ユークリッド・コンフリート
“左遷人事か………”
上司の前を辞して、自分の机に戻って来たユークリッドはその事実を受け入れるために軽く嘆息して眉根を寄せる。なぜかそこには行く前にはなかった筈の書類の山が築かれている。何度瞬きしても視界に入るのは机の上に山と積まれた書類束だ。
「………………………………」
それを目にした途端、ユークリッドは遠い目をする。
ー世界が変わっても人間の本質は変わらないらしいー
周囲からクスクスという笑い声が聞こえてくるのを無視しながら目の前に積まれた書類を無表情で少し押しやる。異世界に転生してまで職場イジメを経験すると思っていなかった。感情を見せると更に嫌がらせが加速するだろうと努めて冷静に椅子を引いて席に座ると横に座っていた同僚が嘲るような笑みを向けてくる。
「第5竜騎士団の副団長になられるそうですね。ご栄転おめでとうございます」
ニヤニヤとしながら話しかけてくる同僚にユークリッドは鉄仮面と評される無表情が張り付いたような顔を向ける。
「お耳が早いですね。私もつい先程聞いた所なんですが」
自分よりも爵位の低い男を見下すようにユークリッドは言い放つ。その声に一気に嘲笑が止む。“言外にあなたが首謀者ですか?”という意味はどうやら通じたらしい。その嫌みに相手の男が押し黙るのを確認して、書類に向き直る。売られた喧嘩を買う時間は惜しいが積まれた書類は処理しなければならない。そんな自分の染み付いた貧乏性は転生したとしてもそう消えるものではなかったらしい。
ーそうー
前世は日本という国で青山陽一として生きていた男は“魔法”や“魔物”といった空想の存在が存在する世界に無事転生を果たしていた。
“とりあえず、雑音は消えましたね”
隣の男が悔しげにしながらも自分の仕事に戻るのを横目にユークリッドは部署内をゆっくりと見回す。それにこちらを伺っていた面々がそそくさと身を翻して自分の仕事に戻っていく。そんな反応に嘆息しつつ、ユークリッドは書類に目を通す。今世はそれなりの家柄に生まれたお陰で現代日本よりかは衛生基準は落ちるもののそれなりの生活水準で生活をさせてもらっている。
今世での名をーユークリッド・コンフリートーという。
エルバート公国のコンフリート侯爵家の次男として生を受け、24年。生まれた時から前世の記憶があった訳ではない。ごく普通の魔術師を多く輩出する家柄に生まれ、普通の幼少期を過ごし、気づかぬうちに前世の自分としての記憶が蘇っていた。何の劇的な変化を自分は経験していない。生まれた時から記憶がなかったせいか、別に異世界の食事(主に味付け)に嫌悪感を抱くこともなかった。それでも一度、人生を経験したせいか冷めた子供時代を過ごしてしまったような気はする。そんな冷めた子供時代でも一時期は蘇った記憶で、この世界で無双や一財産作れるのではないかと思った若気の至りはあったがそれは無理だとすぐ挫折した。商会を作ればいい!や目新しい商品を作れば!という考え方で取り組んではみたがその壁の高いこと………。日本と同じクオリティで商品を作るにはこの中世チックな時代では非常に難しい。治安に類似品を探す資金。それは多少裕福な侯爵家でもその資金を賄うのは非常に難しい。その商品の材料と作り方を知っていればまだ何とかなるかもしれないが、前世スーパー店員だった自分には気が遠くなるほどの壁だった。
「………あ………誤字が………」
読み進めていた書類の中に見つけた誤字を見つけてユークリッドは手を入れる。そんな役に立たない前世知識の中で唯一役にたった知識と言えば………。
ー勉強は身を助けるー
という何ら珍しくもない教訓だけ。自分には新しいものを作り出すだけの才能も才覚もないが、勉強する事は出来る。そう気づいたユークリッドがした事は“勉強する事”だ。恵まれた事に魔術師としての才は家の基本スペックとして持ち合わせていたのでひたすらその才を伸ばした。その結果、王立魔術学園を首席で卒業する事が出来た。そんな輝かしい肩書きを手にユークリッドが就職先に選んだのは“魔術師師団”
