第五章前編:挿話② フィリップとフランツ
新帝国暦1430年5月下旬。
留学中のフランデアン王子フィリップとイーネフィール公子フランツは休日に狩りに出ていた。彼らが住む翠玉館は学院があるアージェンタ市の東部別荘地帯にある。
アージェンタ市の東部に残された森林地帯は貴重な自然が残る別荘地として富裕層に人気だった。白の街道からも近く帝都防衛軍団が巡回している為、治安も良い。
帝都の人口密集抑制の為、各市は移住に厳しい制限を設けており、土地、水道施設にもまだなんとか余裕はあるが、ゴミ処理能力などは限界で市内の衛生環境悪化を防ぐ措置を市長達は講じていた。
近代化で住宅用途以外に、工業用としても木材需要が増え森林の伐採も進み、空気も汚染されて来た為、木材は輸入に切り替えが進んできている。
自然保護を積極的に進めている一方で、今度は鹿や兎が繁殖し過ぎて貴族達は遊びと鍛錬を兼ねてよく狩りを行っていた。
フィリップ達がよく行くのは帝国人があまり近寄らないナツィオ湖の森だった。
「いやあ、殿下。海賊に拐われた二人とも無事で良かったですね。肩の荷が下りましたよ」
「別に私らは何もしてないけどな。それにしても予定外の王子が混じってるなんて聞いてなかったぞ」
「なんか勝手に留学してきてたとか」
「いい加減な国だな・・・」
自分の国で考えてみるとシュテファンが自分の小遣いで勝手に帝都観光に来て、入学手続きをしてしまったような状態だ。守役や小姓の首は飛ぶし、事情がバレたら世間の笑いものだ。
「ま、他所の国の事はほっときましょう。それに出来るだけシュテファンに任せた方がいいでしょうし。そんなことよりそろそろフランデアン・・・というかウルゴンヌには海軍が欲しいですね」
フランデアンは内陸国で海に接していないので海軍らしい海軍は無い。
ウルゴンヌの場合も沿岸部が開発されていない湿地帯や、打ち寄せる波が激しい岩場ばかりだったのでこれまで無かったが、スパーニア戦役中から長年続けた工事が実って埋立が完了し港も出来た。そこからウルゴンヌの五大湖を経由してアル・アシオン辺境伯領まで続く運河も完成しつつある。
そんな状況なのでフランツは海軍建設について着手すべきではないかと話を持ちかけた。
「まだ運河建設の費用を返済しきっていないから母上が渋る」
「新港の運営が軌道に乗れば世界各地から船が押し寄せてくるし、自前の沿岸警備能力は必要じゃないかな」
「当面はパスカルフロー艦隊の手を借りるようだが・・・そうだな。今度造船所の見学でも行ってみるか」
帝国は各国が海軍力を充実させないよう警戒している為、造船所はほぼ帝国の影響下におかれていた。東方圏側の内海、イレス海は打ち寄せる波が激しく主な造船所は南方圏の沿岸部に集中している。
「自前の造船所が欲しいねえ」
「河川艦隊用の物ならフランデアンにもウルゴンヌにもあるけどな。内海じゃ使えない」
フランデアンには東方圏随一の大河が流れているし、ウルゴンヌにも五大湖があるので通商用と湖賊などから守るための小規模な艦隊は一応ある。
「見えてきた。そろそろ狩りに専念するぞ」
「ん」
草原から森に近づき、フィリップ達は弓を取り出して静かに獲物を探し始めた。
◇◆◇
この辺りでは危険な猛獣は絶滅していた為、鹿や兎が大繁殖していた。
特に帝国では兎は大地母神ノリッティンジェンシェーレの聖獣と見なされていて狩猟する者が無く、森林はかなり食い荒らされる傾向にある。フィリップとフランツは食べる分しか狩らなかったので、なかなか減らなかった。
この森に貴族も平民も含めて狩猟者は来ないし、森の中にはプランやノミンサーブなど果物がなっているので疲れた時に甘酸っぱい物をつかみ取りで食べる事も出来て彼らのお気に入りの狩場だった。
「相変わらず人気のない森だな。兎共は食べない分でも狩っていっそ売り飛ばしてみるか?」
「帝国じゃ売れないと思うよ。自然死して残った足の骨は珍重されてるらしいけど」
「それもそうか。・・・それにしてもこの前の嵐で大木も折れているな」
「背を伸ばし過ぎたんだろうねえ・・・。自重が重すぎたんだ」
海の側を走る白の街道沿いには防風林が植えられている。
海から吹く風が強いと輸送力にも大きな影響が出るので念入りに植えられていた。
ナツィオ湖まで来れば大分弱まるが、さすがに嵐が通った時はこの湖の森も被害は甚大だった。
「それにしても今日は妙に獲物が敏感だな」
普段は人間を見てもすぐに逃げずに観察している鹿も今日はフィリップ達が近づいてくる気配を察しただけですぐに駆け出してしまった。
兎たちもどこかの巣に籠っているのか姿が見えない。
「お、何か動いている気配がする、フランツは向こうへ」
森の中の精霊達が勝手におせっかいを焼いてフィリップに物音を届けてやっていた。精霊と親和性の高い妖精の民であるフィリップには彼らの恵みがある。
フィリップは馬を降りて風下に周り弓を番え、フランツには迂回させた。
フィリップはナツィオ湖で水を飲んでいたであろう獲物を発見し、飲み終わって離れそうな気配を感じて即座に矢を放った。
が、鹿の心臓があるであろう位置に目掛けて放ったその矢は躱されてしまった。
「なにっ!?」
フィリップが驚いたのは単純に矢を躱されたからだけではなく、鹿だと思った獲物が人間で、振り向いた顔に怒りの表情が宿っていたからだ。矢が掠めてしまって頬から血が流れている。
