383話『未来を紡ぐ一手・後半(左近のターン)』
左近は、手にしていた白石を静かに盤に戻した。そして、すぐに次の一手を取る。誰もが手をつけぬと思い込んでいた盤の隅、死角と呼ばれるその一点に、彼は慎重に石を置いた。
パチン。
その音に、喜兵衛の目がわずかに見開かれる。
「……そこか。あれは、捨て石ではなかったのか?」
左近は微笑みながら答える。
「はい。常の碁ならば、あそこは死地です。しかし、実戦は常に“異変”を孕んでいます。歴史がその通りに進むなら、戦略家など必要ありません」
喜兵衛はしばし黙して盤を見つめる。その一手が、確かに全体の流れを変え始めていることに気づいていた。
「左近殿……何を見て、その一手を?」
左近はほんの一瞬だけ碁盤から視線を外し、遠く、空の向こうを見つめる。
「未来を、少々」
「……?」
「いえ、戯れ言です。しかし……この戦、昌景殿を退けた時点で、武田家は危機に瀕しています。ならば、盤上でも命脈を繋げる一手を打たねばなりません」
喜兵衛の眼差しが鋭くなる。
「その“命脈”とは?」
「この布石――“中央突破”ではなく、“隅に残した一筋の道”です。昌景殿が再び戦場に戻るとき、その道を抜け道に変えます。攻めではなく、帰るための道を残すのです」
その瞬間、智猛と智林の父子が息を呑む。
「……見えた。敵を包囲する流れの中に、たしかに……一筋、突破口がある」
喜兵衛は、石を握りしめたまま、小さく頷いた。
「武田に……未来を残すための、道か」
左近はその笑みを消し、真顔で言葉を続ける。
「未来は変わります。戦も、国も、人の心も――ただ、変えるには“意志”が要ります」
盤上の白と黒の石が、光と影のように交錯し、静かな一手がやがて歴史を変える布石となる――その予感を、誰もが抱いていた。
勝敗のつかぬまま、盤面は最終局面を迎えていた。
双方が命を賭けて築き上げた陣立ては一目瞭然。もはや、石一つで逆転を望める段階ではなかった。しかし、二人は黙して盤を見つめ続ける。
やがて、喜兵衛が最後の一手を置いた。
その音は、まるで合戦の終息を告げる太鼓のように静かで重々しかった。
「……これまで」
そう告げて、喜兵衛は石を置いた手を引いた。
左近も軽く頷き、碁石を囲碁箱に戻しながら呟いた。
「勝敗を問わぬ勝負。……戦に似ていますな」
「いや。戦よりも残酷かもしれぬ。戦場では、斬れば倒れる。しかし、盤上では“読み負けた”と悟るまでに時間がかかる。それがまた、堪える」
喜兵衛の言葉に、左近は小さく笑った。
「やはり……喜兵衛殿は、よく見えておられる」
その声音に、わずかな翳りを感じた喜兵衛は、ふと目を細めた。
「左近殿。失礼ながら……ひとつ、尋ねてもよろしいか?」
「何なりと」
喜兵衛はゆっくりと腰を正し、左近の目をまっすぐに見据えた。
「この勝負。最初から左近殿は、“先の展開”を予測していたのではあるまいか?」
「……と申されますと?」
「いや、盤面の打ち筋ではなく、その先、山県殿が召し出され、武田が混乱し、織田がそれに乗じて動く……まるで、左近殿は未来の展開をご存知のように、打ち回しておられた」
その言葉に、左近の表情が一瞬だけ固まる。
「……何を、根拠に?」
「直感ですな。戦場における、人の“気”を読む直感です。左近殿は、碁を打ちながらも、盤の外、つまり現実の戦局に目を向けておられた。あの突破口の布石も、昌景殿が再び戻る道を予め用意する……そうした“時間”の先を読んだ一手にございました」
喜兵衛は、そこで少し口をつつしみ、続けた。
「左近殿……そなたは、戦場の鬼ではない。用兵を遊ぶ者でもない。むしろ、未来を憂い、何かを護ろうとしている御仁ではないか?」
左近は、碁石の一つを指先で転がしながら、やがて小さく息を吐いた。
「……慧眼。恐れ入ります」
そして、まるで自らの心を吐露するかのように、静かに語り出した。
「もし、この時代に“知”が勝つのならば……信念を持つ者が、その“知”を持たねばなりません。私は、ただ戦を読み、勝ち負けを競う者ではない。……昌景殿の命も、松姫様の想いも、武田の“存続”も、すべてを盤面の一手と見て、選ばねばならぬのです」
その言葉には、どこかこの時代の人間とは違う“距離”があった。
喜兵衛は、目を細めてその姿を見つめた。
「……なるほど。そなたの背には、時代そのものが乗っているのですな」
左近は、何も答えずに微笑み返した。
