番外編 スーリヤ
スーリヤは周囲の者達に大丈夫、大丈夫と言い続けている内にいつしか体の自由が利かなくなりつつ事に気づいた。
肌が荒れて醜くなっていく自分を誰にも見せたくないと面会を拒否し、医師とはいえ夫以外の男に体を触れられるのを嫌がり、診察を拒み続けてきた結果、取り返しのつかない事態に陥ってしまった。
仕方なく、息子の家庭教師であり医学の知識もあったヤブ・ウィンズローによる診察だけは許した。だが処方された薬を飲んでも肌は改善せず、体はさらに動かなくなっていった。
周囲の者は一人、また一人と去って行き息子はいつまで経っても帰ってこない。
どうしていなくなってしまったのか。
どうして帰ってこないのか。
病は脳も蝕み、スーリヤはそれさえも忘れてしまった。
乳母に問いたくても口も動かない。
「あ・・・う・・・」
「何かおっしゃいましたか?」
かすかに動いた指と口に気付き、乳母が手袋越しに脈を図る。
「ひっ」
だが、脈が明らかに異常だった。
血管が浮いてびくんびくん、と生物のように跳ねている。
スーリヤからは鼻血が垂れ、皮膚がひび割れて膿が飛び出し、周囲に臭気が広がっている。乳母はすぐに医師を呼びに行った。
◇◆◇
それから数週間、使用人達は悪臭に耐えながらも、後始末をしてくれていたが、乳母の見ていない所では口さがない噂話をしていた。
元々いた使用人の多くは逃げ去ってしまい、この女達はもともと離宮に仕えていた女ではなくベルンハルトが手配してあてがった使用人だった。
「もう嫌、臭くて堪らないし。死んだら元も子もないでしょ。お給金がいい訳でも無いし、もうこんなとこ辞めましょ」
「そうね、先週止めた人も病気で倒れちゃったらしいわ。肌に発疹が出来て、高熱が出たんですって」
「うわ、最悪。あたしたちもやばいじゃん。お后様のお世話したことがあれば次の仕事も見つかりやすいっていわれて来たけど、死んだら元も子もないわ」
「そうよね、こんな皺だらけのくっさいお婆さんがお后様だなんて信じられない」
「ちょっと・・・聞こえちゃうわよ」
「平気よ。もう頭もおかしくなってるもの。聞こえてないわ」
しかしスーリヤの耳はまだ機能していた。
視覚は色覚を失ってしまっていたが、かすかにまだ見えている。
嗅覚は完全に失った。これは自己防衛の為かもしれない。
スーリヤを嘲笑いながら世話をしていた女に、報復とばかりに飲まされた薬を吐いて飛沫を飛ばしてやった。
小さくけほけほと咳き込むのが精一杯だったが、それで十分だ。
悲鳴を上げてその女は逃げていった。
代わりに大きく暖かい気配が近づいてきてスーリヤを抱き上げて椅子の上に移動させてくれた。見なくてもシセルギーテだと分かる。
帝国騎士の仕事はどうしたのだろうか。
私の事はもういいから自分の人生を歩んで欲しい。
この三十年間彼女を縛り付けて輝かしい騎士の道を妨げてしまった。
彼女は女性初の近衛騎士となるのも時間の問題とさえいわれている。
女性がもっとも栄誉ある皇帝の片腕になれるのだ。
スーリヤの世話をしていなければもっと早くなれていただろうに。
「スーリヤ様、泣いていらっしゃるのですか?」
やはりシセルギーテだった。
手ぬぐいでスーリヤの血の涙を拭ってくれている。
これまでの感謝と別れを口にしたいのに、口はもう動かない。
帝都では熱砂の国の舞姫として持て囃された彼女にはもはや見る影もない。
無念だった。
もっと早く医者にかかっていれば・・・いや、息子を連れて国を出ていれば良かった。
もはや体は完全に麻痺して、何も出来なくなってしまった。
頭皮と頭蓋骨の間に蛆でも湧いて這いまわっているかのように激痛が走り、考え事もままならなくなっていく。
スーリヤは必死に心の殻に閉じこもって、息子の帰りを待った。
彼女の心核に近づいて来る蟲のようなモノには、炎の魔術で焼き払い必死に己を守った。
この時、五感を失った彼女は第二世界に己を退避させて魔術を行使していた。
使用人達を感染死させた病原菌は神がアンチョクス王を懲らしめる為に放ったとされる呪いの蟲であり、アイラクーンディアがゲリアを殺害する為に使ったおぞましい力だった。
スーリヤにこの『毒』を与えた者は何故、スーリヤだけが死なないのかずっと疑問に思っていた。しかし、スーリヤの本体は既にこの第三世界には無く、第二世界すら越えて第一世界、神の世界に近づいていた。
スーリヤは長年、マナを捧げてきた炎の神オーティウムに助力を願い、炎の鞭を振るって精神汚染を試みる蟲と必死に戦っていたのだが、ただの魔術師にはこの戦いを知覚する事も出来ていなかった。
現象界の目に見えるのは、ただ身動きの出来なくなった醜い女と膿だけ。
◇◆◇
果てしなく長く続いた戦いも終わりの時が来た。
とうとう息子が帰って来たのだ。
息子のマナスが近づくと蟲達も慌てて逃げ行くかのようだった。
今が好機と、彼女が耐えに耐えて残していた意識を現象界に戻すにつれて、激痛が彼女を襲う。だが、息子をこの国から解き放つ為に必要な痛みだった。
絶叫しながら再びスーリヤは現象界に舞い降りた。
長い間、動くに動けなかったが少し時間があれば口くらいは開けそうな気がする。
しかし、息子と自分を妨害する位置におぞましい呪いの蟲を持った男がいる。
その男は息子を騙し、スーリヤに与えた薬を飲ませようとしていた。
が、それは罠だ。そうはさせない。
スーリヤは己だけならば守れたが、息子にはまだそんな力は無い。
スーリヤは息子を護る為におぞましい蟲の力を取り込んでヤブ・ウィンズローに襲い掛かった。
そして、魔術師は死んだが、雇い主はまだ生きている。
スーリヤに出来たのはここまでだった。
息子は去り、脳の奥まで呪いの蟲に侵蝕されて、完全に正気を失った。
彼女を救える者は生命の泉の女神ゲリアの治癒にあたった神だけ
――だが、地上にもはや神はいない




