74井伊の盟約(戦国、カケルのターン)
嶋左近隊が、一気に、井伊谷城へ兵を進めると、城はすでにもぬけの殻であった。
「左近、やはり、井伊の女に謀られたぞ! 」
と、山県虎が虎のような視線で左近を責める。
「左近殿、これでは山県隊の”風”の将としての戦とは言えませぬぞ! 」
付け家老の広瀬景房が叱責する。
「我らの目的は井伊谷城の落城に非ず。目的は、山県昌景の”風”の先鋒大将、嶋左近ここにありと三河、遠江、駿河、徳川家康の領国はもとより、来るべき敵、織田信長の耳にまで、武田の赤備え真に恐るべしと、恐怖を喧伝するのが目的にござる。これでは、なんの役にも立ち申さん! 」
三科伝右衛門が、怒鳴り散らした。
「ごめんよみんな……でも、オレは誰も殺したくないんだ」
嶋左近と魂が入れ替わった現代の高校生、時生カケルは、もう訳なさそうに素直に、三人に謝った。
「そんな甘いことで戦が出来るものか! 」
虎が、いきなりカケルを平手打ちを食らわせた。
「でも、武田の信玄さんも、きっと、同じ考えだろうと、次郎法師さんに教えられたんだ」
「お館様と、同じ考え? 」
虎が、訝し気に声をあげた。
「そうなんだ。たしか、武田の信玄さんは、その兵法を中国の兵法書”孫氏”に学んでいるそうなんだ」
「ほう、確かに、”孫氏いわく、おおよその用兵の法は、国をそのままに平らげるを最善とし、敵を打ち破るは次善の策”にござるな」
と、広瀬景房が口添えをした。
「それに、次郎法師さんは、此度命を救われた、我ら井伊谷。者は、必ず、その恩に報いると約束してくれたんだ」
「そんなものは、生き馬の目を抜く戦国の世なれば、それは敵を欺くまやかしだ。嶋左近、そんなことも分からぬお主は真のバカだ! 」
と、虎が激しい口調でカケルを責める。
「しかし、これは案外、良策であるやもしれぬな……」
三科伝右衛門が、カケルに理解を示す。
「お主も、そう、思うか伝右衛門よ」
と、広瀬景房が同調し、
「確かに、武威をもって、井伊を征服せば、武田の武威、赤備え山県昌景の武威は示せる。だがしかし、すでにその武威は近隣に知れ渡っておる。ならば、ここで温情をもって、徳川の将兵を屈服させたとなれば、波を打って、徳川の将兵の懐柔が成るやもしれぬな」
付け加えた。
ゴゴゴゴ……ゴゴゴ……。
嶋左近を先頭に、赤備えが、井伊谷城本丸まで来ると、居住まいを正した白装束の次郎法師が、手を突いて出迎えた。
「ワタクシは、井伊谷城城主、次郎法師こと、名を井伊直虎と申します。よく、お越しになりました嶋左近殿」
と、井伊直虎はカケルへ向かって深々と頭を下げた。
すると、井伊直虎目掛けて、山県虎が駆け出して、いきなり抜刀するや、その首筋に刀をあてがった。
「おのれ、井伊直虎、左近を甘言でその口車へのせ篭絡しおって許すまじ! ここで叩き切ってくれる!! 」
「やめるんだ虎さん! それこそ女城主、井伊直虎さんの策だ」
と、カケルがめずらしく冷静に、虎の激発を静止した。
「なにを申す左近よ。よもや、お主この女の手練手管へ嵌ったわけではあるまいな」
と、虎は、女の嫉妬の表情を見せる。
「冷静になってよ虎さん。井伊直虎さんの狙いは、井伊谷城のみんなを生きて逃がすことだろう? そこまでは、構わないんだよ孫氏の兵法書の通りだから、でも、その先、虎さんに井伊直虎さんの命を奪わせるのが策なんだよ」
「どういうことだ左近よ? 」
「井伊直虎さんは自分が死ぬことで、徳川家に井伊家の忠義を示すことになるんだ」
「それがどうした」
「よく考えてよ、直虎さんを殺したら、ボクたちは、城以外、何も得るものがなくなるんだよ」
「左様に、ござる。お虎殿。直虎を殺しては、武田の赤備えの武威も、徳川の将兵の懐柔も出来なくなる。直虎はじめ、誰一人、命を奪うことなく懐柔することが肝要にござるぞ」
と、広瀬景房が口添えした。
山県虎は、井伊直虎へあてがった刀を、こみ上げる怒りを抑えつつ、女の意地で鞘へ納めた。
井伊直虎は、凛とした目を山県虎へ向けて、
「殺さぬのですか?」
「殺さぬ。我ら山県の赤備えは、大将の嶋左近がお主と結んだ”恩に報いる”という盟約を信じる」
直虎はお虎へ向かって、深く首を垂れ、手を突いた。
「我ら、井伊谷城の者、いつの日にか、この日、この時、受けた山県昌景が赤備え隊への温情に必ず報いまする」
「期待せずに待っておる」
と、山県虎は言い捨てた。
「左近よ、これにて、井伊谷の仕置きは終わった。すぐさま兵をまとめ本隊に合流するぞ! 下知を出せ! 」
そう言われたカケルは、愛馬、霧風に跨り、
「ゆくぞ! ”風”の兵たちよ疾風の如く駆け、本体に合流し戦場へ望むぞ!! 」
(歴史によると、後の長篠の戦において武田信玄の息子、勝頼が大敗し、山県昌景をはじめ武田四天王のうち三人まで失った。井伊直虎の跡を継いだ、井伊虎松こと、井伊直政は、この時の盟約を守って、山県昌景配下の広瀬景房、三科伝右衛門をはじめ裁かれるべき敵の主力の赤備えの将兵を次々に、重用し、井伊の赤鬼と呼ばれる一隊を形成することになる。しかし、それは、先の話……)