145動き出す影(佐近のターン)
その日は、徳兵衛の命をかけた探索によって、京都所司代による大掛かりな捕り物になった。
包囲された天の巫女一党は、渡辺勘兵衛こと嶋左近が突っ込むと、一党一〇名一人残らず、前日の間に皆殺しになっていた。その中には、「まさか、自分まで!」と、驚いたような顔で死んでいる天の巫女の姿もあった。
しかし、ここには、お初の亡骸はなかった。
捕り物を終えた左近たちは、徳兵衛の報告通りに、川の上流まで上がった。上流にはプンと腐った犬やネズミ、鹿の腐敗した死体が放り込まれていた。
「やつらは、京を治める織田家の信用を、人為的に生み出した疫病によって、市民の不安を煽り政権を転覆させようと企てておったのか、しかし、このような大掛かりな計画は、トカゲの尻尾切りに会うような小物の天の巫女一党によるものではなかろう……いったい何者によって……」
京の都を襲った疫病は、作為的に水源に放り込まれた獣の死骸から流れ出した病原菌が、川を下って、飲み水や生活用水として水を使う都の人々の口に入り感染した。しかし、この、病原菌はそれほど強いものではなく、患者のほとんどは、体の弱い年寄りや子供、その看病に当たっていた家族が多かった。
左近たちが、水源の死骸を取り除いて数日……疫病による、都の黒い影は終息をはじめた。
――京都所司代の長屋――
鷹山の太刀ノ介がすごい剣幕で、柴田勝定に掛け合っている。
「柴田様、今日で、天の巫女一党の消息を追うのが打ち切りってどういうことです!」
「いや、これは、京都所司代の村井貞勝様のご命令だ」
「まってくれよ、それじゃあ、徳兵衛が願ったお初の消息が追えなくなっちまうじゃあないか」
「いや、まあ、それは……」
と柴田勝定は口ごもった。
「気持ちは分かりますが、現在は、織田家も東に甲斐・信濃の武田、姉川の戦いで力を削いだとはいえ、浅井・朝倉も西に、摂津に石山本願寺、阿波に三好三人衆による反抗活発な三好の残党。大和には再び反旗を翻した松永久秀と敵はいくらでもおります」
と江口正吉が、織田家の戦略的目線を広げる。
鷹山の太刀ノ介は、それでも納得せず、
「オレの頭じゃ国盗りのデカい話は想像すら出来ねぇ、分かっているのは誰かによって、徳兵衛が殺されたってことだ。このままじゃオレたちの仁義が立たねぇってことだ」
「仁義って……」
それには、江口正吉も怯んだ。
「仁義ですか、それは、ヤクザの足を洗って京都所司代に仕えるようになった今のあなたたちにはもう関係ない話です。たった一人の徳兵衛の死を惜しんでいては、戦の世ではきりがありません。お忘れなさい!」
と石田佐吉がピシャリと言い放った。
これには、自分を押さえて掛け合っていた鷹山の太刀ノ介が立ち上がって、石田佐吉の襟首を捻りあげ、睨みつけた。
「やめるんだ」杏林の寛吉と、大門の哲五郎が、力尽くで鷹山の太刀ノ介を押さえつける。
石田佐吉は、襟を直して、
「事実は事実、受け入れなければなりません。今回はお大目にみますが、鷹山の太刀ノ介、今度やったら切腹ですよ!」
と、言い捨てて、部屋を出て行った。
(まったく、石田様は、理屈を優先するあまり、人の心を踏みつけにするのを厭わない。これでは仲間の信望を失うばかり、これではいずれ孤立してしまう……)
――二条城――
夜陰に紛れて、人足を集め、城の周囲を掘削し土堀を巡らし、兵糧に始まり、武器弾薬が慌ただしく荷車で運び込まれる。指揮棒を振るい陣頭指揮をとる由緒正しい将軍御側近くに仕える管領細川氏に連なる、丸に二引き両紋を付けた顔の皺も目立って来た四〇歳に手が届きそうな男。眉は細く通り、二重の目元は大きくはあるが、神経を張り巡らしているのか半眼である。鼻は高く線を引いたように鼻腔を隠している。口は左右に大きく、どこか余裕を感じさせる。
「皆の者、音を立てるな! 絶対に、織田家の者に知られてはならん!!」
「そうは、申しても細川藤孝様、このような突貫工事こそ、将軍家の力ではなく、織田様のお力をお借りするべきにはござりませぬか」
「なにもかも、織田家の力を借りて居っては将軍家のご威光は示せぬわ! 黙って、働け!! 代わりに、仕事が終わればたっぷりと、お主たちには公方様より恩賞があるそうだ。励め!!」
(しかし、兄上はいくら公方様の御威光を天下へ示すためとはいえ、織田家へ無断で城の防備を固めてなんとするつもりなのだろう……)
――二条城・大広間――
いったい何畳に及ぶのかわからない。ただひたすらに広く、下座からは台座の上の御仁の顔はうかがい知れない。
とそこへ、細川藤孝にそっくりな兄、三淵藤英が傅く装いも宮仕えのそれに倣った。お初をひきつれて、急ぎ足に廊下を伝って下座に現れた。
このだっだ広い広間に居るのは、他の臣下は出払って、台座の御仁と、三淵藤英だけである。
台座の御仁が、
「大和守よ、この城に残ったのはもはや、そなたとワシだけになったな」
「はい。公方様、あとは、公方様には槇嶋城にお移りいただき、三好三人衆と共に決起していただく算段」
「大和守よ、ワシはいくら将軍家の威光を復権するためとはいえ、あの浅井、朝倉を姉川に手打ち破り、あの比叡山をも焼き討ち皆殺しにする織田信長と事を構えるのはなんだか末恐ろしい気がするのじゃ」
「公方様、いや、足利十五代将軍、足利義昭様お心を強くお持ちなされ! 東に、決起した武田信玄は、徳川を打ち破り、今にも織田を懲らしめ上洛する勢いとのこと。我らが、この機に立ち、東西から織田を挟撃致せば、将軍家の御威光をないがしろにする織田信長をきっと討ち果たせましょう」
「しかしの大和守……」
義昭の弱気を窘めるように、三淵藤英は首を横に振り、
「公方様、今、この機を逃してはならぬのです。今は、この二条を私に任せて引き払い、来る織田信長との戦に供えて、槇嶋城へお移り下され。将軍家の行く末はこの三淵大和守藤英の脳裏にあり、万事、お任せあれ!! ささ、早うこの娘について」
義昭は、三淵藤英の剣幕に押し切られ、渋々に、
「うむ、大和守よすべて任せたぞ、ワシは、そなたを信じておるぞ」
と言い残して促されるままに、台座を下りた。