間章・彼のこと(3)
彼女にとって、その声は余りにも予想外だったのだろう。それまで上げていた唸り声をピタリと止めて、驚きに目を剥きながら声が聞こえてきた方へと、ゆっくり視線を移していく。
それに遅れる事一瞬、嗤い狂っていたチェコロビッチも、面食らった様子で肩越しに振り返る。その2人に続き無表情のシュナイダーが、おまけで完全に畏縮していた兵士もが、その声に誘われる様に視線を向けた。
そうして集まった視線の先――壁に磔にされたバァートンは、晴れ上がった痛々しい表情ながらも、不敵な笑みを浮かべチェコロビッチを見据えていた。
「…あ゛ぁ゛っ?」
その姿を目の当たりにした瞬間、余程気に食わなかったのだろうチェコロビッチは、額に青筋を刻み怒りに表情を強張らせた。そして、直ぐさま身体毎彼の方へ向き直ると、苛立たしげな足取りでズカズカと近づいていき――
――ガツンッ!!「ギャッ!!」
「ッ!!グルルルゥゥゥゥッ!!」
――無言のまま、その頭頂部を目一杯に殴りつけた。その余りに暴虐非道な振る舞いに、再びメアリの唸り声が昏い牢獄内に響き始める。
――グイッ!「ッ!ぐ、ァッ…」
しかし、そんな事まるで気にした様子も無くチェコロビッチは、今し方振り下ろした拳を開き、無造作にバァートンの髪を掴み取る。かと思えば、勢いよく引っ張り上げて顔を無理矢理起こし、痛みに苦しむ彼の表情を、怒りに血走った瞳で覗き込む。
「…おい、この死に損ないのフェミ野郎。今、生意気にも何て抜かしやがった?」ギリギリ…
「ぅ…アッ…」ブチッ、ブチブチッ…
さながら雑草でも扱うかの様に、握りしめたバァートンの髪を強く引きながら、酷くドスの効いた声音で問い質すチェコロビッチ。手心を加える気なんて更々無いのだろう、痛みに呻く彼の声よりも、その頭皮が上げる悲鳴の方が大きい。
しかし――
「…ふ、へっ…へへっ…」
――それまで苦悶の表情を浮かべていた筈なのに、不意に口角を吊り上げ笑みを浮かべたバァートン。痛みに気が触れて、ついに可笑しくなった…なんて事は決して無い。
何故そう言い切れるのか?その根拠は…
「何度…だって、言って…やる、よ。」
長時間に渡って拷問を受けた結果だろう。異様に腫れ上がってしまった、瞼の僅かな隙間から覗かせたその瞳に、微かでは在るが意思の宿った光が、しっかりと灯っていたからだ。
その光が、怯む事無く真っ直ぐに、チェコロビッチの血走った瞳を捉える。
「どんなに…痛めつけられ、たって。例え…あんたに殺され、たって、俺は…今更…こ、後悔なんて、しねぇ…よ。だって…だってよぉ――」
しかしその光は、恐らくチェコロビッチの事等、まるで視界に入っていないだろう。彼が見ているのは、鬼の様な形相で睨む狂人などでは無く、もっと別の――
「――妹を…アイリスを、失…ちまった、時の後悔に…比べたら…」
――再び、彼の話をしよう。医師となった妹、アイリスを支える筈だったバァートンが、奴隷にその身を堕とした経緯についてを…
国より従軍の命令が下される2年間、新たな目標に向けそれまで以上に、勉学に打ち込むようになった。
と言うよりも、それ位しかバァートンに出来ることが無かったと、言うべきなんだろう。そんな彼に妹以外の家族も、理解を示していた。
しかし、それ以外の者達からすると彼の行動は、ある種の奇行に見えるらしかった。そしてそれがきっかけで、一部の心ない者達が面白半分に好き勝手言うようになったのだ。
やれ、『親のコネで医師になろうとしている』だの、『不義から産まれた不肖の息子』だの、『不吉の象徴たる白羽根だから、治癒魔術も使えないんだ』などなど…
陰でそんな風に謗られていると知った時は、勿論ショックだった。自分の事を言われるだけならば、きっと我慢も出来ただろう。
しかし中には、家族であるフォークライム家に対する誹謗中傷まで、これ幸いとばかりにされていたのだ。名医で知られている上、王族とも関わり深いともなれば、一方的に目の敵にする者も出てくるという事なのだろう。
中でも彼が一番我慢ならなかったのは、妹・アイリスに関しての事だった。『兄がフォークライム家の出来損ないなら、同じ血を引く妹も出来損ないだ』と。
自分の所為で妹までもが、そんな風に言われている事を知った時は、胸が押し潰されそうな程辛かったという。同時に激しい怒りを覚え、口にする者達をすべて見つけ出し、その舌を引っこ抜いて後悔させてやりたいと本気で思った。
しかし、実際にそんな事出来よう筈もなく、だからといって反論する事さえしなかった。というより、許されなかったのだ。
この手の誹謗中傷を口にする者達は、言われた側が何かしら反応を示すと、反応が返ってきた事を面白がって、更に煽ってくる低俗な連中だ。怒りに我を忘れて暴言を吐けば、それこそ相手の思うツボだし、まして暴力なんて振るったら、恥ずかしげもなく被害者面するだろう。
その事をバァートンの父親は、貴族達との長年の付き合いから、嫌という程よく理解していた。だからこその、『何もしない』という対処法だった。
人の噂も75日。こちらが反応を示さなければ、その内別の話題を見つけて、そちらに大衆の意識が向くだろう。
その間、辛いだろうが我慢するのだ。そう父親に説かれては、バァートンも従わざるを得ない。
耳にする度、身を斬られるような思いだったが、それでもぐっと堪え耐え忍んだ。外に出れば嫌でも耳にするからと、自室に籠もりがちになると、何かを振り払うように勉学に没頭する様になった。
