8松永弾正久秀の影(現代、嶋左近のターン)チェック済
かつて、大和平野は東西で睨み合っていた。
北西に六四二メートルの生駒山。下って南西に四三七メートルの信貴山には、織田信長に一旦は従ったものの室町幕府の足利義昭の信長討伐の文に心を変え裏切った、松永弾正久秀。
織田信長に従っていた松永弾正久秀の攻勢に、左近の主、筒井順慶は圧されていた。ここぞとばかりに北東の拠点、大和郡山奪還のため信長に従った筒井順慶、南東にその家老、嶋左近の椿井が東西に睨み合っていた。
足利将軍家、その家老の三好長慶、織田信長と、主君を殺して主君を捨て去って力に媚び次々と主を換えた松永弾正久秀と、奈良興福寺の僧兵の頭、筒井順慶とその家老、嶋左近は、ここ大和の覇権を巡り、その人生の大半を争ったのだ――。
すっかり陽が暮れた。公園のブランコで、時生カケルと入れ替わった戦国武将の嶋左近と母、清美は、販売機の缶コーヒーを片手に話込んでいた。
左近は、戦国を駆けた昔話のつもりで、母、清美は、精神の病の妄想にとりつかれた息子の心を少しでも軽くなるようにほぐしてあげようと……。
「カケル、清香も学校からお腹をすかせて帰って来るし、晩御飯の支度もしなくちゃだから、あなたの話も聞きたいところだけど、後はお家で聞きくわ。カケル、そろそろ帰りましょう」
――時生家リビング。
母、清美がフライパンの縁に、すりおろした生姜、酒、みりんと醤油を合わせたソースをたらして香ばしく豚肉を炒めている。
「さあ、出来たカケルが大好きな豚肉の生姜炒めよ」
左近は、豚肉の生涯ための醤油の香ばしさが堪らない。クンカクンカと鼻を鳴らして、一気に、香りを吸い込んだ。
「グッーウ! 」
左近の腹が高らかに鳴った。
「あら、カケル。お腹がガマンしきれずサイソクしてるわね。いいわカケル、あなた先に食べちゃいなさい」
と、清美は茶碗にゴハンをよそって差し出した。
「清美殿の心使いの料理を、遠慮なくいただき申す」
左近は、手を合わせて深々と頭を下げたと思うと、すぐさま箸をつかんで、香ばしい生姜醤油のソースがからんだ豚肉を口にはこんだ。
「ゴクリ……。ウマイ! なんとウマイ料理でござるか清美殿! このようなウマイ料理、拙者、生まれて初めて食いましたぞ! 」
清美は、子供に返ったように飛び上がらんばかりの左近にウレシくなってほほえむ。
「大好物のこの味ならやっぱり伝わるのね」
「清美殿、こんなにウマイ料理は、拙者が京の天皇の御所へ使いで上がった折りに出された料理でもこれほどのことはなかった。まさに、天下一品にござる」
「カケル、絶賛ね。ありがとう」
と、ここまでは楽しい母子の団欒だった。
――1時間後、午後七時。
「ただいま~、お母さん、お腹すいた~」
玄関口に、妹、清香がクラブ活動を終えて帰ってきた。
――リビング。
「ごちそうさまにござる」
左近が姿勢を正して恭しく、平らげた豚肉の生姜炒めの入っていた皿に頭を下げた。
リビングに入ってきた清香は目を疑った。テーブルに出された父母、自分の皿もふくめて、五合炊きの炊飯器の蓋が開いたままで中がキレイさっぱり空っぽだった。
飯炊きの戦闘を終えたかのように左近の向いでテーブルに伏した母、清美に、清香が尋ねた。
「お母さん、ゴハン空っぽだけど炊き忘れたの? 」
母、清美は返事が声にならずに左近を指差して、
「カ、カ、カケルがぜんぶ……」
と、息絶えたのだった。
妹、清香はイマイチ事態が飲み込めないので、兄、カケルこと左近に尋ねた。
「お兄ちゃん、どういうこと?! 」
左近は、清香に最敬礼で頭を下げ、
「美味しゅういただき申した」
「お兄ちゃ~ん! 」
清香の叫びがリビングにこだました。
――午後八時、リビング。
清香がパジャマで、風呂上りの濡れた髪をドライヤーで乾かしながら、カップラーメンをすすっている。
となりの左近は、やはりクンカクンカと鼻を鳴らす。
「清香殿、そのソバのような物も旨そうにござるな」
清香は、カップラーメンごと左近に背を向けた。
「だ~め! お兄ちゃん、さっきからそう言って、ワタシがレトルトで作ったカレーもぜんぶ食べちゃったじゃない! 」
「すまぬ清香殿、ワシは昔からウマイ物に立ち会うと、視界がそれ一筋になってしもうて皆、喰ろうてしまうのじゃ。申し訳ない。許されよ」
「それでも加減があるじゃないお兄ちゃん。ホントに朝からずっとヘンよ! 」
「ピンポーン! 」
インターフォンが鳴った。
死んでいた清美が復活して、よそ行きの声で返事した。一言、三言話して、ニヤニヤと左近へ振り返った。
「カケル、北庵月代さんが来たわよ」
つづく