387『勝頼と昌景(左近のターン)』
387『勝頼と昌景(左近のターン)』
「山県昌景殿、鶴岡山より帰還なされました」
織田家との戦いで東美濃・恵那城を攻略した武田勝頼。その勝頼の元へ、呼び出されたのは赤備え”の将山県昌景であった。彼は六千の兵で三万の織田軍を相手に互角の戦いを繰り広げていた。
恵那城には、武田の本軍一万五千と主の勝頼、側近の跡部勝介、兵站役の長坂釣閉斎、以下、上杉、北条、徳川を牽制する四天王を除いた主だった武将たちが顔を並べている。
広間に集まる勝頼以下、武将たちの中央に、戸板に乗せられて、武田の代名詞“赤備え”の大将・山県昌景が、先頃、勝頼から謂れなき打擲を受け、まだ身動きも容易でない体で前線を指揮していた所を呼び出された。
中央に置かれた昌景が、重い体を起こして、勝頼に頭を下げると、将兵たちが見守る中、勝頼も決まり悪そうに、眉を掻き、口をへの字にしながら上座から、めんどくさそうに声をかけた。
「すまんな昌景。武田家の後方、北条家の次期当主・氏直と、ほれ、出戻りの妹(松)との縁談を考えておってな、あいつがワシの言うことより、お前の言葉なら聞くとごねおるから、仕方なく呼んだのだ」
と、申し訳程度に他の武将の手前頭を下げた。
そうしておいて、すぐに扇子で「ほれ!」と、側近の勝介に詳しく話すように命じて、自分は立ち上がって奥へ消えた。
これには、さすがに広間に集まる一門衆の穴山信君も木曾義昌も眉は顰めたが、後を託された勝介の手前、表立って反感は示さず、静観を決め込んだ。
譜代家老で昌景贔屓の小山田信茂、土屋昌続、部将の真田信綱・昌輝兄弟こそ、勝頼の背中を一瞬、睨んだが、それ以外の者は、目を伏している。
勝介は、各武将たちに目で牽制して、口火を切った。
「若殿が、先程申された通り、昌景に来てもらったのは、御家大事のことゆえだ。皆の者、よいな!」
と、昌景召喚のことで反論できぬよう釘を刺した。
一門衆は、すぐに頭を下げたが、昌景贔屓の者たちは、頭を下げつつも心なしか顔はそっぽを向いてまともに下げてはいない。
構わず、勝介がつづける。
「釣閉斎、松姫をここへ」
と、奥へ向かって長坂釣閉斎へ松姫を広間へ連れてくるよう命じた。
しばらくすると、松姫の着物の長い裾を引きずらぬよう女子衆の代わりに持った、どこか憎たらしい顔の釣閉斎が現れた。
松姫は、昌景を見つけるとすぐに、駆けつけ、今にも倒れてしまいそうな体を支えた。
「昌景、私のために無理をさせた。すまぬ、許してくれ」
松姫に今にも横になりそうな体を支えられた昌景は、「なんの! 松姫様、お気になさず」と、自分の膝に手を付き、重い体で無理やり立ち上がった。
グラリ!