ようやく………
ー念願の安定安心の公務員の地位ーを手にいれたのだ。
「………これも差し戻しですね………」
これでもかと不備の目立つ書類に小さくため息を溢したユークリッドは自ら作った“差し戻し箱”の中に書類を入れる。魔術師としての技量はあるがこの国にいる魔術師の総元締めである王都の魔術師師団の総務課に努めていれば争い事よりも自然事務仕事が多い。識字率が低い世界では地方からの要望書には間違った文法や誤字もある。上司に書類を提出する前にチェックする癖がついていたユークリッドが目を通すようになってから仕事の効率が非常に上がったのだ。それを誉められる事によって最初は“出来る新人”だったユークリッドの扱いは変わった。“出来る新人”から“ライバル”に昇格したのだ。それでも無駄な書類を読まなくてよくなった上司からの覚えはよく、そこまでの問題はなかったのだ。前に“今までは………”という言葉はつくが………。
「あ、コンフリート先輩~。左遷になっちゃったんですか~」
その人を小馬鹿にするような声が耳に届いた瞬間。ユークリッドの額に青筋が走る。
「ぷぷっ。しかも、あの訳あり騎士団でしょ?」
「………………………………………………」
顔を上げたユークリッドの前にいるのはこちらをニヤニヤと伺う仕事着にするには派手派手しいローブを纏った年下の少年。そして………
ー自分の名ばかりの左遷人事を作り出した人物ー
自分をニヤニヤと笑いながら見る少年を前にユークリッドは自分の周囲に絶対零度の空間が出来上がっているだろうなと嘆息する。貴族の子息でありながら、TPOを弁える常識もない少年こそ。無駄に爵位とプライドだけが高い今年の問題児後輩である。その姿を確認するとユークリッドはため息を吐きつつ、口を開く。
「ノワール君、何度も言いますが………ここは職場です。職場にあった身だしなみに気をつけて下さい」
真っ黒とは言わないが上質な生地で作った落ち着いた色合いのローブが多い中、少年のローブは髪に合わせた燃えるような赤色。しかもその縁は金色の刺繍とお前はどこの“走り屋だ!”と言わんばかりの出で立ちをしているのだ。ユークリッドの言葉に不愉快そうに眉を寄せたザガート・ノワールは尊大に言い放つ。
「何が悪いんですか?ローブは自由ですよね?」
その嫌みったらしい言葉にユークリッドは頭を抱えたくなる。今、お前の居る職場のどこにそんな“特攻服”みたいなローブを来た男が他にいるか!と怒鳴りたくなるのを押さえつける。魔術の塔では確かにローブの色にまで規定はないが、それでも全員が落ち着いた色合いのものを身に付けている。魔術師の力を補助する装身具を腕につけてはいてもそれはやはりTPOに合わせたそれなりのものでしかない。………ユークリッド自身も白銀の髪と碧い瞳を引き立たせつつも上品に見せる薄紫色のローブを身に付けている。装身具も最低限で、歩いたら音がするぐらいつけているのはこの馬鹿ぐらいだ。
“本当に今どきの若者は………”と愚痴りたくなる。
「とにかく、君には関係ありません。昨日、お願いした書類は出来上がりましたか?」
「今やってますよ。そもそも地方の力もない魔術師達の要望書を読めるようにするなんて、無駄な仕事でしょう」
与えられた仕事も満足に出来ない癖に少年はふんと吐き捨てる。その姿にユークリッドは今度こそ本当に匙を投げたくなる。許される事ならこの馬鹿の首根っこをつかんで放り投げたい。
「地方から上がってくる要望書は大切なものです。それが分からない君には他の仕事が出来るようになるとは思えませんがね」
普段なら決して買わないような喧嘩を自ら買いながらユークリッドは心の中で日本海溝よりも深いため息を吐いた。
“異動するにあたってこの問題児の引き継ぎをするのが一番の問題ですよね”
ー何時の時代もどこの世界でも 変わらないと言われる職場問題ー
それは本当に異世界に来てもなんら変わりはしなかった………
お読みいただきましてありがとうございました。誤字脱字がありましたら申し訳ありません。少しでも楽しんで頂ければ幸いです