369『昌景の決断:信忠の焦り、松姫の想い(左近のターン)』
鶴岡山での軍議を終えた左近、山県昌景と赤備え、下条智猛と山県昌満はそれぞれ、明知城へつながる間道と山の要塞に配置についた。
昌景は、鶴岡山の北・山岡に位置する土岐川とその支流小里川に開けた丘陵に兵4500で赤備えで陣取った。構えは一番隊の風の将に三枝昌貞1500、二番隊林の将に孕石元泰500、三番隊に火の将に広瀬景家500、そして大将の山の将に山県昌景その人2000だ。
鶴岡山には”鶴岡山の猛虎”下条智猛と山の達人30人と山県昌満と智林500が、張り巡らした罠、罠、罠で、対峙する織田信忠を待ち構える。
明知城を押さえた秋山虎繁は500は、鶴岡山を挟んだ南の間道・吉良見に進んでいる。
昌景の元には、嫉妬心むき出しで昌景を嫌う勝頼から思いがけず、後詰の援軍として武藤喜兵衛500が差し向けられたと報せがあった。
この武藤喜兵衛という男は、後に豊臣秀吉から”表裏比興の者”と揶揄される老獪な食わせ物の一面を持つ。父は、これまた老獪な戦術で”攻め弾正”の異名を持つ真田幸隆。そう、この武藤喜平は後の真田昌幸だ。
真田幸隆は前年、真田氏の本拠・戸石城で病没し、家は38歳になる脂の乗り切った嫡男の信綱が引き継いだ。32歳になる次兄の昌輝も信玄の頃にはその実力が認められ別家を立てた。優秀な兄たちにつづく、この三男の喜兵衛に至っては幼くして信玄の奥近習として上がり側近く侍りその戦術・戦略・人心掌握術のすべてを体得し、昌景以来の俊才として武田家に繋がる支流の武藤氏の養子となった28歳逸材だ。
昌景は、喜兵衛が来ることを複雑な感情で受け止めた。喜兵衛の後詰は、勝頼の意思によるものではない。おそらく喜兵衛、自己望んでその役を進み出たのだ。
昌景の脳裡では、鶴岡山を中心に、北に赤備え、南に虎繁が入れば、例え6倍の織田軍を相手にしても互角以上の戦いができると見込んでいる。昌景は、信玄が亡き後の軍艦に見込んだ漢だ戦術・戦略の読みの深さは、勝頼を越えて家中一であろう。その昌景の読めない脳裡の穴をこの喜兵衛は気がついて、どのような思惑かは知らないが、勝頼に嫌われている昌景の援軍を買って出た。
(まったく、真田一族は北信濃の小県の一領主に過ぎないが、いずれ天下に名をとどろかす一族になるやも知れぬな)
左近は、それより早く、頬面をつけた武者こと松姫と共に、武田の赤備え山県昌景と織田家の次期当主・織田信忠の決戦を前に、信忠に一心に想いを募らせる松姫と二人鶴岡山の戦場をなんとか織田信忠と繋ぎを付けるため南の吉良見に抜け出した。
そのころ明知城への援軍として岐阜八王子神社へ陣取る織田信忠軍は、家老の明智光秀を筆頭に、付け家老池田恒興、河尻秀隆・秀長親子を始め与力の森長可、蜂屋頼隆など美濃衆・尾張衆を集めて総勢3万に膨れ上がった。
岐阜城を中心に美濃一国を預かる信忠は兵およそ15000。近江坂本城の明知光秀はおよそ1500。犬山城を本拠に、武田家の備えとして小里城を守る池田恒興はおよそ1000。同じ備えの鶴ヶ城を守る河尻秀隆・秀長親子は1000。森長可はおよそ1000。蜂屋頼隆はおよそ1000。
それ以外にも、美濃衆にはあの美濃三人衆の稲葉一鉄・安藤守就・第二次伊勢長嶋一向一揆の戦いで討ち死にした氏家卜全の嫡男・直昌。尾張衆・信長の赤母衣衆だった毛利長秀、三河刈谷城主水野忠重、信長の馬廻り団忠正、織田家累代の家臣・丹羽氏次などからも兵が掻き集められた。
絵図面を広げて明知城救援の軍議を開く信忠が右に池田恒興、左に河尻秀隆を向かい合わせて議論を展開していると、遅れて明知光秀が陣幕に入って来た。
光秀は、居並ぶ織田家の諸将を突っ切って、信忠の耳元まで行くと小声で呟いた。
「鶴岡山には山県昌景が陣取っております」
「武田の赤備え、確かか!」
信忠は、目を見開いた。
織田家の陣幕におおきな驚きの声が起こった。
光秀は、静かに頷いた。
「某に内通する武田家の者よりの確かな情報にございます」
信忠は、軍配を壊れんばかりに地面に叩きつけて、「光秀、先頃、己の謀略で勝頼と昌景を仲違いさせ、昌景を動けなくしたと申して居ったではないか!」と光秀の陣羽織を捻り上げる。
光秀は冷静に、「戦は臨機応変が常、事態は動き続けます」と言った。
信忠は、光秀を突き放すように陣羽織を離して、「勝頼は動くのか!」と問うた。
光秀は、薄笑いを浮かべて、静かに首を横に振って答えた。
「動きませぬ」
