56カケルの土俵入り(戦国、カケルのターン)チェック済み
――それから二日。
長篠城を睨んで、設楽原へ武田の赤備え山県昌景が到着した。
漆黒の馬、霧風に跨る嶋左近が一騎スルスルすると陣を離れ、長篠城の大門の前まで来た。
なんと、その時の馬上のカケルはふんどし一枚の裸であった。
――長篠城城門。
赤備えの陣中をスルスルと一際デカイ漆黒の巨馬、霧風に赤フン一丁のカケルを先頭に、同じく、白フン一丁の菅沼大膳と、相撲の行司に拵えた菅沼定忠。
三人は城門まで来ると馬を下りた。
すると、菅沼定忠が、長篠一円に響き渡る大音声で、
「東西東西、長篠城中の方々ご覧あれ、我らは武田家、山県昌景配下、嶋左近とその一党にござる。これより我らは対陣し戦に及ぶわけではあるが、山県殿が、長篠城の皆々様に、冥途の土産に我ら武田の土俵入りでもご覧に入れろとの仰せにより推参仕った」
すると、巨体の嶋左近の身体を持つカケルを雲竜型に、同じく巨体の菅沼大膳は不知火型に土俵入りだ。
それはまるで、武田は両横綱をかかえ、これからがっぷり横綱相撲をお見せすると宣戦布告でもするかのような狂言回し的振る舞いだ。
そして、土俵入りを終えたカケルと大膳は、その場を土俵に見立てて睨みあった。
互いに、鬼気迫る表情で睨みあう。
スーッ、ハーッ、呼吸すら聞こえてきそうな静寂。
カケルと大膳が睨みあう。
行司の菅沼定忠が軍配を返した。
「ぷ~う」
カケルの尻から息の切れた冴えない尻音が漏れた。
長篠城から頭を出して、カケルと大膳の土俵入りの出し物を興味深そうに覗いていた城兵も、これには肩透かしを食らいドッとわらいを誘われた。
カケルは、頭を掻いて、
「すまぬ、すまぬ、もう一度立ち合いのやり直しじゃ」
と、屈託のない白い歯を見せた。
「なんとも、嶋左近という漢はしまらぬな」
と、大膳も呆れ顔だ。
すると、城中はドドドとさらなる笑いに包まれた。
カケルはなおさら頭を掻いて困った顔をして、尻を抑えた。
「皆の者、すまぬ。もう一発出そうじゃ。鼻をつまんでくれ」
ぷ~~~~う。
長い一発だった。
「ひゃ~~、左近よ。お主、昨晩何を食らった。先ほどの一発も腹の底から臭かったが、今度の一発は目にも沁みよる。いったい、何を食ったらそんな臭いになるのじゃ」
カケルは、屈託なく笑って、
「何も変わった物は食らっておらぬぞ。ほれ、そなたの隣で同じものを食らったではないか」
「うん?!」
大膳を尻を抑えてモゾモゾして、
ぷ~~~う、プスプスぷ~~~!
情けない音を尻から出した。
長篠城は笑いに包まれた。
「いかぬなこれでは格好がつかぬわ。出直して参ろうよ」
と、カケルと菅沼親子は引き返していった。
ほのぼのとしたカケルと菅沼親子のやり取りを苦虫を嚙み潰したような表情で矢倉で眺めていた人物がいた。奥平信昌である。
敵味方であるはずの徳川方の長篠城の城兵を一瞬で戦意を喪失させるように心を掴んだ嶋左近ことカケルの存在に、城兵が親しみを持ってしまったのだ。
これは、兵の命を、自己が手足の如く扱う大将にとって致命的な敗北だ。なぜなら、自己は、城兵を恐怖で支配する弾圧者。カケルは命のやり取りの戦場にほほえみをもたらした解放者と心理的に映るのである。
(これが、敵将山県昌景の策による前哨戦であったか……恐ろしき奴)
と、奥平信昌は爪を噛んだ。
――翌日。
夜も明けきらぬ早朝、長篠城の小便に立った矢倉の物見が叫んだ。
「設楽原から武田の赤備えが消えておるぞ!」
奥平信昌は飛び起きて、目をこすって確かめた。
(確かに武田の軍勢は消えて居る。しかし、理由がわからない……)
「お主が、奥平の一隊を率いて斥候になり様子を探って参れ」
異変に気付いて状況を報告に上がった奥平信昌に、そう言ったのは、決断力のない城主菅沼昌貞である。やはり、利害に聡い叔父の意見に従ったものだ。
奥平は、自己の城をなげうって、長篠へ身を寄せたが、兵糧も兵も拠出している。決して、戦に破れて逃げ込んだ厄介者ではない自負がある。こうして、長篠城の城主から家来のように手足の如く使われるいわれはない。
と、奥平信昌が思ったように、その作手亀山から逃げ込んだ兵たちも、この長篠城での自分たちの扱いの悪さを感じているだろう。
それもそのはず、作手亀山城にいれば、自己たちは侍長屋へ詰めて雨風をしのげる屋根と壁に囲まれた屋敷の中にいたはずだ。それがどうして堀建て小屋の屋根だけの吹き曝しに身を置かれなければならぬのか、憤懣を募らせている。
怒りはやがて、長篠城と作手亀山城の家中の内部対立に発展した。
このままでは、武田と対峙する前に、長篠城は内部崩壊してしまう。
昨日の嶋左近やら申す者の道化芝居にはまって城兵たちは武田への敵意はもはやない。自己たちを不遇の苦しみに置く長篠城と作手亀山城の指導者どもへの敵意の方が募っている。
(このまま武田が真に撤退してくれておればよいのだが……)
と、斥候隊の先頭に立つ奥平信昌が設楽原へ足を踏み入れた。
つづく