173第二次長島侵攻 林通政の苦悩(左近のターン)
昼を回った頃に、林通政は、伊勢屋三津五郎の会合衆屋敷から出て来た。
通りに出た通政は「はあ」と気の抜けたようなため息を漏らし胃の辺りを押さえた。
それもなにも、通政と伊勢屋の交渉は、信長の望み通りに、大湊の船舶はすべて借り受けることとなったのだが、伊勢屋は条件をつけた。
「今や日の出の勢いの信長様に船をお貸しするのは構いませんが、我らは、戦のあとも商売を続けなければなりません、もしもの事に備えて、御貸しするのは、船と水夫半分だけです」
と、伊勢屋は強気の条件を出して一歩も引かない構えだ。
通政は食らいついて、交渉を信長の思い通りに重ねて見たが伊勢屋は、調子が悪い、用事がある、九曜星占いで今日は日が悪い、とのらりくらりと居留守を使い、まともな話を進めなかった。
(このまま手ぶら同然で、大殿へ報告致せば、どのようなお咎めを受けるやも知れぬこれは困ったことになった……)と顔が青ざめている。
「おや? これは御家老、林秀貞殿の御子息、通政様ではございませぬか?」
「おお、そなたは確か、明智殿に仕え、京都所司代へ出向していた渡辺某(某は「なんとか」のような使い方もする)」
「はい、明智家家臣、渡辺勘兵衛にございます。それより林様、青い顔して伊勢屋から出てこられましたが一体どうされたのですか?」
「うむ、道端では誰が話に聞き耳を立てておるか分らぬゆへ、詳しくは話せぬが、伊勢屋との交渉が難航しておるのよ」
渡辺勘兵衛こと現代の高校生時生カケルと肉体の入れ替わった嶋左近は、この生真面目で誠実そうな林通政の力になってやりたいと、おせっかいにも近くの飯屋へ入って相談に乗ることにした。
「そのような伊勢屋の態度ならば、船舶を借り受ける証文を取っておかないと、土壇場になって、そんな約束はしていないと言い出すかもしれませんぞ!」
「なんだと渡辺殿、お主は、伊勢屋がワシを謀るつもりだともうすのか!?」
「左様にございます」
左近は、林通政に詳しくは教えなかったが、前世で聞いた話で、第二次長島侵攻で織田家は敗走の憂き目に合うことを知っている。しかも、その戦いで殿軍を引き受けたのがこの林通政なのだ。左近は、みすみすこの誠実な男を戦場に散らすのは忍びないと思ったのだ。
「ならば、渡辺殿。もう一度、伊勢屋へ行って、『長島侵攻の折には織田家へ味方する』としっかりと請文にしてもらおうではないか。ご助言かたじけない」
と、言って林通政は元、来た道を、伊勢屋の会所へ向かって引き返して行った。
陽がとっぷりと傾いた。
左近は、明智家の物資調達の役目を済ますと、林通政の首尾がなんだか気になって、伊勢屋の会所の出入りが見える居酒屋へ小銭を掴ませ、その二階屋で様子を見守ることにした。
(それにしても、林殿、手間取っておるようじゃのう……おっ! 林殿が出て来たぞ)
「林殿! こちらで一緒に一杯どうです?」
左近は、居酒屋の表を通りかかった通政を、呼び止めた。
左近と通政は、酒と夕餉の支度が整うと、左近はいつものように、酒はそっちのけで、店の主人が気を利かせて膳に乗せてくれた伊勢名物の鯛のお炭付き(養殖の鯛のエサに炭を混ぜて脂肪を少なく、身の引き締まった触感に育てた養殖鯛)とどんぶり飯を搔きこんだ。
一心不乱に飯を食らう左近を通政は青い顔をしたまま酒を手酌でチビチビあおっている。
「フ~食った。食った。あれ?! 林殿、肴に全く手をつけていない食わぬのですか?」
通政は、額にシワを寄せ難しい顔をして、五臓の辺りをさすっている。
「すまぬな、渡辺殿。伊勢屋を出てから、五臓の辺りがキュッとしまって、腹は減っておるのだが、飯が喉を通らぬのだ」
「それは大変だ。ちょいと、店の主人に頼んで五臓の薬を用意させましょう」
「かまわぬ。かまわぬのだ渡辺殿。ワシは普段なら大食らいだが、今日はなんだか食が進まぬのだ。そっとしておいてくれ」
「と、言うことは林殿、伊勢屋からの証文の首尾は不調に終わったのですか?」
すると、通政は俯いて、悔しさが溢れんばかりに握り拳でドンドンと己の膝を叩いてた。
「いや、伊勢屋にはなんとか「織田家に味方する」と証文は書かせた。だが、その引き換えの物を要求されたのだ……」
「え?! 請文の代わりに金でも要求されたのでございますか?」
「いや、そんなものならワシも悩みはせず気持ちよくくれてやる。だが、伊勢屋が要求してきたのは大殿の御子息の誰か一人を船舶を貸している間、人質に寄こせとのことだった……」
「それならば、大殿にご相談して……」
と、左近が言いかけた時、通政は、手で制して、
「渡辺殿、今の大殿はそうはいかんのだ……」
と、通政は泣きそうな声を漏らした
「どういうことですか林殿?!」
「我が林家は織田家累代の家老の家でわが父、林秀貞も筆頭家老を務めておるのは知っておるな」
「はい」
「しかしの、最近の大殿は、家老の我が林家は領国、尾張の支配は任せて居るが、新領地の美濃、近江、越前、山城の支配には、佐久間、柴田、丹羽、それに、新参者のそなたの主、明智、羽柴、滝川を重用して、我ら林は重用されておらん」
「そんなことはござりませんでしょう。織田家は、尾張に林殿が居られるから後方の憂いなく前だけを見て進めるのです」
通政は首を振って、
「いいや、渡辺殿。此度、大殿が美濃から近江に拠点を動かされることは知っておるか?」
「はい、詳細まではわかりませぬが、話だけは」
「実はな、その近江の配置には、織田家の主だった家臣は皆、拝領されておるが、我が、林は近江に領地を与えられなんだ」
「なんですと!」
「此度の、長島侵攻の準備を我ら林家に任せたは、我らを振るいにかけようとする大殿の監査じゃ」
「そんなはずは?!」
「いいや、そんなはずなのじゃ。それが、おめおめと伊勢屋の船舶を借り受ける交渉で、大殿の御子息を人質に出すことになったと相談でもしようものなら、もはや我ら林家は面目丸つぶれじゃ」
「しかし、それならば、伊勢屋の証文の条件をどうするので?」
「それは、詳しくは言えぬが、ワシに一つ考えがある……」
三日後、伊勢屋の要求通り織田家から伊勢屋へ織田信長の子息が人質に入ったという。
つづく
どうも、星川です。
拙作では、京都所司代村井貞勝や、織田家筆頭家老 林秀貞の息子、通貞を取り上げてます。
華々しい戦働きがピックアップされがちな戦国時代ですが、文官には武官にはない人の駆け引きの苦悩があります。
そこを少ない資料と創作の力を借りて取り上げています。
フィクションですが、飛び抜けた力はなくとも、そこには等身大の人間がいたのかも知れません。
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