七話 ファンタジーの剣士は斬鉄できて当然という風潮
ルーンハルトが指を鳴らすと、ロトカエルがもう一人現れ、ルピタの退路を塞いだ。
後ろには敵、前には豹変した――――いや、本性を隠していた兄。自分は負傷し、倒れている。状況は最悪だった。
騙されたという怒りや、まんまと計略にはまってしまった屈辱はなく、弄ばれた絶望と混乱があるだけだった。滲んだ涙は激痛が理由ではない。胸の痛みは刻まれた傷が理由ではない。
「ルピタ、お前は逃げ回り過ぎた。潔く里で死んでいれば良かったのだ」
冷たく言うルーンハルトの包帯に魔力が注ぎ込まれ、手の動作に従って路地裏を檻のように囲んでいく。
ルピタは包帯が見た目通りの薄さではあるが鉄の強度と鋭利さを持つ魔道具であると知っている。兄の変色して見える片目が金縛りの魔道具である事も知っている。
絶対に逃さない。
その意図が明確に読み取れた。
ルピタは倒れたまま涙をこぼすしかない。こんな時でさえ無表情は動かない。ただ、無表情から更に何かが抜け落ちたように、生気がなかった。
最初の一撃で死なかったのは、偶然足がもつれて体の軸がズレたからだ。意図して避けたのではない。
思えば、変装の名目で服と靴に詰め物をさせたのも、動きにくくして逃亡を阻害するためだったのだろう。あの手紙の修正跡も、手紙そのものに害がなかったのも、全てルピタの警戒と行動を見越した上での周到な罠だったのだ。
そこには殺意があった。
ただ武器を振り、火球を放ち、傷つけるだけものではない。
もっと深く、底知れない殺意があった。
全てが嘘だった。
「家族であった情けだ。言い残す事があれば聞こう」
ルーンハルトが蛇のように鎌首をもたげる包帯を従え、宣告した。慈悲深いようでいて何よりも残酷なその言葉を聞き、絶望と悲しみに沈んでいたルピタの頭にふと思い浮かぶ光景があった。
カースが美味しそうに粗末なパンにかぶりつく姿と、膝の上でパン屑を齧るラティ。そしてその横で粥をすする自分。
ルピタは薄く、ほんの僅かにだが、微笑んだ。
「夕食を、一緒に食べる約束をしているんです」
「何?」
ルーンハルトの冷徹な表情に、困惑が混ざった。
ルピタは震える足でゆっくり立ち上がった。胸の傷口から、鼓動に合わせて血が流れる。
靴を脱ぎ捨てる。両足でしっかり地面を踏みしめ、ルピタはそこ立っていた。
自分の意思で。
足は震えていても、心だけは力強く。
「だから、私は死ねません」
「……気が狂ったのか? まあいい、どの道逃がしはしない。『麻痺せよ』」
心底理解できない、という風にルーンハルトはため息を吐き、片目の魔道具に魔力を注ぎ呪文を唱える。瞬間、目が妖しく光り、踵を返し逃げようとしたルピタの体の自由を奪った。
再び地面に受身も取れず倒れこむ。口さえ動かなくなり、完全に動作を封じられながらも、今度は目だけが懸命に生きる道を探していた。
そこにうねる包帯が先端を捻り尖らせ、ピタリと止まって照準を定める。その先にあるのはルピタの心臓だ。
そして包帯が解き放たれる刹那、ルピタの目は包帯の檻の小さな隙間をすり抜けて飛び込んだ小さな影を見た。
「鼠牙破斬!」
「何!?」
大声で技名を叫び、鋭く研ぎ澄まされた前歯を振るって飛びかかってきたラティを、ルーンハルトは包帯を引き戻してガードした。硬質な音がして弾かれ、ラティはルピタの上に着地する。前歯を剥き出し尻尾を逆立て威嚇しながら、ラティは怒鳴った。
「早く立てこの大馬鹿者め! あれほど宿を出るなと……む、あの魔道具は。なるほど、あれなら内臓までは止まっていないはずだ、深く呼吸をして意識を保っていろ」
「喋る鼠だと? 魔物、ではないな。何者だ?」
「私はラティ。ルピタの……友だ」
答えを聞き、ルーンハルトは冷笑を浮かべた。
「畜生の友には畜生が似合いだな。低底同士傷でも舐め合っていたか? 邪魔をするというならお前も殺すぞ。死にたくなければ引いておけ。我々にはそれを殺さなければならない理由がある」
「くだらん。貴様らの人為淘汰に一体どれほどの意味がある? ルピタを殺し、それでどうなるというのだ? 美味い飯でも食ってさっさと里に帰れ」
