70次郎法師の算段(戦国、カケルのターン)
「ならば、どこに逃げよというのだ」
と、近藤安用が次郎法師へ尋ねた。
「海にございます――」
次郎法師は静かに囁いた。
「気賀にございます」
「気賀は商人の楽天地、ワシらが突然転がり込んでも、ほい、そうですかと聞き及ぶようには思えぬ。それに、我らにはゼニがない」
次郎法師は、真っすぐ近藤安用の目を見つめて、
「お任せください。ワタシには多少、縁のあるものがいます」
「次郎法師殿よ任せてよいのだな」
「お任せ下され」
「それじゃあ、逃げるの算段としてワシらは今からどうすればよいのじゃ?」
「簡単にございます。近藤様お耳を拝借……」
二俣城を取り囲む武田信玄本隊を離れ、二俣城をそのまま通過した山県昌景隊から離れた嶋左近隊兵3000は、方向を再び西に取り、井伊谷へ進路をとった。
山間を縫うように走る狭い藁科街道を行く。
嶋左近隊が、お参りすれば「ぽっくりいける」で有名な見性寺へ差し掛かった。
先頭を行く嶋左近ことカケルへ「ここらで、一息いれましょう」と山県昌景に付けられた家老の広瀬景房が声をかけた。
――見性寺。
曹洞宗見性寺、この寺の楼門は、まるでここへ武田の赤備えが来るものと想定していたかのように参道へ落ち葉一つない程掃き清められていた。
先頭の嶋左近ことカケルが愛馬霧風を下りると、
「お待ちしておりました。嶋左近殿」と、尼僧が出迎えた。
「どうしてワタシの名前を、して、あなたは?」
「すでに、山家三方衆の調略と、一言坂の戦いで、本多忠勝殿と相応に戦った嶋左近殿の名声は、赤備え山県昌景隊にこの人ありと、近隣に鳴り響いています。はじめまして、ワタシは次郎法師ともうします」
それを聞いたカケルの側に控えた広瀬景房が、「次郎法師と申すは、我らが向かう井伊谷の元女領主、井伊直虎のことにございます。ご用心くださいませ」
――本堂。
知恵をつかさどる本尊の如意輪観音菩薩に見守られて、次郎法師が点てた茶を、味もへったくれもなく無作法に一気に飲み干すカケルが口の周りに緑の泥棒髭をつくりながら、
「う~ん、味がよくわからん」
「ほっほっほ、流石は徳川一の猛将、本多忠勝様と互角に槍を交えた武田四天王、赤備えの先鋒をつとめる嶋左近様にございます豪快にあらせられる」
「うん、そうかな」
カケルは次郎法師の明らかなおべっかも、歴史マニアには戦国最強本多忠勝と互角と褒められるなんて心底嬉しい。
カケルのバカ正直さに、となりの山県虎がぎゅっと、腿をつねった。
「虎さんいきなり何すんの!」
「左近、お主がバカ正直に、鼻の下を伸ばしておるからじゃ」
「でも、なにもいきなりツネルことないんじゃない?」
それを見た次郎法師が、また、
「ほっほっほ、これは、こちらが、山県昌景様が娘御、お虎様でございましたか、噂以上に利発でお美しい方にございます。思わず見惚れてしまいました」
まだ若い虎は、次郎法師の明け透けな持ち上げを、必死でこらえながら、喜びを表情にでないように隠した。
「次郎法師様、初陣を遂げたばかりの我らにはちと、お褒めがすぎますぞ」
「なにも、なにも、この次郎は事実をありのままに申したまで、嶋左近様の武勇に、お虎様の知恵が加われば、我ら徳川の者は皆蹴散らされることになりましょうな。それに……」
「それに、なんでしょう」
「もし、お二人に子が出来るようなことになれば、きっと、近隣はおろか天下に名をとどろかす大将になることでありましょうぞ」
お虎の左近への愛情を見抜いたように、透かし見た次郎法師の洞察力はかなりのものだ、若い二人の、守役として、山県昌景につけられた広瀬景房も次郎法師の英知には唸るものがある。
(この女子の口車に乗せられておっては、若い二人は目的すら失うやもしれぬ……)
そこで、広瀬景房は、差し出口をはさむように、次郎法師の言葉をさえぎって、
「左近殿、お虎様、次郎法師の話にあまり気を取られていると、井伊谷を落とす刻限がのうなりますぞ」
と、景房は明け透けに目的を開示して見せた。
次郎法師は、自己の領地を蹂躙される目的を告げられても、驚きもせず眉一つ動かさなかった。
(この女、すべてを承知しておるな)
景房は、若い二人には任せておけぬと、次郎法師にカマを掛けた。
「次郎様、わざわざ我らが狙う井伊谷の元・領主様が直々にお出ましとは、その心の内に何か算段のあってのことと思われるがいかがかな?」
次郎法師は、本尊の如意輪観音菩薩のように慧威しい表情を浮かべて、
「その通りでございます。ワタシは、算段があって参りました」
(やはりな、この女には用心せねばなるまい)
カケルが、アホウみたいに、
「算段ってなに、次郎法師さん、オレたちをだまそうとしているの?」
「ほっほっほ、嶋左近様とは子供の用に面白きお方、さすが、武田の四天王、山県昌景様が目をつけられたお方です。実に、おもしろき方、心配なさらずとも、ワタシも仏門へ務める身誰もだましは致しません」
広瀬景房がすかさず、
「では、目的は何じゃ?」
「ワタシは、嶋左近様と賭けがしたいのです」
つづく