やはり、先頃受けた勝頼からの打擲の傷は癒えていない。なんとか立ち上がったはよいが揺らめいた。
そこを、すかさず真田の兄弟が左右から両脇を支えた。
「かたじけない。信綱、昌輝、恩にきる」
昌景は、真田の兄弟の眼をしっかり見て頭を下げた。
信綱は、右脇を支えながら、黙って首を振り、昌輝は、大きく頷いた。
それを見た釣閉斎が骸骨みたいにこけた頬を伸ばして口を尖らせて、勝介に話を進めるよう目で合図した。
「松姫様には、改めてご報告がございます。実はこの度、昌景殿に御足労いただいたのは、若殿がご決断された“大事な縁談”にかかわることでしてな……」
と、言ってのけた。
松姫は、目を向いて「信じられない」といった表情で、昌景を顧みた。
昌景には、そんな話はされていない。話されたのは、理由もなく勝頼の命令で、織田家と対峙する最前線の指揮を捨てて、恵那城に呼ばれただけだ。
しかし、昌景は、文句も反論もせず、松姫の眼を見て言った。
「そのようです……」
武田家家中で唯一信頼していた昌景からの一言に、松姫は膝から崩れ落ちた。
「なぜだ、昌景。お前は、ワラワと信忠様のことを応援していてくれていたではないか、それなのに……」
松姫は、悔しそうに唇をかむ。
政景は、真田の兄弟に支えられつつも、勝介を真っすぐ見返して言った。
「ご安心ください。松姫様、某は、今は亡き御屋形様から『瀬田に旗を立てよ!』との遺言を得ています。それが例え、織田家との同盟の形であっても実現するならば武力によるものにこだわりません」
松姫は、政景の言葉に力を得た。
「ならば、お前は、ワラワが北条の子倅の元へ行かずともよいと約束してくれるのだな」
昌景は、鋭い視線で牽制するように、勝介と釣閉斎を見て言った。
「北条との婚姻が真に、武田家のためになるのならば、この昌景も反対はしますまいが、武田のためにならぬのならば、亡き御屋形様に命じられた軍監の権限をもって、若殿の命であっても首を縦へは振りませぬ」
「昌景、信じてよいのだな」
「某は、御屋形様から遺言を得た武田の軍監にございます。一歩もひきませぬ」
昌景は、今回の松姫と北条氏直との縁談の詳細によっては一歩も引かぬ覚悟だ。
勝介は、戦一番の武人・昌景の覚悟と迫力に、慄いた。
釣閉斎が不利になった形成を立て直すため、話を一門衆筆頭の穴山信君に振る。
「穴山殿は、どう思われまするな?」
信君は領国を、甲斐の勝頼と駿河の昌景の間に挟まれた場所にある。出来れば、どちらにも味方せず中立を保ちたい。
「そうですな、某は、若殿と昌景殿どちらの考えにも一理あるように思いますなあ。義昌殿はどう思われまするか?」
と、言葉を濁し同じ一門衆で、飛騨高山を領する姉小路氏への備えの木曾義昌に話を投げた。
「某は、田舎者ゆへ、大国同士の駆け引きはわかりませぬ」
と、小物ぶりを発揮して、返事を渋った。
勝頼に、松姫の北条家への輿入れを何としてもまとめるように命令されている勝介は、最後の手段に出た。
「昌景殿、現在の武田家当主の名代は勝頼公にあらせられる。逆らえば、例え、功臣の山県殿であっても若殿への反逆として、ただではおきませぬぞ!」
と、高圧的に詰めた。
昌景は、真田の兄弟を下がらせて、そこに胡坐をかいて、鎧の肩をほどき、腹を見せ、目の先に短刀を横に置いた。
「某が邪魔ならば、ここで潔く腹を切ります」
昌景の覚悟のほどを見せられた小山田信茂、土屋昌続が、慌てて話に割って入る。
「昌景殿、お主は武田の精鋭部隊“赤備え”率いておるのだ。こんな所で無駄死にさせるわけにはいかない。我等も味方するぞ!」
と、二人は、真田兄弟の隣に並んで座った。
こうなれば、いくら勝頼の命を受けているとは言え、勝介も強攻できない。釣閉斎の顔を見ても、忌々しく、昌景を睨むのみだ。
勝介は、「ええい、この頑固者どもめ! 若殿の意向に逆らったことを、後で後悔いたすなよ!」
と、捨て台詞を吐いて、釣閉斎とともに奥へ引っ込んでいった。
松姫は、今にも倒れそうな昌景に歩み寄って手を握った。
「昌景、あなたこそ、父・信玄の意思を継ぐ者。どうか、今は体を休めて静養してください」
と、涙を流さんばかりに手を握った。
昌景は、松姫の眼をしっかり見て、頷くと家来に命じて、戸板に身を横たえた。
「それでは、某は、鶴岡山へ戻らねばなりませぬ。それでは、皆様方、戦はつづいている――」
と、昌景は、遠くに鶴岡山に思いを寄せた。
その頃、鶴岡山では、織田家三万の大軍が鶴岡山を強攻に攻め落とそうと鬨の声を上げて、北の山岡、南の吉良見に押し寄せた。
鶴岡山に戦火が昇り、昌景の帰還をまたず戦は動き出していた――。
つづく