「……やれやれ、気狂いの戯言は理解できん」
「ああ、貴様には一生理解できないだろう。世の中には理屈を超えて感情で動く、喜ばしい馬鹿がいる事を」
その言葉と同時に、包帯の結界の外から悲鳴が上がった。何事かとルーンハルトが目を向けると、次の瞬間包帯の檻の一角が切り裂かれ、一人の青年が飛び込んできた。
「遅いぞカース」
言葉と裏腹にほっとした声音を出し、ラティは素早くカースの服をよじ登り、胸ポケットに潜り込む。
退路を塞いでいたロトカエルを走り込んだ勢いを利用して強かに蹴飛ばしてきたカースは、警戒するルーンハルトに油断なく剣を向けながら聞く。
「ルピタは?」
「生きている。奴の魔道具で麻痺しているだけだ。あの魔道具は一体しか対象にとれない」
つまり、ルピタが麻痺している限り、カースは麻痺を受けない。
そしてロトカエルはルピタ殺害が最優先だ。カースに麻痺の対象を移してルピタを自由にさせ、逃がすリスクを負う事は無いだろう。
逆に、カースが牽制している間にルピタが逃げる事もできない。
ちなみに壊力嵐迅状態で奇襲気味に背中から蹴り飛ばされたロトカエルは、体を曲がってはいけない方向に曲げて痙攣している。
ひとまずルピタの無事にほっとしたカースが軽口を叩く。
「それにしても『鼠牙破斬!』は恥ずかしくないか?」
「うるさい。聞こえれば何でもいいだろう」
ルーンハルトはそこでラティがわざわざ大声で技名を叫びカースを呼び寄せた事に気づき、この場にいる全員を手早く始末する事にした。
更に援軍が来る可能性があると考えたのだ。
しかし早期決着はカースにとっても望むところだった。カースに援軍などない。逆にロトカエルに援軍が来るのが最もまずい。
時間をかけられない。両者の思惑が一致し、激しい戦闘が始まった。
包帯の結界を解除したルーンハルトは、包帯を一瞬にして収束させ太く長い槍を形成。水平になぎ払う。それをカースは剣の腹に手を当てて盾代わりに使い、受け止めた。衝撃が体の芯まで響き、あまりの威力に踏ん張った足元の地面が陥没する。
「ん゛ん゛ん゛、どっせい!」
壊力嵐迅の増強性能は伊達ではない。気合一声、カースは小型馬車程度なら軽く横転させる威力の包帯槍を受けきり、押し返す。
そのまま突きの構えを取り、神速の踏み込みでルーンハルトに肉薄しようとする。
しかし敵もさるもの。変幻自在の包帯は槍の形を崩し、針山のように姿を変えて横からカースを強襲した。カースはまたこれを受ける。嵐のような怒涛の刺突を全て正確に見切り、最小限の動きで最大限に効率よく防ぎ、断ち切り、受け流す。連続する金属音が荒々しい音楽のように鳴り響いた。
音の余韻が消えない内に再びカースがルーンハルトに近づこうとするが、今度は包帯が厚く編み込まれ壁のようになり、それを叩きつけられた。受け止めようと手を出した瞬間に包帯の壁から棘が生えたため、素早く引っ込め剣で切り払う。そのまま剣の柄で強打し、押し返した。
ルーンハルトの攻撃は大ぶりだったが、全てルピタを巻き込むような軌道をとっている。カースが回避すれば、ルピタに当たる。故に、全て受け止め、捌ききるしかなかった。
「怪物め!」
ルーンハルトは忌々しげにカースを睨んだ。
牛を投げとばす怪力、撃たれた矢を掴み取る反応速度。壊力嵐迅は魔法じみた身体能力を発揮させる。魔物との戦いで培われた豊富な戦闘経験もある。
しかし、ルーンハルトはそれに渡り合っている。射程範囲威力の三拍子揃った変幻自在の魔道具と、それを行使する莫大な魔力。
カースに言わせれば、ルーンハルトの方がよほど怪物だった。麻痺を併用されれば手も足も出ないだろう。
ルピタを抱えてさっさと逃げて一杯やりたいところだが、人一人担いで逃走できるほど攻め手はぬるくない。
鋼の硬度を持つ包帯と剣がぶつかるたびに火花が散り、剣戟が踊る。
棘付鉄球を投げられたカースは鉄球かわしながら踏み込み、鉄球についた鎖を掴んで投げ返す。投げ返された鉄球は空中で解け、慣性を失い包帯に戻る。その隙にカースは全力でルーンハルトに向かって駆けるが、地面を這う包帯の波を目にして反射的に跳んだ。コンマ数秒遅れて包帯が槍衾と化す。
