第一話 運命の赤子
タナトスレポートが発表されてから33年。世界は荒れ果てていた。県庁所在地は例外なくスラム化しており、民草は今日の食事にも事欠く行き地獄となっていた。
その一方、選ばれた上流階級層の人間は国営のドームシェルターに格納され、快適な生活を送っていた。0.001%の上位層と99.999%の下層市民。
このような、超格差社会にもかかわらず、不満は不思議なほど起こらなかった。それどころではないのだ。民草の生活は苛烈かつ劣悪なもので、自分が今日生きるので精一杯。たとえ負の感情であろうと、他者に意識を裂く余裕すらないのだ。
そんな終末世界の片隅で、田舎スラムの路地裏で、運命の歯車はゆっくりと動き出す。そこは、どこにでもある小スラム。風化した廃墟群を、一人の青年が駆け抜ける。まるで風と一体になったかのような、軽やかな身のこなしは、まるでコンドルと見紛うようであった。
朽ち果てた廃屋の隙間を縫うように疾走していた青年は、薄汚れたあばら家の前で立ち止まる。そして、青年はドアを力強くノックした。
「本日の配給です。エナジードリンクとゼリーのお届けに参りました」
朽ち果てたドアが開き、中年のおじさんがウッキウッキで現れた。
「こちらが本日の配給です、どうぞ」
おじさんは青年からエナドリとゼリーを引ったくるように受け取ると、ものの一秒のうちにエナドリを飲み干し咆哮した。
「くうううううううぅぅぅっ!!!!!」
「見事な飲みっぷりですね。では、また明日配達に来ますね」
そう言い残すと、青年は再び、風のごとく廃墟群の隙間を疾走した。
青年の名前はダルシム矢野。スラム街の住人であり、飛脚である。
スラムでは、その住人の約7割が飛脚として働いていた。激烈な環境汚染により、農林水産業が壊滅したことで、飲食業界も連鎖崩壊。さらに、水回りはヌードリアに制圧され、水道業者も絶滅。
発電施設は、野盗に襲撃され金属パーツを盗まれ運営が困難になり、電力会社もまた消え失せた。当然、小売店がオープンしようものなら、開店と同時に野盗が押し寄せ、ありとあらゆる物品を略奪されてしまい、即閉店。
そのような状況下で仕事として成立するのは、政府より配給される物資を配達する飛脚に限られるのは、至極当然のことであろう。また、すべての飛脚達は国より腕時計を支給されており、強い衝撃を検知すると爆発する機能が搭載されている。
この機能は野盗の襲撃に対する抑止力となり、円滑にエナジードリンクの運搬を可能としているのだ。
「ただいまー」
夕暮れ時、ダルシム矢野は本日最後の配送先である見慣れたあばら家に訪れていた。しばらくすると、玄関の扉がゆっくりとスライドして開いた。そして、中から老いさらばえた老婆がひょこひょこと顔を出した。
「ばあちゃん、これ今日の配給だよ」
「おお、だるやん、ご苦労しゃん。今日はもうお仕事はおしまいかえ?」
「そうだよ。」
「ほんじゃあ、疲れとろうから、ゆっくり休みんしゃい」
「ありがとう、ばあちゃん」
こうしてダルシム矢野の1日が終わる。過酷な飛脚業に従事する日々の中で、貴重な安息のあばら家タイム。ダルシム矢野は薄汚れたすのこの上で失神するかのごとく泥酔した。
20年前のある日。スラムのピラティーに一人の赤子が捨てられていた。
「おんぎゃ〜、おんぎゃ〜」
早朝のスラムの静寂を切り裂く赤子の咆哮。スラムでは日々、生存戦争が繰り広げられており、あらゆるリソースの奪い合いが日常である。したがって、子供を生むということは、略奪戦のプレイヤーの母数を増やす行為であり、必然的にスラムにおける出生率は非常に低くなっている。
赤子の声など生まれてこの方、聞いたことすらない民草も少なくない。故に、いつしか赤子の周りには多くのスラム人が集まっていた。
「可哀想にのぅ」
一人の老女が赤子に歩み寄り、割れ物でも扱うように優しく抱きあげた。
「ば、ばあさん!! いかんぞ!! こいつを引き取るつもりか!? 育てるためのリソースはどうする!? プレイヤーが増えても、全体のリソースの総量は変わらん!! こいつがこのスラムに参入するってことは、俺達の取り分が減っちまうってことだ!!」
老女に向かって、群衆の中からおじさんの怒号が浴びせられた。
「わしゃ、むずっこいことはよーわからん。じゃが、おみゃーさんは、こんな赤子がゴミ捨て場に捨てられて可愛そうに思わんのかえ?」
「思うよ!! 思うけど、俺は俺の利益を優先するね! ばあさん、俺たちは今を生きるので精一杯なんだ。赤子だろうがなんだろうが、他人を気遣う余裕なんてない!! そうだよなぁ、お前らぁ!?」
「………そうだ」
「そうだよ………」
「うん………」
群衆がおじさんに消極的に同意する。良心の呵責を感じながらも、他者と己を天秤にかけ、皆が自分を選んだのだ。究極の貧困状態。極限のサバイバル同然のスラム生活の中では、彼らの選択は当然である。
「ほぉか。わかった。誰の力も借りん。わしが育てる。わしが何もかんも用意して育てる。誰からも何一つ奪わん。じゃけぇ、わしに育てさせておくれ。頼まい」
群衆はしばし黙考し、耳が痛くなるような沈黙の中、赤子の咆哮だけが響き渡る。そして、先刻、老女に食って掛かっていたおじさんが口を開いた。
「俺は、リソースが余分に奪われなけりゃそれでいい。ばあさん、あんたのリソースのみを分け与える。それなら、俺は構わない。そうだよなぁ!? お前らぁ!?」
「………まぁ、それなら」
「オレも………」
「じゃあ、わしも」
群衆は、おじさんに消極的に同意した。かくして、赤子は老婆に引き取られた。老婆の家名である『矢野』そして、インドの高名な僧侶、手を伸ばすという奇跡を起こした伝説の聖人『ダルシム』の名を取り、赤子は『ダルシム矢野』と名付けられた。
「今日からお前はダルシム矢野じゃ。だるちゃん………だるやん。ああ、だるやん! めんこいのぅ。ダルシムさんの腕みたいに、のびのび育つんじゃぞ」
後に世界の命運を握る激戦に身を投じる男は、その運命を知ることなく、老婆の腕の中でつかの間の平穏に身を委ねるのであった。