相手はまだ少年だった、背の高さはフィリップと同じくらいだろうか。
躱した矢を左手で掴んでおり、驚異的な反射神経と動体視力が伺い知れる。
「てめえ!何しやがる!」
射られた少年が怒るのは当然といえば当然だ。
しかし、フィリップは一般的に狩猟場とされている所で鹿の毛皮を被っていたのだから射られても仕方ないのではと考えた。
「悪かった、だが君もこんな所で追放刑にあった罪人じみた恰好をしているのも悪い」
「は!?ぼそぼそいってんじゃねーよ!」
フィリップには多少罪悪感もあり、あまり強くは言えなかったせいで少々声が小さく相手は聞き取れなかったようだ。
「とりあえずその矢を返してくれ。ナリンが作ってくれたものなんだ」
「馬鹿いってんじゃねーよ、先に謝れ!」
少年はフィリップの侍女のナリンによって豊猟のおまじないが施された矢をこれみよがしにへし折ってしまった。
「なんてことをするんだ!」
妖精の民達は自分が生まれた時に自分の分身として一本の木を与えられるのだが、妖精の民と人間の王の娘であるナリンが妖精の森に迎えられる際は与えるかどうかでひと悶着があった。それでも長老が皆を宥めて与えてくれた大切な木の枝から作った矢だったのに、フィリップは惜しむ。
「矢の一本が他人の命より大事か!クソ野郎め!チャラチャラした服を着やがって」
「ク、クソ野郎だと!」
フィリップはいまだかつてそのような暴言を吐かれた事は無い。
年頃の少年達が集まるマグナウラ院では貴族と言えども立場を忘れて喧嘩に発展する事もある。フィリップも喧嘩した事はあるがここまであからさまな侮辱を受けた事は無い。
そして、運動がてらの気軽な狩りなので本職の狩人と違って多少出来の良い服を着ていて、およそ狩りの恰好ではないといわれても仕方ない。
フィリップは父のような騎士王を目指して魔導騎士の修行も積み、腕には自信があるし、大切な矢をへし折られた怒りで拳に力を漲らせた。
「おっ、やる気か。いいぜ、その綺麗な面をぶっ飛ばして汚い湖に放り込んでやる」
「えっ」
フィリップは相手を貧困家庭の浮浪児か何かかと思っていたが、拳に集めた魔力を相手は洞察していた。どこかの貴族?この格好で?混乱しているフィリップは気が付いたら顔面に一撃を受けてのされていた。
◇◆◇
回り込んでいたフランツが現場に来た時、フィリップは気絶して片足を捕まれてずるずると引きずられていた。
「止まれ」
弓矢の狙いをつけて鹿の毛皮を被った男にフランツは制止をかけた。
「なんだ。人間狩りの畜生がもう一匹居やがったのか」
振り向いた男はまだ少年だった。
「人間狩り?」
「この鬼畜どもめ!」
少年はフィリップの片足を掴んでフランツの方へぶん投げた。
フランツは抱きとめるというより激突に近い形でどうにかフィリップの体を受け止めて地に下ろした。毛皮の少年は何処かを傷めたのか体を抑えていて追撃は無い。
その間にフランツはフィリップを介抱する。
「ちょっと、殿下!ご無事ですか?」
「ん。ああ・・・、いったい何が」
「あの少年に襲われていたんです」
目を覚ましたフィリップが少年の方を見ると、台風で折れた大きな枝を拾って棍棒代わりにし、再び敵意を剥き出しにしていた。フランツがフィリップを庇いながら少年に問うた。
「お前、何者だ?」
「ここの住民だ」
「何を馬鹿な。ここには廃屋しかないし今までに何度か来たことがあるがお前など見かけた事は無い。この辺り一帯はアージェンタ市が不法居住者の排除を決めている。当局へ突き出すぞ」
「そんなの知るもんか!ここは俺の家だ、お前達は出ていけ、ごろつきめ!」
そう言って襲い掛かって来た少年に対してフランツは短剣を抜いた。
ここは少し前までフランデアンと契約していた老魔術師の家だった筈だが、もう何十年も帰っておらず放置されている間に不法居住者が住みついたらしい、フランツはそう判断した。
「待て、殺しては駄目だ!」
「殺すなっていわれてもこいつ・・・!」
フランツもアンヴェルスの王宮で王の騎士達から手ほどきを受け、フィリップの護衛として、イーネフィール大公の長男として優れた使い手だったのだがこの浮浪者のような少年には苦戦した。殺す気でやればどうにかなりそうだったが、それは止められてしまった。
そこでフィリップも助けに入ってどうにか足を折って組み伏せる事に成功した。
「畜生!二人がかりなんて卑怯だぞ!盗賊め」
少年は獣のような唸り声を上げて二人を威嚇した。
「そこらのツタで縛り上げて警察に突き出すか街道の警備兵でも呼びますか?」
フランツは共通語では無くフィリップにフランデアンの言語で確認した。
「いや、ほっとこう。こちらが間違って矢を射かけてしまったのも悪かったんだし」
「え?射ちゃったんです?」
フィリップは目を逸らした。
「ちょうど体を伏せて水を飲もうとしてたから獲物に見えてしまったんだ。当たらなかったし狩猟場で獣のフリをしているコイツが悪い。それにあんな恰好をしてたら帝国追放刑にあった男にしか見えない」
「まあ確かに。じゃほっと来ましょう。馬を回収して帰りますか」
フランツはなおも暴れようとした少年に膝蹴りを食らわして気絶させてから主君のお返しとばかりに湖に放り捨てて行った。