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149信長包囲網(左近のターン)

 決起した将軍家との和睦交渉を信長から命じられた京都所司代、村井貞勝は、明智家から出向している渡辺勘兵衛こと嶋左近をともに、二条城にいるであろう室町幕府十六代将軍、足利義昭へ謁見するため訪れた。


 もはや、二条城は要塞である。突貫工事で作られたこの城は、石垣に、京都市中から集められた墓石や石仏も使われた。しかし、屋根瓦には金箔も貼られ中々に絢爛豪華なものである。この城は、将軍、足利将軍の権威を示す目的よりも、実権を握る織田信長の武威を示すための城だった。


「縄張りをよう見ておけ勘兵衛。わずか、一晩で、城の周りを掘削し土堀をつくって要塞化しておるわ」


 和睦の使者として二条城へ案内された村井貞勝は、供の左近に呟いた。



「なに?! ここには公方様はおられぬだと!!」


「公方様は居られぬと、城代の三淵藤英から聞いた村井貞勝は驚きの声を上げた」


「公方様は、将軍家の威光に従わぬ織田信長を懲らしめるために、槇嶋城まきしまじょうへ入り挙兵した」


「なんですと、三淵様。いつ、織田家が将軍家の御威光にそむきましたか! 織田家は返って、公方様を補佐し、父子の交わりを結んでおったではござらぬか」


「それは、信長からの立場じゃ、公方様は臣下である信長に心を砕き、思うに任せた執政ができぬ有様であったわ」


「それが、織田家に対する挙兵の原因にござるか?」


「さようにござる」


「なんと愚かな」


「愚かじゃと!」


「愚かにござる。三好家によって傀儡かいらいにされた将軍家が、流浪の末、織田家の補佐の元、都へ舞い戻ったのです。信長様は、三好や、他の大名とは違い。織田家の威光の範囲ではありますが、将軍家へ自治を与えた。そのような寛容な大名が他にありますか!」


「ならば、信長が公方様に突きつけた”殿中御掟”はなんじゃ!」



 殿中御掟は、将軍家の実権を信長が握り、勝手に将軍が全国各地の大名へ触れを出すことを禁じた掟状である。信長の許可がなければ、すべての命令を行えないように縛ったもので、いわば、家来からの命令だ。ただ、義昭に与えられたのは、将軍として生きること。


兄、十四代将軍、足利義輝が生きている間は、将軍の兄弟は権力争いを防ぐため、武力を持たない寺へ預けられる。義昭も、兄、義輝の生前は、一条院門跡の僧侶、覚慶かくけいとして、京の庶民の暮らしへ触れて、慈悲深く、慎み深い世捨て人であった。



 それが、実権を握っていた三好家の主、三好長慶みよしながよしの突然の死によって、家中は乱れ、将軍、義輝の暗殺に始まり、家中の権力争いになる。

 義昭こと覚慶は、都を逃れ、近江(滋賀県)の六角氏、越前(福井県)の朝倉氏を頼り落ち延びた。

六角も朝倉も、仏門から復籍した義昭を伴って上洛する気はなく、明智光秀の働きによって、織田信長の元へ身を寄せるまで、上洛の願いは叶わなかった。


 実際、足利義昭は、信長の力の背景がなければ、将軍などではなく、ただの力のない男、覚慶でしかない。信長の力が、背景にあってこその将軍なのだ。


 はじめは、義昭もそれを心に刻んで、信長を父と慕い謹んで、将軍という役目をこなして、それ以上の野望を持たなかった。


 しかし、人間というものは、たとえそれが自己にとって過大な役目であっても、いつしかその役目の権力に飲み込まれ、自己を見失う。義昭は、実権はない将軍であるのに、いつしか、その実権を取り戻すことが当たり前ように感じるようになった。


 義昭は、誰に命ぜられでるでもなく、自己の足で立ちたくなったのだ。


 義昭は側近の三淵藤英と図って「信長討つべし!」


 尾張(愛知県西部)、美濃(岐阜県)、飛騨(岐阜県北端)、近江(滋賀県)、越前(福井県北部)、若狭(福井県南部)、伊勢(三重県北中部)、志摩(三重県南端)大和(奈良県)、伊賀(三重県西部)、山城(京都府)、丹波(京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部)、丹後(京都府北部)摂津(大阪府北中部、兵庫県南東部)、河内(大阪府東部)、和泉(大阪府南西部)、播磨(兵庫県南西部)。


 およそ日本の中心地京の都を囲む一七州、総石高四三三万石におよぶ国を治める織田信長を、さらに、取り囲む、


 甲斐(山梨県)、信濃(長野県)、駿河(静岡県の中央部)、西上野こうずけ(群馬県西部)、遠江・高天神城(静岡県、掛川市付近)、美濃・岩村城(岐阜県、恵那市付近)。総石高およそ一三〇万石しかし、その経済力は甲斐で算出する金山の産出量も含めると、およそ四〇万石が加算され、一七〇万石。


 西海には四国・阿波(徳島県)・上桜城うえさくらじょう城主で三好家の家臣だった篠原長房しのはらながふさおよそ、六万石。


 南海には、紀伊(和歌山県)にたむろする雑賀孫一を筆頭にまとまった戦国最新兵器、鉄砲を使う傭兵軍団・雑賀衆と、総石高六〇万石とも七〇万石ともいわれる根来寺を本拠とする根来衆。


 中国地方には、謀神ぼうしんと恐れられた毛利元就の跡を継いだ三本の矢、長男・毛利隆元の子、輝元。次男で安芸(広島県)の名門吉川家を継いだ吉川元春。三男は同じく安芸の国人領主・小早川家を引き継いだ小早川隆景。


 中国地方、安芸を毛利輝元を本陣に、山陰を吉川元春に、山陽を小早川隆景を両大将に総石高二○○万石が信長を挟み討つ。


 織田信長四三三万石、対する信長包囲網の大名、武田信玄一七〇万石、篠原長房六万石、雑賀・根来衆七〇万石、毛利二○○万石合わせて、四四六万石。時代によって石高には換算方法によって多少の違いはあるが、両方引けを取らないがっぷり四つの大戦である。


 その信長包囲網の中心に、室町幕府一六代将軍、足利義昭がいた。





 つづく





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