128北庵月代(カケルのターン)
身分を隠して、武田信玄の遺言を守って瀬田へと向かう山県昌景と嶋左近一行は、美濃岩村で、大和へ帰る医師北庵法印へ話を進めると、道中警護の松倉右近から条件を出された。
「嶋左近を筒井家へお返しくだされ」
もはや、武田の赤備え、山県昌景隊にとってもなくてはならない侍大将へと成長した嶋左近こと、現代の高校生時生カケルは、その選択を迫られて思案に暮れた。
何処の馬の骨かわからぬただの大男を一目で気に入って一人前に引き立てた師、山県昌景への大恩。
すぐそばで苦楽を共にした昌景の娘、お虎との間へ芽生えはじめた仄かな恋心。
侍として踏み出したカケルの振り出しから、初めは敵として、味方として、戦場に、諜報に、調略に、寝食をともにした今や親友ともいえる一番の理解者、菅沼大膳との友情。
それらを思うとカケルは、武田を離れたくはない。
「オレは、筒井家へ行き……」
カケルが、自己の心の内を口にしようとした時、隣の部屋の襖がサッと開いて、
「父上、薬の準備が整いました」
と、聞き覚えのある女の声が聞こえた。
カケルは、その女を見るなり、すべての心のモヤが払われ、一筋の光明が射し込んだように感じた。
「北庵月代……」
そう、カケルの目の前に姿を見せたのは、戦国の小袖にこそ身を包んではいるが、幼少のころからお手て繋いで幼稚園、小学校、中学校、高校と、人生の大半を共に過ごして、やがて、心の内に芽生えた恋心を温め続けた愛しい、幼馴染み、北庵月代である。
初対面の嶋左近の肉体を纏うカケルに、突然、名を呼ばれた北庵月代は、キョトンとした顔をして、
「あら?! 父上、そちらの方は?」
「おお、これは、月代。お前はこの方々と会うのは初対面であったな。こちらは、我らがこの間まで世話になっていた武田家の重臣山県昌景殿の一行だ。それに、こちらは、嶋左近殿だ」
「嶋左近殿?! わたくしどこぞでお会い致しましたでしょうか?」
と、月代はカケルに聞き返した。
(あっ! オレはこの戦国では嶋左近であったんだ。しかし、俺の知る北庵月代に瓜二つだ)
カケルは、自分だけしか分かりえない理由を飲み込んで、取り繕うように、
「いえ、私もかつては同じ大和の国におったものゆへ、街中で、お見掛けしておったのです。機会があればかねがねよしみを通じたいと思っておったのです」
それを、聞いた山県虎が、眉を吊り上げて、
「左近、お主はこのような女子が好みなのか?」
と、噛みついた。
カケルは、あまりの瞬間湯沸かし器の如く怒りを隠さない山県虎の悋気に面食らった。
「いえ、お虎さんが思うような、そのような話ではござらぬ。ワシはただ、昔を懐かしゅうなったまでのこと」
お虎は、切れ長の跳ね上げた長いまつ毛を細めて、カケルへ一瞥くれて、
「まったく、男というものはちょっと目を離すと、お役目をわすれて、たまたま、どこぞで見かけた女子にうつつを抜かすか知れたものではない。父上からも左近に、なんとか、申して下され」
「うむ、うん」
いきなり話をふられた山県昌景も、このお虎の悋気にはどう取り繕ったものか困った顔をした。
すると、話の内容も、空気も関係なくいきなり場違いに、
ぷ~~~~ぅ。すぴすぴす~~~~ぅ。
黙って聞いていた菅沼大膳の尻から情けない声がした。
「すまぬすまぬ皆の衆。こればっかりは、出物腫物ところかまわずと申してな、ワシの一存では、どうにもならんのだ」
菅沼大膳の言葉を聞いた山県虎は、殺気を含んだ湿った声で、
「菅沼大膳、いずれお主はワタシが始末してくれん、覚えておれ!」
と、睨みつけた。
すると、菅沼大膳は、返事でもするように、
ぷすっ!
と、情けない尻の声で答えた。
それを聞いた山県昌景は、高笑いに。
「まあ許せ、お虎よ。菅沼大膳には、まったく、悪気はない。こやつはこういう男なのだ。わっはっは~~~」
「クスクス、クスクス」
お虎と、菅沼大膳のやり取りを聞いていた北庵月代が必死に、小袖の裾で口元を隠して笑いを堪えて肩を震わせている。
(まるで、チラチラと花畑を舞う蝶のようだ……これが、オレの知ってる月代だ)
カケルは、月代に目が釘付けになった。いや、一瞬ではあるが、心のすべてを奪われた。
「我慢ならん! 父上、ワタシはここで下がらせてもらいます」
カケルが、月代に心を奪われたとみて取ったお虎は、そういうと、立ち上がって、月代が開いた襖の隙間から、足音高らかに出て行った。去り際に、月代の前で立ち止まって、
「負けぬぞ!!」
言い捨てて去って行った。
月代は、お虎のいきなりの挑戦状に、何の話かさっぱりわからぬといったキョトンとした表情で見送った。
話が平行線をたどって暗礁に乗り上げたとみて取った北庵法印は、まるで、助け舟を出すように、
「山県昌景殿、松倉右近殿、瀬田までの道中はまだ数日ござれば、嶋左近殿の身の振り方は追々、道中で思案致せばよいことにござらぬか、今日は、もう夜更けと成りましたゆへ、武田家、筒井家、旅を共にする我らの親睦を深めるべく夕餉を共に囲みましょうぞ。旅は道ずれ世は情け、楽しゅう参りましょう」
と北庵法印は、女の戦いが予想される道中の課題を先延ばしひするのであった。
つづく