そして二人は、もう一度だけ、碁盤を見た。
そこには、黒と白が拮抗しつつも、静かに未来へとつながる“道”が刻まれていた。
碁石がすべて碁笥に収まり、卓上には静寂だけが残された。
武藤喜兵衛は、ゆっくりと立ち上がり、山の空気を深く吸い込んだ。春とはいえ、鶴岡山の風はまだ冷たい。
島左近は、まだ盤を見つめていた。まるで、そこにまだ終わらぬ何かがあると信じるかのように。
「……左近殿」
喜兵衛が声をかけると、左近は小さく頷いて立ち上がる。
「戦が、動きます」
その一言に、喜兵衛の目が細くなる。
「山県殿の離脱は、武田軍の背骨を抜かれるに等しい。織田方がこれを察すれば、必ず仕掛けてくるでしょうな」
「信忠殿は、機を見れば動く人間です。松姫様の名を聞いて冷静でいられるか……おそらく、その“情”が戦の火蓋を切らせるやもしれませぬ」
左近は鶴岡山の南を指差した。
「吉良見の秋山殿の元へ、三手、すでに偵察の兵が動き始めております。織田の動きは早い。……が、我らの布石も、無駄ではなかった」
喜兵衛は軽く笑った。
「碁盤での勝敗は五分と見ましたが……どうやら、実戦ではそなたの“手”が先に打たれているようですな」
そこへ、山の道を駆けてくる足音があった。
下条智猛の嫡男・智林が息を弾ませながら駆け寄ってくる。
「左近殿、喜兵衛殿、急報にございます! 織田方、森長可と秀長の兵、計五百が、恵那を経て吉良見へ向けて動き始めました!」
喜兵衛と左近は、目を見交わした。
「ついに来たか……」
左近は目を閉じ、呟くように言った。
「未来は、ただ“知”だけでは変えられない。動かなければ、何も変わらぬ」
喜兵衛は、手綱を取りながら言う。
「まさしく。“情”を背に、“智”を携えて戦わねばなりませぬな」
「行きましょう。盤上は終わった。これよりは、戦場にて、次の一手を打ちましょうぞ」
二人は馬に跨り、山を駆け下りる。
春の陽が鶴岡山を照らすその向こう、織田と武田の火種が、再び風に煽られて燃え広がろうとしていた。
静かな山に、もう一度、戦の足音が戻ってくる。
そして物語は、次なる“布石”の地へと、走り出した――。
つづく
どうも、こんばんは星川です。
現在、note創作大賞2025へ『#ジェントルおじさん』で参戦しております。
市井のあたたかな人の優しさから始まり、商店街の再開発、果ては、国家的な裏側を垣間見れる人の心のミステリーです。とても、ほこり、泣けて、市井の人々の強さ、ユーモア、スリリングな追い込み、など多様な構成を織り交ぜて描いています。是非、そちらもご覧ください。
https://note.com/ryoji_hoshijawa/n/n37a1605875f4
この『#ジェントルおじさん』は、できればドラマ化したい。そこで、私は脚本畑出身なので、イメージキャストを決めています。Xでは、主要キャラ4名ほど、配役を発表しました。
ジェントルおじさんは、竹野内豊参加、伊藤英明さん。
ヒロインの「ひだまり書店」の女主人・優木文さんは、裕木奈江さん。
亀吉本舗の女将で文の姉貴分、亀吉冴子さんは、原田美枝子さん。
その夫で、亀吉本舗社長で、商店街連合会 会長の亀吉道楽さんは、竹中直人さんなどをイメージして書きました。
と、それは、一旦おいて置いて、一方で、公募の小説現代新人賞の方への第一稿10万字強を書き上げ、誤字脱字チェック・レイアウトの調整、加筆など整えています。予定では、後1週間ぐらいで整って、次の公募への作品尉取り掛かります。まだ、アイデアもありませんが、とにかく、今、燃えてます。
その、この長期連載をつづけている『左近とカケル』ですが、どこかの賞に出して、最終候補に残る可能性が低いので、1からリライトでカクヨムコンや、アルファポリスなどへ向けて、リライトも検討しています。
連載つづけたいのは山々なのですが、手が回りません。残されたストックは2つ。そのまま、連載打ち切りなんてことにもなるかもしれません。どこか出版社の編集者の皆さま、『#ジェントルおじさんを』を読んでいただいて、リライトしたら化けるぞと可能性を感じて下さったらお声がけください。
小説現代新人賞の原稿は、数段レベルアップしております。是非、今のうちにお声がけくださりませ。
それでは、☆5つ
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それでは、来週に、また。