401『鶴岡山の激突・六 島左近、参る!(左近のターン)』
それは、突然起こった。
吉良見の里で、明知川を挟んで激突する秋山虎繁と河尻秀隆の背後――。
秀隆の嫡男・秀長が守る陣に、疾風の如くなだれ込んだ。
「武田家・山県昌景、参上! 大将首はどこだ!」
“山県昌景”居るはずのない昌景の名が乗り込んできた。
秀長は、自分の目を疑った。
「そんなはずはない。光秀の話では、昌景は今頃は、主の勝頼によって……」
「お前が、この陣の大将か!」
左近の目が狼狽する秀長を捉えた。
秀長は、左近の虎の眼に、身を縮こませ、采配を放り投げ、その場に尻餅をついた。
「ひぃぃぃぃ―――――!」
次の瞬間、山県昌景、いや島左近は、秀長の首筋に刀の刃を当てがった。
闇を駆けるフクロウの鳴き声のように、明知川で奮戦する秀隆の元へ、伝令が水に飛び込んで走る。
「殿、秀長様が、敵の伏兵の襲撃を受け、本陣は総崩れ、秀長様の消息も分かりませぬ」
「なんだと、誰が、背後を突いたのだ!」
「はっ、敵は山県昌景!」
秀隆は、眼前の秋山虎繁、後方に山県昌景に挟み撃ちにされたことになる。さすがの一己の武勇であっても、この強敵二人に挟まれてはひとたまりもない。
「ううん。皆の者、退却だ! 必ず生きて、この屈辱をいつか武田に晴らすのだ!」
と、秀隆が再び明智川に飛び込むと、秋山虎繁が馬を駆り自ら槍を一撃、振り下ろした。
「逃がさぬぞ! 秀隆‼」
バチンッ!
何とか、腰の刀を引き抜いて、虎繁の一撃を防いだ秀隆だが、刀は折れてしまった。
「秀隆、覚悟!」
虎繁の二合目が振り下ろされた。
秀隆、万事休す!
覚悟を決めた秀隆は、虎繁の馬に力一杯肩をぶつけた。
ヒヒィーン!
秀隆の覚悟の一撃が、虎繁の馬を立ち上がらせた。
ザブーン!
馬上の虎繁は、馬に振り落とされ、明知川に沈んだ。
秀隆は、一瞬、右肩を押さえたが、ここぞとばかりに明知川を吉良見の間道目指して逃げ出した。
河尻秀隆・秀長の親子五千の陣は総崩れである。
後続の家来に肩を引っ張り起された虎繁が、渡り終える秀隆の背中を悔しそうに見送った。
「その眼光、お前は大将首に違いない!」
明智川を上がった秀隆が一息つく間もなく、河尻本陣を落とし勢いを増し、奪い取った馬で左近が迫る。
「もらった!」
「ええぃ!」
秀隆は、隣にいた雑兵の体を盾とした。左近の一撃を躱した。秀隆は、すぐさま雑兵の腰の物を引き抜くと、自分の腰に差し、継いでくる雑兵の握る槍を奪い取った。
「なまくらだが、無いよりはマシじゃろう!」
左近は、馬首を返して、秀隆を見定めた。
「某は、武田の“赤備え”で知っておろう。我こそは“山県昌景”だ!」
秀隆は、撤退の中に在っても、武田に名高い“山県昌景”の名を聞いて、武者震いが止まらない。逃げるよりもここで――。
秀隆は、槍を旋回させ見栄を切った。
「某は、織田家・黒母衣衆・初代筆頭、河尻秀隆! 山県昌景なにするものぞ!」
「ほう、お前が河尻秀隆か、相手にとって不足なし! 参るぞ!」
左近は、馬を走らせ、秀隆とすれ違った。
「ええい、このなまくらは全く使えん!」
左近と槍を交わした秀隆だが、槍が雑兵から奪った鈍らだ。たった、一合でポキリと折れた。
「くそっ! せっかく敵の大将首がそこに在るのに、これでは戦にならぬわ!」
と、言って、秀隆は、虎繁に追われた我先に上がってくる雑兵を、突き飛ばしながら紛れて逃げ出した。
馬上の佐近が、秀隆の首を狙おうにもこれでは、雑兵が邪魔になって馬が進めない。
「おお、左近、お前か秀隆の陣を破ったは!」
明知川を越えた虎繁が並びかける。
「虎繁殿、河尻秀隆を討ち損ねました」
「俺も、もう少しだったがな。あいつは、腕は立つが、雑兵を盾にするような誇りに欠ける所が昔からある。いずれ、あいつは身を亡ぼすだろうよ」
左近が、話し終えた虎繁の顔から視線を外さない。
「どうした、左近? まだ、何かあるのか?」
左近は、薄笑いを浮かべて虎繁に言った。
「某、山県昌景殿に成りすましました。それと、もう一つ」
「それは、面白い。この陣に山県殿が居るのと居らぬのでは天と地の差じゃからのう。もう一つはなんだ?」
「河尻の息子を捕え申した」
虎繁は、破願した。
「でかした左近! 河尻の息子が人質であれば、デカいぞ」
「某は、手柄より、この戦場を山県殿より任されておりますれば、あわよくば、山県殿を頼りにする松姫様のこともと――」
「うむ、そうだな。松姫様はまだ、織田の若殿のことを忘れれぬからな」
その頃、鶴岡山の後方、東美濃を守る遠山氏をたいらげた武田勝頼は、恵那城に置いて、山県昌景を暗い地下牢獄に閉じ込めていた。
そこへ、薄明かりが近づいてくる。
「昌景、ここに居るのか?」
松姫の声だ。
信玄の時代からその才を比べられることが多かった勝頼は、昌景への嫉妬から、折檻に折檻を重ね、最前線の鶴岡山で“赤備え”が戦っているというのに、あらぬ疑いをかけ召還し、またこうして地下牢に押し込めたのだ。
ムカデが歩く土牢に横たわる昌景は、松姫の声に、薄目を開けた。
「……松姫様」
昌景の声は枯れている。水もまともに与えられていないのであろう。
蝋燭の輝が昌景を照らす。
「昌景! お前のような忠臣を兄上は何という事を!」
松姫は、土気色に変わった昌景の顔を見て気色を失った。
「早く、昌景をここから出すのじゃ!」
松姫に命じられた侍女が、昌景を助け起こして、牢から出す。
「姫様……、鶴岡は……」
昌景は己の身体よりも武田家の命運を決める戦場の方が気になるようだ。
「ワラワの元へ届く情報は少ないが、昌景、お前の息子たちは……」
と、松姫は一瞬言いよどんだ。首を振り、昌景を抱き起して言葉をつづけた。
「信忠様を押し返しておるぞ。さあ、昌景、共に鶴岡山に参ろう」
つづく




