には、なぜスラムが燃えているのか皆目見当がつかなかった。しかし、狂った世界が浄化されていくようできれいだなと思った。世界を救うために、飛脚を燃やして回るのもいいかもしれないと考えている時だった。
爆風に乗って一枚のチラシがダルシム矢野の手元に運ばれてきた。そのチラシを流し見ると、ダルシム矢野は老女の墓に一礼して中央ゲートに向けて歩きだす
紅蓮の焔を背に、ダルシム矢野はゲートをくぐりスラム街を後にする。そして、握りしめたチラシを胸に当て咆哮した。
「僕は………覇王になる!!」