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【改題】嶋左近とカケルの心身転生シンギュラリティ!  作者: 星川亮司
一章 疾風! 西上作戦開始!
12/398

12カーテンの向こうの歴史(現代、左近のターン)チェック済み

「西暦1600年、石田三成を大将とする西軍10万と、後に、天下人となる徳川家康7万の東軍が美濃、今の岐阜県関ヶ原で激突した――」


 教室の校庭側の窓辺の席で、風で舞い上がる白いカーテンに頬をなでられながら、夏のカッターシャツ姿のカケルこと左近が興味津々(きょうみしんしん)に目をさらのように見開いて日本史の授業を受けている。


 左近は、自分が命を賭けて駆け抜けた戦場の決着とその背景を詳しく話す教師の解説が、悔しく歯痒(はがゆ)い。左近の味方した石田三成は敗戦の将なのだ。


 懸命に引き立てた豊臣秀吉への恩に報いようと一心不乱に、どんなに近江(おうみ)(現在の佐賀県)以来の幼馴染、


 加藤清正、

 福島正則、

 細川忠興、

 浅野幸長、

 黒田長政、

 蜂須賀家政、

 藤堂高虎、


 の武断派(※1)の七将に憎まれようとも、豊臣の為、秀吉の後継、秀頼の為に命を賭けて尽くした。

(※1朝鮮の役へ出兵した際、現場で闘った秀吉に縁の深い武将たち)


 対する、文治派(※2)と呼ばれた石田三成をはじめとする裏方の計算仕事をする

(※2政治の仕事など、戦場へ出ない)


 司法をになう浅野幸長、

 行政をになう石田三成、

 財政をになう長束正家、

 土木をになう増田長盛、

 宗教をになう前田玄以、


 五奉行が一致団結して豊臣政権を盛り立てるはずが、頭の浅野幸長が朝鮮へ出陣すると現場の激戦を知り、同じ釜の飯を食った親しみから情がわき武断派へ傾いたからさあ大変。


 豊臣から天下を奪い取る腹の内の徳川家康は、命陽炎(いのちかげろう)の病床の豊臣秀吉から、朝鮮の役の現場を任される大将なのをいいことに、本来、豊臣秀吉の親戚(しんせき)や幼い頃より秀吉と妻、おね に育てられた七将を、功績を上げれば過剰に激賞し、窮地(きゅうち)に陥れば励まし、飯をともに喰らい、心を掴んだ。


 さらに、家康は、七将の育ての(おや)、おねに取り入った。



 おねは、淀殿の傲慢無礼に心を痛めていた。信長の妹、お市の娘の淀殿は、秀吉の子、秀頼を生んだことで、気位の高い性格が、一層、増長して、正妻で子の生めなかったおねを見下すようになった。


 それだけなら、己一人の胸の内に収め我慢も出来たが、淀殿は、秀吉の出生(しゅっし)を嘲笑っていた。


 おねは、秀吉が足軽から身を起こした時から、夫を励まし支えた女である。己をいくら侮辱されようと構いやしない。ただ、夫が身を粉にして信長に尽くすした姿や、侍と縁故(えんこ)のない農民から身を起こしたことから、上役にバカにされ足蹴にされ、それでも、這いつくばって頭を下げ笑って、今日を築き上げた夫の生き様を侮辱されるのが、自分の事のように許せなかった。



 淀殿には、淀殿の言い分もあった。淀殿は、秀吉に自分の父を殺され、母を殺され、幼き日より姉妹とバラバラにされ、愛した男を奪われた。


 そして、自分の愛する者をすべてを奪った男に、抱かれ、その子を生んだのだ。淀殿には、秀吉に憎しみしかない。出来うることならぼ、秀吉からそのすべてを奪い取りたいのだ。



「このままでは、ワタシと秀吉で築いた豊臣の家の行く末が案じられる。ワタシは子供に恵まれなかったのだから淀殿に母の地位は譲ってもしかたない。けれど、豊臣の天下の存続までは譲らせない」


 この二人の女の意地とプライドの戦いを、家康は心巧みに突いて、おねに取り入り、豊臣の家を分断したのだ。



 対する石田三成は、行政をになう役から、朝鮮の役の後方支援を手詰まりなく勤めたのだが、三成は現場にいなかった。三成は、大坂から手配したが、全ての補給物資は、一端、現場監督の家康の手に委ねられのだ。


 家康は、三成の手落ちに見せかけて、わざと、朝鮮への補給を遅らせたりして、一致団結すべき幼馴染の七将と三成の絆を断ち切っていった。


 三成は、その生真面目(きまじめ)な性格も家康の分断に利用された。


 三成は、役目がら、武将の手柄を決める賞罰(しょうばつ)も担った。


 朝鮮の役は、つねに流動的で朝鮮半島を一気に攻め上がって行ったと思えば、朝鮮が、中国へ援軍を求め盛り返すといった一進一退の攻防の戦場だった。


 言うなれば、朝鮮の役は負け戦だから功績もすべて無に帰しているのだが、家康の(てのひら)で転がされた七将たちは、


「俺たちは、命をかけたのに、安全な場所でぬくぬくと俺たちをアゴで使った三成は、俺たちの手柄をなかった物にしたではないか許せない!」


 朝鮮の役で、虎狩りで有名な加藤清正など七将は大活躍するのだが、味方のふりをして豊臣家分断を狙う徳川家康は三成の責任にした補給物資の遅延などで足を引っ張り、結局、朝鮮の役は、敗戦同様の撤退と言うことになるが、三成への恨み辛みは残る……。


 どううにかこうにか、病床の秀吉に成り代わって、尾張(愛知県)以来の親友で加賀100万石の大大名にして唯一、徳川家康へ対抗できる律儀者、前田利家の取り成しもあって七将たちもおさまっていたのだが、その利家も死んだ。そうなると家康の分断計略にはまった七将たちは、撤退後、三成への憤懣(ふんまん)で爆発する。


 世に、言う ゛石田三成襲撃事件゛である。


 朝鮮の役の査定に不満のある七将が、言葉巧みに家康の術中にはまって三成の命を狙って暴発したのだ。


 三成は逃げた。逃げた。逃げた。ことがあろうに伏見(京都)家康の元へ逃げ込む。


 絶体絶命の窮地におちいった三成の味方のふりをした敵、徳川家康の(ふところ)へ飛び込む度胸と逆転の発想には驚くばかりであるのだが……。





 左近は、気を良くした戦国時代好きの教師が、脱線、脱線を重ねて、懇切丁寧に関ヶ原の戦いのいきさつまで解説したのを、苦渋を(こら)え当事者として哀しく傾聴していた。


 教師が、最近はやりの石田三成ひいきの歴史雑誌に影響されて、度胸と逆転の発想を三成の才によるものと断定したことがらが、なにをかくそうこの嶋左近が、石田三成の気が動転し、腹を切ろうとした時、


「ここで死ぬも、家康の懐へ飛び込んでから死ぬも同じ死に御座る! (おとこ)というものは、最後の一瞬まで諦めぬものに御座る!! 」


 と、殴り飛ばして三成を言い含めたのまでは、物の本にも解るまいてと、激動の戦国時代へ思いを馳せ胸踊らせる教師を微笑ましく見守る左近であった。




 つづく









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