76信玄の秘密(戦国、カケルのターン)
――九月二十四日、赤備えの山県昌景隊と合流したカケルこと嶋左近隊は、同月、二十九日、徳川家康の籠る遠江国浜松城へ向けて五〇〇〇兵を進めた。
先頭を行くカケルに、
「左近殿、山県昌景殿がお呼びです」
と、声をかけて来た。
カケルは、先頭の指揮を山県虎に任せて、愛馬と共にスルスルと後方へ下がって山県昌景の愛馬に並びかけた。
すると、昌景が、カケルに確認でもするように尋ねた。
「左近よ、お主、人を斬るのが怖いのか?」
「そら、怖いよ。今でも毎日、一言坂でこの槍で突き刺した徳川家康の小姓の腹にブスリと突き刺した重い感触が消えない」
「戦とは所詮、命を奪う修羅の道、避けては通れぬことじゃ」
「わかってるよ。それでもやっぱり怖いんだ」
「そんな、甘い考えでは、お主があべこべに命を落とすやもしれぬぞ、いやそれどころか、お主を守るために犠牲になる者が出るやも知れぬ、それでもいいのか」
「それは……」
平和な現代生まれのカケルもストレートな昌景のこの問には、言葉が詰まった。
ない頭をグルグル捻って見ても出る答えは、
”殺すのも嫌だし、殺されるのはもっと嫌”
昌景は、はじめからカケルの答えを分かっていたように、カケルがすべてを話してしまう前に言葉を継いだ。
「左近よ、ならば、お主は誰も殺さずともよい」
「ええっ! そんなのありなの?! 」
「構わん、ワシが許す。ただ……」
「ただ、なんなの?」
「ただ、左近、お主はその命を懸けて、常に、我が赤備えの先頭に立ち皆を鼓舞せよ」
「ええっ! でも、敵は襲ってくるじゃん。その場合はどうすればいいの? 」
「その時は、お主の愛馬霧風の巨体で弾き飛ばすか、お主の朱槍で打ち払え」
「できるかな? 」
「できる! 漢は覚悟を決めればなんだって出来る。それが出来ねば、死ぬまでじゃワッハッハー」
そう、山県昌景に発破をかけられたカケルは、先頭に戻ると、山県虎に、
「父上はなんと? 」
と、昌景から、此度の戦の作戦でも授かったのかと、神妙な面持ちで尋ねて来た。
「山県の叔父さんは、漢は覚悟を持てってさ」
虎は肩眉上げて、あきれた様子で、
「なに、父上は、この大事な戦を前に、お主にそんな当たり前のことを伝えるために呼んだのか」
「当たり前のことって」
「いいか左近、お主はまだ武田家へ仕えて日が浅いから知らないかも知れないが、此度の戦が武田家の命運をかける最後の戦になるやも知れぬのだ」
「どういうこと?! 」
「今、織田・徳川連合を挟んで、東の我らと、西の本願寺・三好、北面から、浅井・朝倉が信長包囲網を形作っておるのは知っておるな」
「何となく教科書かゲームで見たかな」
「信長は横暴を極め、足利将軍家を廃嫡して、代わりに、おのれがその地位に座らんとしていることだ」
「ああ、そのへん何となくわかる」
「それに、信長は神仏の恐れを知らず、比叡山を焼き討ちする悪魔の所業に出た」
「ああ、それも知ってる教科書で見た」
「われら武田は、清和源氏につながる家。同じ源氏を祖先に持つ足利家を支えずしてなんとする。信玄公はそう言って、将軍様をお救いするべく信長討伐の兵を上げたのじゃ」
「えっ、だったら、徳川関係ないじゃん」
「先ほども申したであろう。織田と徳川は連合軍。織田を討伐しておる折に、背後より、徳川に挟撃されては、いくら屈強な我らとてひとたまりもないわ」
「ええ? 自分の身が危なくなるから殺しちゃうの? 」
「そうじゃ、それでなにが悪い」
「ええっ、そんなん平和を目的にしてないじゃん。絶対、間違ってるよ。まずは、話し合わなくちゃ」
「バカか、お主は、話し合いで解決するくらいならば、はじめから、戦などせぬわ」
「ええっ、でも殺しあう前にまず話し合わないと! 」
「ええい、女々しい奴め、お主とは話にならぬ。こんな女々しいやつを父上はどこをどう気に入ったのか」
四日後、山県昌景隊五〇〇〇は、武田信玄率いる本隊一万七〇〇〇は、明くる一〇月三日合流した。
その夜、信玄の陣屋へ山県昌景は呼ばれた。
「お館様、内々のお呼び立て何事にござりますか? 」
と、昌景が信玄の陣屋へ入ると信玄は人払いをして、昌景を手招きして側に寄せて耳打ちした。
「昌景よ、ワシはもう長くはないやも知れぬ」
「なにをおっしゃいますお館様、我らは徳川との戦の真っ最中、さらに、我らは攻勢を強め優勢に戦を進めております」
「昌景、わかっておる。だが、ワシの命の炎が消える日はそう遠くはないのじゃ」
「何を根拠にそのような心の弱いことを申すのです」
すると、信玄は懐から手拭をとりだして、手酌酒で濡らして、顔を拭って見せた。
「これは! 」
信玄が顔を拭った手拭にはべったりと、化粧の後。
「よう、ワシの顔を見よ昌景。目の下に深い隈が出来ておろう? 」
昌景が、信玄に促されるままに、まじまじと顔を見ると、化粧を落としたその顔は、血が濁っているのか真っ青だ。目元の深い隈はたっぷりと垂れ下がり今にも肌を吹き破りそうに厚い。
「お館様、なぜにこんなになるまで? 」
「あまりに病の治りが悪いので、大和から医師の北庵殿を呼び寄せて分かったのじゃが、ワシは、どうやら信長に篭絡された者に、ジワジワ効いてくる毒を盛られていたようなのじゃ」
「篭絡された者?! そ奴は誰にござるか? 」
「わからぬ、だが、ワシに毒を盛れるとすれば一門衆しかおるまい」
「ならば、先に、毒を持った犯人を捜さねば」
信玄はゆっくり首を振って、
「もはや、ワシに残された時間はそれほどはない。ならば、ワシのその命朽ち果てる前に信長を打つべし! 」
「お館様、何故、そのような秘事をこの昌景に? 」
「家中で、お主しかワシ亡き後の家中を率いる才覚のある者はおらんで、もしもの時は、ワシの代わりに武田を率いてくれ」
「何を申されます。お館様には、諏訪の勝頼殿も、仁科の盛信殿、もお子がおられます。それらを差し置いてワタクシなどが、武田の大将を率いることなど……」
「そうか、ならば、もし、この徳川との陣中でワシにもしもの事があらば、その時だけ、お主の采配の元、武田を率いて、甲斐へ撤退の指揮を執ってくれ」
「それも……」
「いいや、これは、ワシの遺言だと思って引き受けてくれ」
と、信玄は、昌景の手を握って、頭を下げた。
つづく