走り込んだ勢いをそのままに壁を蹴り、斜め上から強襲するも、包帯を束ねた巨大ハンマーで叩き返された。
「ぐ……」
ルピタの横まで弾き飛ばされ、猫のように着地したカースは叩かれた肩を抑えて顔をしかめた。鈍い痛みに骨にヒビが入ったのではないかと不安になる。
壊力嵐迅は防御力までは上げてくれない。じわじわとカースの体にはダメージが蓄積されていた。斬鉄を繰り返した剣も刃こぼれが出始めていた。
しかし、成果もあった。
路地裏に散乱した包帯の切れ端は多く、戦闘開始直後より明らかにルーンハルトが操る包帯の量は減っている。このまま押して押しきれない事はない、が……
カースはちらりと散らばった包帯に目を向けた。力を失ったように見えるが、本当にそうだろうか。切り離された風を装ってバラまき、一斉に攻撃を仕掛ける隙を伺っているとしたら?
負けているフリをして仕込みをするのは戦闘における常套手段だ。実際にそんな相手と戦った事はないが、漫画や小説の世界にはよくいた。漫画や小説が現実になったようなこの世界で、なぜそんな相手がいないと言えるだろう?
躊躇して動きが止まりかけると、心を読んだようにタイミングよく胸元のラティが言った。
「本体から離れた切れ端は無力化する。修復は可能だが、戦闘中にできるものではない」
「なるほど。つまり?」
「攻めろ」
「OK!」
カースは視界いっぱいに広がる振り下ろされた巨大メイスを蹴り上げながら、剣を握り直した。
両者とも相手に援軍が無いのは分かっていた。援軍が来るのならばもっと温存した戦い方をするだろう。
包帯を削りきるが早いか、カースの体が限界を迎えるが早いか、勝負だ。
幾度とないぶつかり合いで、天秤は少しずつルーンハルトに傾いていった。
武器を使い捨てられるかどうかの差。遠・中距離攻撃手段の有無の差。体力消耗の差。そして何よりも、背後に守らなければならない者がいるかの差が大きかった。
ルーンハルトは自分を守ればいいが、カースは自分とルピタを守らなければならないのだ。単純に負担は二倍である。それでも食らいついていたのはカースの地力の高さと実戦経験の豊富さ故だった。
残りの包帯の量。曲がった剣、折れた右腕。消耗した体力。
それらを考え、カースは自問する。
勝てるか?
そして自答した。
分からない。が、人を殺して食べる飯は不味そうだ。
宿屋でルピタの置き手紙を見つけた時、カースはルピタが間違いなく殺されると思った。
友人を見殺しにして食う飯はきっと汚物より不味い。それだけで、カースはこうしてルピタの為に命を張っている。
しかしここに来て余計な自問自答を挟んでしまった。カースはメシウマ原理主義者である。相手が家族を騙し手にかけるド畜生でも、人の形をして、人の言葉を喋っている事に違いはない。殺して、それで美味い飯を食えるのか? 殺して良かったと、笑って酒の肴にできるのか? その想像はカースの手を一瞬止めた。
その隙を、ルーンハルトは見逃さなかった。
足元からバレないようにゆっくりと地中を進ませていた包帯を鋭く尖らせ、打ち出したのだ。それは本来ルピタを狙うための布石であったが、カースの相手に意識を割かれ過ぎて思うように進ませられなかったため、より近いカースに狙いを定めた。カースが倒れれば後はどうとでも料理できる。ルピタを狙おうがカースを狙おうが、結局は同じ事だ。
真下から鋭角に襲いかかった攻撃をカースは避けようとしたが、ほんの一瞬の遅れが仇となった。
カースは、包帯の槍に心臓を貫かれた。
「カース!?」
ラティが悲鳴を上げる。
驚愕に目を見開くカースと確かな手応えに、ルーンハルトはようやく力を抜いた。
ヒトをベースに遺伝子レベルで改造された魔族は、先天的疾患や微妙な不具合が多く、繊細なバランスの下に成り立っている壊力嵐迅を使えない。
