96武田着陣(カケルのターン)
――十二月二十二日早朝。
二俣城を出た武田軍は、寒さで水面から水煙あがる天竜川を渡り、秋葉街道へ出て徳川家康の籠る浜松城へ向けて進軍し出て大菩薩山で休息した。
陣屋で、絵図面を囲んだ居並ぶ武田の重臣たち。武田信玄を中心に、右に副将、内藤昌秀、左に、馬場信春が控え、陣の先頭に山県昌景、その向かいに信玄の跡継ぎ、武田勝頼。以下、一門衆の弟、武田信廉、弟、一条信龍娘婿の穴山信君、娘婿、木曽義昌。
【武田家陣容】
大将 武田信玄
一門衆 武田勝頼、武田信廉、一条信龍、穴山信君、木曽義昌
四天王 内藤昌秀、馬場信春、山県昌景、(高坂昌信は、上杉謙信への備えの為、海津の守備)
重臣 秋山虎繁(岩村より出陣中)、土屋昌次(勝頼目付)、三枝昌貞(山県昌景隊、副将)、原昌胤、小幡昌盛(内藤昌秀隊、副将)、小山田信茂、真田信綱、真田昌輝、武藤喜兵衛(真田昌幸)
名だたる諸将が参戦している。
陣中の信玄は、諸将の活発な戦略、戦術議論を、静かに聞いて、方向性が定まってくると、自己の脳裏に描く大局観と、重ね合わせて駒を動かし勝利への方程式を導く。
信玄は、これまでの戦において一度もその対局を睨む目を他人に任せたことがない。
それは、越後の上杉謙信との川中島の戦いにおいて、軍師、山本勘助を失うまでは、との但し書きがつくのだが、此度の徳川家康の籠る浜松城攻めにおいては、その”対局を睨む目”を、出端から、山県昌景に一任して一切口を開こうとしない。
たしかに、これまでのどの戦においても、信玄の側近として、小姓から身を立てた山県昌景はその戦略、戦術、大局観を熟知している。
信玄の名代としては、これ以上の適任者は他にいないであろう。
それに、武田の代名詞、”武田の赤備え”を率いているのだ。軍隊の強さもほかに並ぶ者はいない。
だが、それが気にくわないものがある。
兄、武田義信の切腹から、信玄の後継者の第一候補になった勝頼だ。
勝頼は、兄、義信が信玄の嫡男として宗家を継ぐ路線がほぼ確定していた為、勝頼の出番はないことにより、母の生家で北信濃の名門諏訪氏の名跡を継いでいた。
家臣も、譜代の重臣の次男三男をつけられ将来の武田家の宗家を支える御連枝としての役割を与えられていたし、本人も、その役割に徹していたため、飛びぬけた戦の器量を示す場面もなかった。
それが、突然の信玄の嫡男、義信の切腹で、勝頼に後継者のお鉢がまわり、それまで、功績の少なかった勝頼は、このままでは、重臣、いや、四天王のお飾りになると、焦っている。
年齢の高い、馬場信春、内藤昌秀は必ず先に死ぬからよい。海津城で上杉謙信の備えとしている高坂昌信もいつ戦で死ぬか分からぬ最前線だからまだよい。問題は、山県昌景だ。
「こいつはやっかいだ……」
山県昌景は、信玄への忠義の為、義信の家老だった実の兄を売った飯富昌虎。
そのことで、父、信玄から家督簒奪を狙う義信の企みが明るみになり、武田信玄政権は守られた。
山県昌景隊は、”武田の赤備え”と近隣に知れ渡った最強の一軍だ。その大将は、信玄に小姓から仕え、血を分けた兄すら信玄のために売り飛ばす忠義の臣。
父、信玄が存命中ならばよいが、亡くなっては、これ以上、やっかいな家臣はいない。
勝頼にとっての目の上のたん瘤それが山県昌景なのだ。
山県昌景は誰より小さい小男だ。姿かたちこそ取るに足らない小男なのだが、馬上で、刀を持たせても、槍を持たせてと、弓を持たせてもこれが滅法強い。
先ほどの徳川との一言坂の戦いにおいても、本多忠勝と五分の一騎打ちをしかけていた嶋左近ことカケルの戦いを、昌景の参戦と同時に、状況を一変させ、さらに、大将首の徳川家康を追い詰める精強さを見せる。
つづく二俣城攻略戦においても、攻めあぐねる勝頼を尻目に、着陣後、少し、兵を動かしただけで陥落させる鮮やかな軍略性。
まだ脂の乗り切った四十六歳。精強を誇る武田家中においても選りすぐりの精鋭部隊”赤備え”
武勇、知略、カリスマ性どれをとっても勝頼は太刀打ちできない。
信玄亡き後の武田家の実質ナンバー1は、山県昌景なのだ。
なぜ、勝頼が、これほど山県昌景を恐れるのか、それは、もしやすると、裏になにか秘密があるやも知れない。
現に、信玄は自己の身体の限界を昌景に打ち明け、徳川家康攻めの大一番の軍議を、昌景に託している。
口にはださぬが、四天王の馬場信春も内藤昌秀も、信玄の覇気の衰えにはすでに気付いているだろう。
そば近く影武者を務める武田信廉はもとより、穴山信君、木曽義昌もしかり。
信玄の命は、この徳川家康攻めが最後……。
この陣中の上座に控える歴戦の重臣たちは、暗黙の了解で皆、勘づいている。
そして、信玄も、自己亡き後は、家宰を勝頼ではなく、この山県昌景に任せるつもりで、この陣の取りまとめ役を自己の目の黒いうちに任せているのであろう。
「よし、軍議は決まった。こたびの戦は、内藤昌秀殿と、馬場信春殿の策で参ろう」
と、山県昌景が、奥に控える信玄に成り代わり決を取ると、
「あいや、待たれよ山県殿。お主は、まだ、ここにおわす武田勝頼の軍監の身であろう。お館様の直接の言葉なら我ら木曽は従うが、山県殿お主の言葉には従わん!」
と、木曽義昌が昌景に反旗を翻した。それに、同調するように、同じ娘婿の、穴山信君、譜代の小山田信茂がつづく。
それを聞いた奥に控えていた武田信玄は、重い腰をあげて、山県昌景のかたわらまで来ると、立ったまま昌景の肩に手をおいて、
「こたびの戦、ワシは昌景に采配を任せる。この戦において昌景の言葉はワシの言葉だと心得よ」
そして、信玄は軍配を昌景に託し、
「反論ある者は切って捨てる故、ここへ出でよ! 」
と、刀を抜いた。
つづく