アルバトロス
こちらの話はまだ本に未収録で比較的新しめだったので、載せました。お読み頂きありがとうございます。
非現象的な世界を常識的な仮想モデルとして、現実を過ごすことは可能だろうか。例えば、病で死ぬことのない世界、男でも子供を授けられる社会、老衰することのない世界、災害が起こらない世界、武器を捨てた世界、人は徒手でしか人を殴打できない世界、女性が男性の力に対抗できる世界、中年の年齢でも妊娠できる世界などありもしないことを並べては、皆が共有できる現象から逸脱した非現象的なひとつの世界はそんなことが起こりうるかもしれない。それらは願いから生じるものだ。突き詰めれば人間達が自分達の最高世界を生き物そっちのけでわがままに作り上げてゆく究極の在り方だというわけだ。だが、その多くは人々の間の関係性での由縁である。どのような人でも子供の頃には集合の教育に触れるが、いつしか恭順するものと離反されるもので分立していく。資源や通貨が暴力的にざる勘定に均等に分配されていないからだろうか。いや、もっとを求める声、全ての人が育ちを受ける環境でさえ、初めから不公平があるのだ。そんな水準に立って道徳がなんだというのだと主張するのだろう。
先に産まれてきたもの、後から産まれ行く者、追い越して死にゆく者、長生きする者、時間と空間が共有されている世界のはずが、個人に限定されて生と死が集約されていく。残り僅かの命なら夜に蝋燭をともしながら遊びに耽るのも無理はない。これも人の願いに歯止めがかからないからだろう。
太陽を真っ直ぐには見られないが、住宅に姿を隠しながら、沈んでいく西の空を見ては、ミレーの絵を思い出した。そう思った後藤陽也は単身赴任の会社員である。スーパーに行ってエコバッグで買い物をするのが面倒くさくて、今日くらいは何も夕飯はいらないと思って、散歩をしてたら、そんな西の空が目の前に現れた。
「アルバトロス(アホウドリのこと)もカツオドリに笑われていることがあるのかもしれない」
そう考え事しながら歩いていた。俺は別に遠くに放浪したくてここにいるわけではない、飛ばされたのだ。それが昇格のためなのだ、家庭で分け合う給与をより稼ごうとしたら、余計に家庭から離れてしまった。遠くを行ったきりなアルバトロスならそれを平然と受けるのだろう。だが、おれは自分自身を笑うしかない。怒りの葡萄の映画にある幌馬車で一家で移動するような家族と一緒の日々の方がおれには窮屈でないのだ。長期間出張する人もそうは変わらないはずだ。心持ちの在り方のはずが、それを保ちにくいわけだ。笑えるわ、全く。
団地のなかにある公園のベンチに陽也は座って、缶コーヒーの蓋を開けた。遊具には子供達がざわざわ騒いでいて、子供達のお母さんも傍にいる。時々、陽也のコーヒーを飲む姿を面白がってか、ある子供が遊具から降りて歩いてきて、陽也の傍に座った。子供が覗きこむように陽也を見つめると、彼は微笑んだ。多分、この子の母親は心配に思うだろうけど、俺には関係がなかった。
「それ、美味しいの」
と子供が缶コーヒーを指差して言ってきた。
「ううん、不味いよ」
「えっ、まずいの!じゃあ、いらない」
子供はさっきと同じ遊具で遊ぶ友達の輪に戻った。
ここにも長くいては困られるな。陽也はまた家に戻らず歩き続けた。まだ、電灯をつけなくても歩き回れる明るさだった。大人も子供達みたいに分け隔てなく遊べないものかと思った。妻や友人だけでなくて、見知らぬ他人のその人生を解り合えないものだろうか。ただ、そんな人の場に出たがとて、その今の瞬間を純粋に楽しめないのかもしれない。はぁ、妻の鱸のホイル焼きが食べたい。子供達はまだ部活か塾かな。しばらく歩き続けて、時計を見てそろそろかという時間になったので、陽也は家に戻った。習い事の課題の絵がまだ完成していなく、彼はその絵の作成に取り組んだ。そうだ、さっきの綺麗な太陽の光を取り入れようと思って、一心不乱に絵筆を動かした。絵が完成したときには、もうこんな時間かという時間になって、風呂を沸かして、明日の着る服を揃えた。そして、また一時間流れる音楽に耳を傾けては、ユトリロの画集をゆっくりと見ていた。