そんな日々が半年と続いたある日、父親の予見通りに大衆の話題が、別の人物へと向く事となる。数十年ぶりに、回復魔術の才能を秘めた者が現れたのである。
その人物が、よもやバァートンにとって最愛の妹であるアイリスになろうとは、父親も全く予想していなかっただろう。ともあれ、その話題がきっかけで彼は、精神的に追い詰められる事となってしまった。
本来であれば、家族は元より彼にとってもその話題は、大変喜ばしく名誉なものになる筈だった。なにせこれで彼の妹は、王室付き専属医師になる事が決定したからだ。
実際、アイリスに回復魔術の才能があると判明し、日を置かずして王室からの使者が、フォークライム家に頻繁に出入りするようになった。すると、それを見た噂好き達が寄って集り、国中がその話題で持ちきりとなった。
当然その中には、散々彼女の事までも出来損ないだと、陰口を叩いていた者達も含まれている。まるで、今までの事など無かったかのように振る舞い、取り繕う様にへつらって。
そういった心無い者達は、二口目に好き勝手こう吹聴するようになった…『出来損ないの兄に比べ、出来の良い妹は素晴らしい』と。
無責任なその他大勢が、無責任に吹聴する話なんて、まともに取り合うべきではない。のだが、しかし悲しいかなバァートン自身が、その事に対し自覚的だった。
そんな彼に最愛の妹は、今までと何一つ変わる事の無い態度で、期待を寄せてきた。他の家族が、妹に対し大きく期待を寄せ、彼の事なんて既に諦められている中でだ。
その時の彼の心中は、穏やかではいられなかった。妹が少しでも才能に驕ってくれたなら、軽口の一つも吐けただろう。
無邪気に励ましてくれたなら、悪態の一つも吐けただろう。いっそ他の家族同様に、自分の事を諦めてくれたなら…
そうであったなら、どんなに楽だっただろう。しかしそうは許してもらえず、妹の向ける期待の眼差しに、兄として必死に応えようとした。
それがよくなかったんだろう。来る日も来る日も、昼夜問わず寝る間も惜しんで、文字通り身を粉にして頑張った果てに彼は、幼かった日に医師を志した気持ちを、いつの間にか見失ってしまった。
愛する母親を病気で失った悔しさを…それまでの平穏な暮らしを奪った憎しみを…最愛の母を亡くし、泣きじゃくる妹を勇気づけたかった気持ちを――
妹が変わらず兄に期待を寄せたのは、当時の事を色褪せず覚えていただけなのに…
――バァートンの元に徴兵召集が掛かったのは、皮肉にもそんな折りだった。
その通知を受け取って彼は、内心ホッとしてしまった。これで、少なくとも従軍期間の5年は、妹の期待から逃れる事が出来るのだから。
それが単なる先送りでしかないと言う事は、重々承知の上だ。けれど当時のバァートンには、心を休める時間が必要だったのだ。
ともあれ、それから程なくして、軍学校での寮生活が始まった。それまで勉強一辺倒だった彼にとって、そこでの生活は決して楽な筈も無かった。
しかし逆にその方が、当時のバァートンにとっては都合が良かった。毎日ヘトヘトになるまで、戦闘訓練を受ける事によって、余計な事を考えずに済んだからだ。
それに座学の時間も、彼にとって良い刺激だった。元より勉学は嫌いじゃ無かったし、医学から完全に離れる事が出来た。
それに加え、寮での生活も良い結果となった。それまで、嫌でも重くのし掛かってきた、フォークライム家という家名から解き放たれ、一新兵として扱われたからだ。
そんな生活が続く事1年、彼も大分心にゆとりを取り戻す事が出来た。しかしそれと同時に、妹への後ろめたさを感じるようになっていた。
その後ろめたさが原因で、実家から届く妹の手紙に、目を通す事が出来なかった。後に彼は、それを深く後悔する事になる…
それより3年後、バァートンの従軍任期が、残り1年と迫った頃――
その頃には、彼も軍学校の生活がすっかりと馴れ、肉体的にも大分逞しくなっていた。しかし相変わらず、実家からの手紙に目を通す事が出来ずにいた。
返事を出したのは、寮の生活が始まった4年も前に1度切り。それも『軍学校の訓練が厳しくて、とてもじゃないが返事を出せないだろう』と、体の良い言い訳をでっち上げて送ったのみだった。
だというのに、実家から送られてくる妹の手紙は、月に一度定期的に送られてきていた。返事が返ってこないとしても、ちゃんと読んでくれていると、信じて疑いもしていないのだろう。
実際には、まるで読んでさえいないというのに…そんな風に考えてしまって、その罪悪感からバァートンは、ますます目を向ける事が出来なくなってしまっていた。
そんな風に考えるのならば、いっそのこと開き直って開けてしまえば、まだ間に合ったかもしれないというのに――
そんなある日、月を跨がずして実家から手紙が届いた。当初不審に思ったものの、しかし特に深く考えもせず、それまでと同様封を開ける事をしなかった。
しかしてそれから数日、再び実家から手紙が届いた。この時点でようやく、火急の報せと気がついたバァートンは、慌ててその手紙を開き確認した。
而してその手紙の差出人は、妹のアイリスでは無く、腹違いの兄からだった。その手紙にしたたまれた内容を目にし、あまりのショックに愕然となった。
その手紙には、簡潔にこう書かれていた――
『アイリスが亡くなった』




