19. 死にそうなのは私だ!
吐き気がする。
部屋の中を一歩進む度に、足の裏にぬるりとした液体がまとわりつき、鉄の匂いが鼻をつく。
部屋の隅に転がる大きな塊が目に入った時から、今までうるさい位にドクドクいっていた私の心臓が、鼓動を止めたみたいに何も聞こえなくなった。
深淵の森と、この部屋とを繋げた扉から漏れる光で、床の液体が赤黒く光る。
足の裏も、パンツの裾も、歩く度に赤く染まっていく。
大きな塊は、そんな赤黒い溜まりの中心に在った。
「…ロード」
ひきつるような喉の奥から絞りだした、この世界で唯一知っている人の名に、その塊はぴくりと反応した。
「み……や、び……」
消え入りそうな掠れた声で私を呼び、俯いていた顔を上げたのは…………ロードだった。
「ゆめ、か……?」
たったひと月、会わなかった期間はそれだけなのに、目の前のロードはやつれ、傷だらけのうえ目は虚ろで、まるで別人のようだった。
「ああ…夢でも、いい。会いたかった…っ」
意識が朦朧としているのか、夢だと勘違いしているらしいロードに近付き、手を伸ばす。
「ミヤビ…お前に触れてぇ…」
ロードの言葉に唇を噛む。
「…けど、これじゃあ触れる事も、出来ねぇな…夢なら、腕ぐれぇ生やしてくれりゃあいいのによぉ…」
眉を下げて力なく笑うロードの両腕は、無くなっていた。
「…ばかロード」
所々血で固まった髪を撫でると、「神王様も最後の最期にゃ粋な夢を見させてくれるじゃねぇか」と目を細める。
そんな様子に、胸が締め付けられた。
彼は、もう自身が長くはないと思っている。
腕からの出血量は確かに致死量に達しているし、いつ失血死してもおかしくない。
見ればわかる程、足元には血の溜まりが出来ていた。
ショック状態に陥っていないのが不思議な位だ。
「……私は、何にも出来ないズボラ女だけどさ…」
35過ぎても、誰かに頼りっぱなしのダメな女だけど。
「ミヤビ…?」
いつまでも人に甘えてばかりな奴だけど。
でも、
「何でも出来る神様になってたらしいんだよね」
自分でも悪役じゃないかと思う位、不敵な笑みを浮かべて、欠損部位の修復と増血、身体機能の回復等を願った。
私の言葉に戸惑っていたロードは目を見開き、そして、
“自分の腕”で私に触れたのだ。
「…やっぱり良い夢だな。腕が生えやがった」
ニヤリと笑うこのオッサンに、突然腰を抱かれ引き寄せられたものだから、プロレス技でもかけられるんじゃないかと不安に襲われる。
ロードの腕は丸太並に太いのだ。
「ミヤビ…最期に見たのがオメェの夢だなんて、こんな嬉しい事はねぇよ」
まだ夢だと思っているのか、そんな事を言って腕に力を込めてくるので腰が破壊されそうだ。
オッサンより私の方が最期になりそうだから離してほしい。切実に。
「どうせなら、《ロード大好き! 愛してる~》って言ってくれねぇかな。ついでに口づけとかしてもらえると心置き無く逝ける…いや、それはそれで逆に死ねねぇな」
すみませーん。誰か警察呼んでもらっていいですか? このエロゴリラ今すぐ豚箱へ放り込んでもらうんで。
「夢ならせめてベッド出てこねぇか? 色々ヤるにしても床だとミヤビの肌に傷が…「正気に戻れェェェ!!! そして助けてヴェリえもーん!!」」
『ヴェリえもんって誰ですか。私の名はヴェリウスですよ。ミヤビ様』
雅はヴェリえもんの召喚に成功した。
中型犬の大きさで現れたヴェリウスは、元の大きさだと扉を潜れなかったのだろう。せっかく威嚇の為に元に戻っていたのに、結局小さくならざるを得なかった我が家のペット様は、若干機嫌が悪そうだ。
「ヴェリえもん! このオッサンが離れる道具を早く出してよーっ」
『ヴェリウスです。道具、ですか? あの…喰い殺してはダメでしょうか?』
ヴェリえもんは真面目すぎて冗談が通じない上、物騒だった。
「…おい、ヴェリエモンってなぁ誰だ? あ゛ぁ゛?」
ギブ!ギブ!!
骨がメキメキいってるからァァァ!!
ヴェリウスの名前を呼んだら、ロードが何故かヤクザに変貌した。
さっきまでの、死にかけだったあのしおらしさはどこへやったのか。
『ヴェリエモンではなくヴェリウスです。ところで……いい加減ミヤビ様を離さんか。小僧』
鼻の頭にシワを寄せ、牙を見せつけながらロードに対面したヴェリウスと、ばか力で腰を砕きそうなロードとの間で、私は死にそうになっていた。