信忠は、叩きつけた軍配をもう一度拾って、「ならばよし、勝ちは固い!」と床几に座りなおした。
織田家の陣幕の裏で、光秀に繋ぎを付けた武田忍衆”三ツ者”の頭・秋山十郎兵衛が、信忠の言葉を聞き終えると姿を消した。
同じ頃、左近と松姫は、吉良見を抜け、信忠への想いを募らせ、道なき道、獣道を歩くのだった。
つづく
どうも、こんばんは星川です。
現在、2025年3月1日20:20。
ここ一週間、全力全開で活動していた(小説以外に作詞もしていた)せいか、脳がどうにも働かなくなってしまった。脳がぼんやりするから、職場で言葉選びを失敗し、女性上司に窘められた。
「小説を書く物書きなら、もっと言葉選びに慎重にならねばダメよ」
脳が疲れると、僕は明らかな特徴が出る。そう、『失言』だ。女性上司に窘められるくらい、相手の心を思いやる思考力が浅くなり、『人間失格』になる。心が浅い言葉を使ってしまうのだ。
『失言』が多いのは自覚しているから、気をつけているのだが、「仕事を休む」のをとるか、それとも「失言」はあっても出社するか。まあ、社会人として休むわけにはいかないよね。
今日は寝起きからヘロヘロで、頭が使い物にならないとは思いつつも、無理をしたのが裏目に出た。上司は頭のいい人だから、失言の切り返しのその瞬間に大事なことを教えてくれた。ボクは女性上司に恵まれている。「まあ、大目にみておいてやるか」と広い心にすくわれている。
いきなり話は変わるが、昨日、親友に会った。
「お前は知らんやろうけどな、普通の社会はみんなすぐキレる人ばっかりやぞ」
そう言って、親友は社会の常識を教えてくれる。
「へー、そうゆうもんかね」と返事しながら、心の中で『ちびまる子ちゃん』のまる子のように、「あんた、いったいどんな世界で生きてるんだい。修羅の国かい」と内心呟いた。
精神を病んでから、僕の生きる世界では、キレる人は明らかな病気で混乱している人しか見ないが、健常者の社会はそれはそれでキレ者が多い社会になったのだなと妙に納得した。もしかして、僕は世俗を離れて修行させてもらえているのかもしれない。
友人は言った。
「おれらはみんな菩薩の心を修行する身や。他力本願はあかん。すべて自力本願で、自分で行動し、自分で実践する。例え、お前のようにメンタルを病むことはあっても、それも修行の過程で、先のもっと大きな苦難を乗り越えるための“波受け”緩衝材にぐらいにとらえて生きていかなあかんぞ」
と、救いと同時に説教をされた。
いやいや、僕は50歳近くのおっさんになっても女性上司や親友のように“真の言葉”で諭したり、教えてくれるのはありがたいことだと思っている。
そして、友人はつづける。
「で、お前、芥川のハコはやってるか?」
ハコというのは、昭和生まれまでの脚本家の用語で、現在の小説界隈ではプロットのことを指す。親友がハコ作りを尋ねた理由は、ハコが書ければ、小説でもシーンの入れ替えや、結末から書いたり、クライマックスから書いたり、ミッドポイントを見定めたり俯瞰で自分の作品を見ることが出来るようになるからだ。
僕は何を隠そう勉強嫌いだ。学生時代は欠点に次ぐ欠点で、追試の常連だった。まともな勉強は専門学校で師匠に出会ってから。20歳の卒業後、「ワシと一緒に本買わへんか?」と、ハリウッドに行って映画監督になりたかった僕を騙して脚本家の道に引っ張り込んだのがきっかけだった。
師匠は言った。脚本が書けない。わからないでは映画監督には成りえない。脚本がわからないと出来てもカメラの三脚持ちが関の山だ。
しかし、脚本を学ぶ道は、血の滲むような修行がいる。天台宗の高僧が阿闍梨になるための千日回峰行のようなものだ。ボクの修業時代は、それに近いものがあった。
日中の仕事中でも、脚本のネタになるかどうかで働き、帰って日記のように振り返る。そして読み、書く。周りの人間が問題を持ち込むのも辛いが、僕の精神は、物書きの修行と周りの人間問題には耐えられた。しかし、一番信頼する人の裏切りには耐えられなかった。絶望しかなかった。発狂だ……。
50歳近くのおっさんになった現在は、やっぱり、親友が言うとおりそれも修行なんだなと感じる。まだまだ僕にはのびしろしかない。ハコも書けないし、すぐダウンするし、疲れて失言も多い。ホンマに、誰の歌だったか忘れたが、50代目前おじさんは「のびしろしかないわ!」
ちなみに、今日は、この後書きも含めて、5500字書きました。やれば、できるじゃんオレ。
〈了〉