82勝頼の慢心
二俣城の力攻めを決めた勝頼は、戦さ目付としてつけられた馬場春信と、内藤昌豊の両名を後詰めとして、背後に控える父、信玄を守るように後方へ下げた。
これにより、総勢二七〇〇〇の兵は、信玄の七〇〇〇と、馬場春信五〇〇〇、内藤昌豊五〇〇〇は、差し引かれ、勝頼の動かせる兵数は一二〇〇〇になった。
それでも、城攻めの定石によれば、優勢勝ちならば敵の三倍、必勝ならば五倍を要すれば勝てると言われている。
「敵は、小城のわずか一二〇〇、一気に攻め立てよ! 」
采配を振るう勝頼の檄に、秋山昌詮を除いた勝頼志隊八将は一気に北東の大手門の攻め口に押し寄せた。
しかし、敵はなかなかの強者中根正照である。天然の要害二俣城の地の利をいかして、武田の攻め手を、深い堀に架かる橋に限定しているだ。
そう、この二俣城においては、数の有利が望めないのだ。
守将、中根正照は、副将の青木貞治と交代で、開門して橋の上で槍を振るう。
その槍が、一言坂の戦いで赤備えを押し返した中根正照だけでなく、副将の青木貞治も負けず劣らず剛勇無双なのだ。
「やあやあ、武田の腰抜けども、命が惜しくなければ、この青木貞治にかかって参れ、いくらでもワシの槍をくれてやる」
「何を! 」
青木貞治一人の武勇に、押し返されつつある武田勢の勢いを押しとどめようと、勝頼志隊八将次鋒、土屋昌恒が一騎打ちに踊り出た。
この土屋昌恒は、武勇でならす秋山昌詮の弟である。実父は同じ金丸虎義で、昌詮が三男、昌恒が五男の実の兄弟だ。それぞれ、その才を見込まれ、昌恒が秋山家へ、昌恒が土屋家へ入った。
しかし、秋山昌詮は、武田家最強、赤備えの山県昌景の副将秋山虎繁について戦場を駆けた。土屋昌恒は、実戦経験の少ない武田勝頼の配下である。いくら、戦の素養や身体能力の素養は負けず劣らずとはいえ、経験値が圧倒的に違う。
「ほう、青っ白い顔をした大将首が、一丁前に、鈍ら刀を振り回して来おったか。よし、まずはお主を刀の錆にしてくれよう」
「何をぬかす、猪武者めが、お主こそ返り討ちにしてくれるわ! 」
と、青木貞治と土屋昌恒が槍を交えた。
一号、二号、土屋昌恒は、もって生まれた身体能力で、青木貞治の豪双を防ぐ。
「とりゃとりゃとりゃ! どうした、どうした、鈍ら侍、もう、息があがっておるぞ」
三号、四号、とうとう、土屋昌恒は馬から落とされた。万事休す!
「助太刀致す! 」
と、そこへ、槍を構えて一直線に、兄、秋山昌詮が駆けつける。
さすがは、秋山昌詮だ。指物、青木貞治と槍を交えても負けず劣らずの戦いぶりだ。
「兄上、かたじけない」
弟の土屋昌恒が後方へ逃れたのを見計らって、秋山昌詮は、一騎打ちを切り上げ武田の兵を引き連れ下がっていった。
「武田を追い返したぞ! 者ども勝鬨を上げろ、エイ! エイ! オーー!! 」
戦上手の抜けた勝頼志隊八将では、とてもじゃないが徳川勢に槍で太刀打ちできはしない。
二俣城を攻めはじめておよそ、一か月になる。もはや、勝頼の帷幕は、どんよりと重い空気に包まれている。
「勝資、なんとかならんのか? 」
勝頼は、焦れると顔を出す貧乏ゆすりをしながら、詰めを噛む癖が出ている。十倍の兵である。勝頼は何が何でも短期間、数日で二俣城を落城させたかったのだ。それが、事もあろうに、一か月近くかかっても城を落とせぬ始末。
「もはや、こうなれば、馬場美濃守殿と、内藤修理殿の言に従い降伏勧告をしてみては? 」
勝頼は、深爪している親指の爪をブチツと噛み切って、
「そう、致せ! 」
と、吐き捨てるように命じた。
翌朝、武田家の降伏勧告の使者として、秋山昌詮が二俣城へ向かって差し向けられた。
「大将の武田勝頼からの使者でござる開門あれ」
矢倉の上から、秋山昌詮を認めた青木貞治が見定めて出迎えた。
一か月に渡る戦闘で、疲弊しているであろう二俣城は、いまだ、平静を保っている。
疲弊している兵ならば、城中の兵は柱へもたれかけ槍を担いで眠っているのが当たり前であるが、二俣城の兵は、精強に槍を突いて調練に励んでいるのだ。
秋山昌詮を案内する青木貞治が、ポツリと、
「降伏の使者ならば、残念でござりますな」
と、呟いた。
二俣城の兵は、顔艶もよく疲弊の色がどこにも見えない。
食料の補給線は、断っているはずなのに、兵が飢えた様子もない。
むしろ、徳川家康からの援軍が必ずやってくる物と信じて疑わない節まである。
(これは……)
「なんじゃと、中根正照めは、降伏勧告を突っぱねたじゃと!! 」
二俣城から戻った秋山昌詮の報告を受けた勝頼は、顔を真っ赤にして怒り狂っている。
「ええい、こうなったら、朝も夜もなく総攻めじゃ! 二俣城を血の海にするのじゃ! 」
頭に血の上った勝頼は更なる力攻めの段を下した。
武田信玄の陣所――。
目を閉じて静かに鎮座している武田信玄の元へ伝令が走って来た。
「山県昌景殿到着にございます」
信玄は、静かに目を開けて、
「来たか……」
二俣城を見下ろす丘の上に、ポニーのような小さい馬にまたがる赤備えの小男と、漆黒の巨馬に跨る大男。
「左近よ、どう攻めるな? 」
と小男が、左近と呼ばれた大男へ尋ねた。
「あっ! 山県のおじさんアレ見て!」
と、カケルが、二俣城の裏手の切り立った天竜川に面した断崖に建てられた井楼を指差した。
井楼は、現代で言うところのマンションの五階ぐらい、およそ、十五メートルの高さから、釣瓶(水を汲む桶と、縄ひも)を落として、水を汲み上げている。
山県昌景は、チョビ髭を摩って、
「でかしたぞ左近、これで、この城は落ちたわ」
つづく