130恋路の辻、道を分けるは道祖神の導きか(カケルのターン)
大和へ帰る北庵法印の旅の共として、武田信玄の遺言を守って瀬田(滋賀県大津市)に旗を立てる旅へ出た武田家の重臣山県昌景一行は、美濃国(岐阜県)の道中入り口にあたる武田家の最後の城、岩村城城主秋山虎繁とおつやの方の夫婦に見送られて、岩村川から船で、山上(恵那市の町名)へ出で、南に進路を取り、黒瀬街道へ出で花白温泉へ進路をとった。
恵那山の麓に広がるのどかな里に、花白温泉はある。温泉には薬師如来が祀られ、その湯につかると、たちどころに病気を治すとの評判だ。時代は戦国から下って江戸時代、天明の飢饉の折、疫病に苦しむ民百姓が、花白温泉へつかって病をやり過ごした伝承もある。なかなかに、縁起正しい温泉である。
一行と共にカケルが、差し掛かると、辻の小さな祠の道祖神が気にかかった。この辻で何年も旅人を見守っているのであろう、道祖神は、苔生して、緑の袈裟を纏っている。
「山県のおじさんちょっといいかな、おれ、どうしても、あのお地蔵さんに手を合わせたくなったんだ」
それを聞いた、菅沼大膳が目を丸くして、
「ほう、道祖神に心を揺さぶられたか」
と、感嘆の声をあげた。
山県昌景は落ち着いて、
「急ぐ旅ではない。構わぬ、我らも手を合わせて参ろう」
道祖神は、なんとも柔和な顔をしていた。まるで、生まれたての赤子がホヤホヤと笑っているようである。
「この道祖神は、なんともかわいい顔をしているわね」
と、山県虎がめずらしく女らしい一面を見せた。
「おうおう、男勝りのお虎殿がどういう風の吹き回しじゃ、これは、明日は嵐になりますぞ!」
と、菅沼大膳が品性の無い言葉を発して、すぐさま、草履履きの指先をガツンと踏みつけられたのは、それ以上の説明も必要あるまい。
それにも増して、山県虎の眉間を引き攣らせたのは、やはり、北庵月代であった。
道祖神に心奪われたカケルと共鳴するように、人知れず、野辺のカスミソウを摘んで、地蔵に供えた、並んで手を合わせた。
キリッ、キリッ、キリッ!
誰の目から見ても、カケルと、月代は仲の良い若い夫婦に見えた。ただでさえ山県虎にとって月代は、カケルを取り合う恋敵だ。いや、月代はそう思っていないかもしれないが、カケルの態度をみればすぐさま好意があるのがわかる。月代はそうと知らずにお虎へカスミソウの束を持たせて、「これを左近様へ」などと、恋の助力をしてみせる。それが、余計に山県虎の勘にさわる。
しかし、お虎も女の意地。今にもあふれ出しそうな怒りを心の内に隠して、「月代殿は、気が利くのう。しかし、それは、お主が左近へ渡してやるとよい」などといってすませた。
立ち上がったカケルの胸ほどすっぽりおさまるくらいの身長しかない月代が、カスミソウの花束を渡すと、カケルの目が垂れ下がって、いくぶん、鼻の下まで下がっているようにみえる。
「左近よ、我らの旅は、織田家のどんな目が光っているやも知れぬ。道祖神へ旅の無事を祈れば、そうそうに先を急ぐぞ」
と怒り狂いそうな山県虎は、押し込むように心の底へ怒りを追いやり、絞り出すような言葉で冷静に振舞う。
「えっ、お虎さん、もう少しいいやないか」
愛おしい月代とのふれあいに、だらしないただの男と化したカケルを、
「甘えるな!!」
とピシャリと一言、お虎は、カケルの頬を張り飛ばした。
「おろ?!」
張り飛ばされたカケルが、二、三歩たじろぐと、隣にいた月代に覆いかぶさるように倒れた。顔と顔が近づいた。
お虎の嫉妬が招いた不可抗力であったとはいえ、カケルと月代の距離が縮まるのは許せない。
覆いかぶさるように片手を月代の耳の横についたカケル。ビックリして胸の前でカスミソウの花束を抱いた月代が、まるでカケルに自分もろとも花束を贈るように、
「すみませぬ」
と上目遣いに言った。
「いや、こちらこそごめんよ」
初々し二人である。
「おい、左近! 離れろ!!」
自分で突き飛ばしておいて、思わぬ不可抗力で、左近と月代をくっつけてしまったお虎は、眉を引き攣らせて目を剥いて怒鳴りつけた。
左近と、月代と、お虎の様子を黙って聞いていた年頃の娘の父親、北庵法印と山県昌景は、向き合って目を合わせて、
「山県殿、この先の旅、お互い思いやられますな」
山県昌景は、頷いて、
「左様、この年頃の娘というのは、思いを募らせるのは構わぬが、好いておるなら好いておると、正直に思いの丈をスグにぶつければよかろうものを、なんだか煩わしく胸の内に秘め、モヤモヤ、モヤモヤと、ややこしくてワシにはわからん」
「ほほほ、それは、誰より早く騎馬を駆る疾風怒濤の異名をとる山県昌景殿らしい恋の解釈じゃ。山県殿は、なにをやらせても早うござるとのお噂でありますからな」
「うむ、ワシは、作戦が決まれば、一心不乱、他の世迷言は一切省いてまっしぐらが信条じゃ。それに、お虎の母を側室に迎えた場合もそうであったわ。お虎の母は、京の都からやって来た巫女の娘での、それは美しい女であった。ワシは一目で気に入って、その晩には、お虎の母の寝所へ忍び込んで女にしたのじゃ。ワシが、迂闊であったのは、神読みの巫女というものは生娘であらねばならぬということだ。それでそのまま妻にした」
「山県殿らしい話でござりますな、若い男女がよしみを結ぶのは天の宿縁もございましょう。我らは、父御は事の推移を見守るしかありませぬな」
それを聞いた山県昌景は、口では笑いながら、目は真剣な眼差しをおくって、
「渡さぬぞ、左近はワシの婿じゃ」
それを聞いた北庵法印は、長い眉尻を一層下げて、
「それも皆、若い者の心しだい。見守りましょう」
つづく