第34話 ヴィターシャ・ケレンスキー②
「世の中を変えてやるのよ、ヴィターシャ」
コンスタンツィアは言う。
自立を目指すヴィターシャは、父親に従属しつつもそれなりに幸福に暮らしている東方圏の女性達を見て悩んでいた。少なくとも生活は保障されている。
コンスタンツィアとの長旅で当たり前の暮らしがいかに大変か思い知って来た。
実家にいればさほど裕福で無い家でも、方伯家に仕える貴族だ。
何一つ不自由なく暮らせる。
黙っていても食事は準備され、暗くなれば館のほうぼうに火が灯されて常に明るく、湯は沸かされて常に清潔な状態を維持出来る。
しかし今は侍女もいない。
コンスタンツィアに侍女はいるが主人の世話を焼くのが優先されているので、ヴィターシャやヴァネッサは二の次だ。
フィリップらに別れを告げて、メルニアを訪問し沿岸部沿いに南下していくと船は蒸し暑くなり、時々体調も悪くなる。診てもらおうにもまともな病院は無く、女性の医師もいない。
訪問先では清潔なトイレも無く、毎回目を背け、鼻が曲がりそうな匂いに耐えながら用を足す。常にスリを警戒し、安全な寝泊まり場所を確保するのに昼過ぎの時点で必死になって探す。
その為、毎日出発は朝早い。
金があっても生活はこんなものだ。庶民の暮らしはもっと酷い、帝国貴族として生まれ育った女性には耐えがたい。せめて働こうにも働き口は少ない。
心が折れそうになるヴィターシャをコンスタンツィアは励ました。
「いい?今から700年前に皇后マグナウラは私費を投じて自分の宮殿に教師を招いて学院を起こしたわ。そこで学んだ女性達が文学活動や新技術を開発して世の中を変えていったの。後に続くわたくし達が諦めたら先人の苦労は台無しよ」
コンスタンツィアの意識は常に高い。
身分も、気高さも、美しさもどんな状況でも失われる事は無い。
「まー、その前に私達死んじゃいそうですけどね」
ヴァネッサが嘆く。
◇◆◇
彼女達は東方圏最南端を通過した後外海極東沖で嵐に遭い船が転覆して放り出された。
「大いなる自然には勝てないわね。これも神の試練よ」
「で、試練を乗り越えたら何か報酬でも貰えるんですか!?」
ヴァネッサはこんなはずではなかったと呟き、精神的に追い詰められコンスタンツィアにさえ当たっていた。
護衛の騎士達も侍女も誰もいない。コンスタンツィアがどうにか友人だけ魔術で救いあげて必死に陸地まで泳ぎきった。
「やめなよヴァネッサ。コンスタンツィア様のおかげで助かったのに」
「コンスタンツィア様のおかげでこんな目にあった、の間違いでしょう!?」
ヴィターシャは宥めようとするも当たり返されてもう手に負えないと口出しを諦めた。
「御免なさいね、ヴァネッサ。どこか帝国軍の駐屯基地を目指して移動しましょう」
彼女達はどこかの入り江に流れ着いたようだが、近くに港はなく森が広がっている。
「そうですね、でも服はどうしましょうか」
夜に嵐に遭ったので、皆寝巻である。
コンスタンツィアが身に着けていた各種魔術装具も外してしまっていたので何も使える道具がない。ずぶぬれで肌にぴったり張り付いてあられもない恰好だ。貴族の女性三人にとってはこんな恰好で人前に出るのは辛い。
「どこか民家で服を借りましょう」
「民家って!?この辺の人が帝国嫌ってたらどうするですか?私達なんて監禁されて奴隷扱いにされますよ!」
ヴァネッサがキンキン声で文句を言った。
ヴィターシャはいい加減にして!と怒鳴り返したい処だったが、二人で喧嘩するとコンスタンツィアが困ると思って黙った。
「そうね。ヴァネッサのいう通りこの辺りは危険かも」
