タイムリミットとメリーゴーランド
日はまだ完全に落ちてはいなかった。
二人の間は、こぶしひとつぶん。
たしか、初めてのデートもこんな感じだった。
「アイス食べない?」
私がそういったのに、特に理由はない。
なんとなく、この場所に居たかったからそういった。
「食べよう」
アイスを販売しているワゴンへ二人で並ぶ。
「何にする?いつもどおりストロベリーでいい?」
"いつもどおり"
きっとこの人からこの言葉を聞くのは、これで最後だろう。
「うん」
財布を出す私の手を彼がジェスチャーで制止した。
「最後くらい格好つけさせてよ」
三日月を描いた目に、私は何も言えなくなって俯いた。
柵に寄りかかって、アイスクリームをかじる。
二人の間、人一人分。
口の中で溶けるストロベリーはなんだか甘すぎて、私には不釣り合いな気がしてしまう。
「ははは」
「どうしたの」
「ちょっと思い出しちゃった」
「何を」
なんとなく声が出ない。
尋ねる代わりに、綺麗な横顔を見つめた。
「初めてデートした時、こんな感じでアイス食べたけど、そのときお前、目の前を通った虫にビビってアイス海に落としたよな」
まだ半分くらい残ってたのに。
彼はケタケタ笑う。
「もうっ」
相変わらず人をからかうのが好きなんだから。
私は彼のしまった腕を叩く。
"いつもどおり"の二人。
からかう彼に怒る私。
こんなやり取りは、もうすることはないのだろうとぼんやりと思った。
「そっちこそ初めは会うたびに服装とか髪型とか褒めてくれたのに最近じゃ、」
ここまで言って、なんとなく口を閉じた。これじゃあまるで明日からも続くみたいだ。
もう、全部捨てたのに。
さすがにこの歳になって新しい恋をしようなんて気は起きない。私だってもうそんなに若くはない。
付き合い始めてから、五年。左の小指を陣取る指輪はいつになったら薬指に移動するのか、そんなことも少なからず考えた。見慣れた夢の続きは、もう見られない。
別れは、突然だった。
「ごめん、別れてほしい」
そう言った彼の眉毛はわかりやすく下がって、目は潤んでいた。
何回も何回も謝る彼。
理由はわからない。できるだけ綺麗で終わりたかった。だから私は理由を聞けなかった。
その日から、少しずつ二人の思い出の処分が始まった。半同棲状態になっていた彼の部屋には、二人のものが多すぎた。お揃いで買ったマグカップ、部屋着、香水。それらを丁寧に拾い集めて、一つずつ振り返りながら、捨てていく。それでも、出会ってから二回目の誕生日にもらった指輪だけはどうしても手放せなくて、バレないようにポケットに突っ込んだ。
期限は、今日、この遊園地を出るまで。
最後に振り返るのは初デートをしたこの場所で。
私たちのタイムリミットは、あと少し。
不意に風が吹く。潮の香りが鼻腔をついて、私たちはどちらからともなく歩き始めた。
夕日がつくる見慣れた長い影とも、今日でさよならだ。
「ねえ、見て。夕日が綺麗だよ」
背の高い後ろ姿がピタッと止まって、ずっと遠くの空を指差した。
私たちは再び柵に寄りかかる。
太陽がゆっくり水平線に溶けていく姿がなんだか、私たちの姿に重なって、少しだけ視界がにじむ。二人で過ごした思い出も少しずつ溶けて無くなっていくのだろう。
「夕焼けが似合うね」
ああ、この台詞、聞いたことがある。
五年前、この場所で私は確かにこの言葉を聞いた。
友達に話したら、あんたのガサツさには合わないよって笑われたっけ。
たしか、あの時の私の答えは、こう。
「私には、あなたが太陽に見えるよ」
太陽がなければ夕焼けはない。夕焼けがあれば翌朝も太陽に恵まれる。
確かにあの頃の私たちは、そんな毎日を過ごしていた。
「そろそろ、行こう」
今度は私が声をかけて、こぶしふたつぶん開けてから、二人で歩き始めた。
「最後まで、幸せにしてあげられなくてごめんな」
どうしてこの男は、このタイミングでこんなことを言う。
「お前の隣で見る世界はキラキラしてたよ」
顔を見れなくてなんとなく目を背けた先は、売店の窓。窓に映る自分の顔は予想以上にくしゃくしゃだった。好きが、溢れてく。
「これ以上、言わないで」
やっとの思いで見た大好きな人の顔は、自分と同じようにくしゃくしゃだった。
次の瞬間。
切れ長の目から、大粒の涙が溢れてきたんだ。
実は熱くて、優しくて、涙もろくて。
そんなあなたが大好きでした。
だからこそ、拭えない距離がひどく切ない。
出入り口の前の、最後のアトラクションはメリーゴーランド。その前に着く頃には、空はすっかり真っ暗だった。
日が暮れてから色を失うまでの時間が早かったのか。
それとも私たちの歩く速度が遅かったのか。
入園したばかりのカップルとすれ違う。
「綺麗だね」
メリーゴーランドを指差しながら彼女さんがいったその言葉が頭の中をぐるぐる回る。
彼氏との微妙な隙間、はにかむ笑顔、上擦る声。
ああ、このメリーゴーランドを初めて見た時の私だ、と思った。
ライトアップされている、キラキラの世界。
美しさが、やけに眩しい。
木馬に揺られる笑顔が、さらに苦しい。
この輝きは、何かに似ている。
「出よう」
私がそう言ってから、彼は5秒くらいたっぷり時間を取ってから頷いた。
「今まで、ありがとう」
二人同時に門を出た。
たしかな「さようなら」と、一応の「またね」。
手を振る仕草は合わせ鏡のよう。
君は、いつもと同じように歩いていく。私はと言うと、なんだか割り切ることができなくて、私は一度思い出の方向を振り返ってみた。
相変わらず木馬が回っている。キラキラの笑顔を乗せて、回っている。
走馬灯みたいだな、となんとなく思った。
–––––ああ、そうだ。メリーゴーランドの輝きは、今日までの五年間と、似ているのだ。
再び明日の方向を向いたけど、私は追いつけなくて、その背中は離れていく。
ちょうど私が立っている位置からは遊園地の最寄駅と、その線路がよく見えた。
それから、数分後。
のろのろとモノレールが駅に到着した。時間的にも、方角的にも、きっと彼が乗っているはずだ。
そして。
大好きな彼を乗せて走り出す。
もう、私たちは戻れない。輝いた日々には、戻れない。
私は一度大きく息を吐く。言えなかった思いは全てこれに詰め込んだ。
喜びも、幸せも、悲しみも、嘘にしたくない。そのためには前に進むしかないのだろう。
思い出に背を向けて、私は大きく一歩踏み出した。