だからルーンハルトは壊力嵐迅を使えないし、話には聞いていても、実際にそれを使う相手との戦いははじめてだった。生身で、しかも十六、七ほどの若さで魔道具と正面から対抗してみせるなど、人間業とは思えない。少し気を緩めれば一瞬で近づかれ叩き潰されるであろうその驚異に、終始神経を張り詰めさせていた。
勝てて良かった、というのが本音だ。自分達の問題に巻き込んでこうなってしまった事には些か気が咎めるが、大罪人を庇ったのだから致し方ない。
ルーンハルトは包帯をカースから引き抜き、改めてルピタを殺すべく、歩を進めた。
しかし魔道具については知っていても、人体に詳しくないルーンハルトは知らなかった。
人間は心臓を貫かれても即死する訳ではない。
血液のポンプが止まっても、命令を送る脳が、細胞にエネルギーがあれば、数秒は動く事ができる。
今度はルーンハルトが油断の報いを受ける番だった。
「おおおおおおおおッ!」
「なん――――」
胸の大穴から血を噴き出させながらカースが振るった剣は、ルーンハルトの頭部を正確に捉え、ねじ切るようにもぎ取った。
それを見届けない内に、カースの体から急速に力が抜けていく。
「悪い、後はなんとかしてくれ」
カースは普通の声で言ったつもりだったが、囁くほどの音しか出なかった。正真正銘、体に残された最後の力を振り絞ったのだ。
そしてカースは倒れ、ぴくりとも動かなくなった。
ルピタは全て見ていた。
自分を助けに来てくれたカースの勇姿も、その奮闘も。
カースが心臓を貫かれ、最後の一撃の後に倒れ伏すのも。
「カース……!」
ルピタも負傷しているが、カースほどではない。歩ける、動ける、喋る事だってできる。
しかしカースはどうだ? もう二度と目を開ける事すらない――――
絶望に目の前が暗くなっていくルピタを、ラティの焦りを帯びた甲高い声が現実に引っ張り上げた。
「ルピタ、動けるな!? カースを背負って宿借り亭へ急げ! まだ間に合う!」
「え」
「早くッ!」
言われるまま、ルピタはカースを背負った。男一人の体重が傷に響いたが、ラティの言葉がルピタを支えた。
カースの重さにほとんど潰されそうになりながら、よろよろと、しかし全速力で宿借り亭へ走る。
そこまで離れていた訳ではなかったため、じれったい帰還は妨害もなくすぐに成し遂げられた。宿に入り、驚く他の客を無視してラティの指示で二階のカースの部屋に倒れこむように入った。
カースをベッドに寝かせたのを確認すると、ラティは部屋をちょろちょろと駆け回り、布切れやハサミを集めながら言った。
「自分の怪我の応急処置をしながら聞け。カースは今延命中だ。すぐには死なないが、放っておけば死ぬ。胸元を見てみろ」
歯で自分の服を割いて包帯を作っていたルピタがカースの胸元を見ると、切り裂かれ赤く染まったたシャツの間に、先端が奇妙に引き伸ばされ涙型に変形した懐中時計があるのが見えた。時計の針は止まっている。
「これは?」
「先延ばし時計。自分の時間を止める魔道具だ。正確には肉体のあらゆる変化を限りなく遅くしているのだが、実質的な自己限定時間停止だと思っておけば良い」
ルピタは息を飲んだ。時間停止。ロトカエルの里でもあるか分からないほどの魔道具だ。
確かに言葉通り、カースの傷口から溢れようとしている血は重力に逆らって停止していた。
「こんなもの、どうやって?」
「これは効果が五時間しか継続しない。しかも使い捨てだ。買えないほどではない。高かったが。それは今はどうでも良い、問題はこの五時間でカースを救わなければならない、という事だ」
「ヴァインさんを頼れば」
「ヴァインはあれで金遣いが荒い。というより故郷に過剰に仕送りをしているのだが、とにかく奴に致命傷をどうにかする金はないし、回復道具もない」
「て、亭主さんは」
「彼は中立だ。宿の居心地は絶対に保証してくれるが、それ以上はしてくれない。それに不運だが今は留守にしているようだ。いいか、ルピタ」
小さな桶の取っ手に尻尾を巻きつけて引きずってきたラティは、傷口を雑に包帯で止血したルピタに言った。
「五時間以内にお前の二つある心臓――――魔導炉の一つを、カースに移植する。今こそ命の恩を返せ」