コンスタンツィアは一考してヴァネッサの言葉に頷いた。
「うぇっ?ほんとに?」
「ええ。この辺りは同盟市民連合の都市が近いかも。エッセネ地方は過ぎてた筈だからこの辺りの沿岸部沿いの森はエルセイデ大森林といって開発が禁止されていてほとんど民家もないらしいわ」
彼女達は帝国東方圏行政府と南方圏行政府があるヴェッターハーンに到着後、聖女達が起こした奇跡によって完成した運河にある聖地を訪れた。
それからラール海を通って外海に出た。
行政府で入手した情報によると古代帝国はエッセネ地方の攻略に手間取り、無視して艦隊は極東圏北部まで迂回したらしい。東方圏の降伏後もこの周辺の住民が聖なる森と崇めていた為、白の街道は建設されなかった。
信仰問題で東方圏が1,000年も徹底抗戦を続けた為、講和条件に信仰を尊重する事も入っていたのが開発をしなかった理由の一つ。
もう一つは既に終戦していた為、そもそも軍用高速道路である白の街道を建設するさしせまった理由もなく外海側の開発は新帝国時代に入ってからも放置されていた。
反王制、帝国を掲げる小都市があったが、いちいち制圧するのも面倒なので昔から東方総督も総督制が廃止された後の行政府も、帝国本国の政府も都市国家から出ない限り自治を許した。そういった都市がまとめて同盟市民連合と呼ばれている。
「どどど、どーするんですか!私達ほんとに奴隷にされちゃいますよ!!」
ヴァネッサのキンキン声にうんざりしたヴィターシャが我慢しきれず文句をいった。
「あんたが暑い暑い煩いから海神様が船をひっくり返してくれたんじゃないですか?」
ヴェッタハーンの辺りからラール海沿いのバルアレス王国は、あまりにも蒸し暑くて拭いても拭いても常にびっしょり汗で濡れているかのような状態だった。
「私のせい?だったらもう神様なんか信じない!」
巡礼者にあるまじき言葉だったが、巡礼中の事故死は結構多い。神のお迎えに喜ぶものもいれば、このように恨む者もいたかもしれない。
「あんたは自分の意思でついてきたんでしょ?神様や私達に当たるのはやめ・・・」
ヴィターシャは言い返している途中で口をぱくぱくさせた、途中で声が漏れていない事に気づく。対するヴァネッサも気が昂っていたので音が出ていない事に気付くのが少し遅れた。
パンパンと手を打つコンスタンツィアに気付いて二人して顔を見合わせた。
コンスタンツィアが魔術で空気の振動を止めて風の魔術で結界を作っていた。二人の口の動きが止まるのを見てから魔術を解いた。
「もういい?周囲に危険な人がいたらほんとにヴァネッサのいう通りになるかもしれないわよ」
二人ともこくこくと頷いた。
「とりあえずうかつにそこらの植物には触らないようにね。ひょっとしたら毒があるかもしれないから」
「ええっ?」「しっ」
コンスタンツィアもこんな遠方の植物については詳しく無いが、世の中には触れただけで炎症を起こし、粘膜に触れれば激痛でその部位を抉り取りたくなるほどの苦しみを味わうものもあると聞いた事がある。
「知らない植物には触れない方がいいわ。動物や、魚もね」
「でも、何も食べなければ飢え死にですよ」
「野豚の類ならいるんじゃないかしら・・・。最悪、鳥とか馬とか?」
コンスタンツィアも自信はない。
それでもどうにか生き抜いてこの二人を帝国本土まで送り返さねばと誓った。
「野生動物・・・、刃物も何も無いのに狩れますかね?」
「杖も魔石も触媒もないから、ちょっと大変ね。狼とか群れで動いてる動物は避けましょう。あと魔獣が出たら私にはとても倒すのは無理ね」




