六話 無表情で表情アイコンを連発する系少女ルピタ
ルピタがカースに助けられ、二週間が経った。老人以降、宿借り亭に襲撃者はない。
もっとも彼らはルピタを諦めた訳ではなく、宿借り亭の周辺をうろついているロトカエルの姿は多い。ただし全員宿借り亭の前を通り過ぎたり、地図と宿借り亭を焦点のズレた目で見比べて首を傾げていたり、宿借り亭から五歩の位置で通行人に宿借り亭の場所を聞いたりしている。
カースも地図を手に宿借り亭の場所を尋ねられたため、笑顔で街の反対側を教え、親切にも地図を書き換えた。
なぜかロトカエル達は宿借り亭を認識できていない。間違いなく宿借り亭亭主の仕業であるが、誰も深く考えない。考えても分からない不思議な事が世の中にはあるのだ。
ルピタの仕事はまずまずの滑り出しで、家具屋の親方からの紹介で、細工師の奥方の依頼も成し遂げた。実際は他にも二件の仕事があったのだが、ラティのこれはルピタの手には負えないだろう、という判断で請けていない。
ラティの目と知識は確かで、ルピタが修理中に悩むたびに的確なアドバイスを与えている。ルピタは一体ラティがどこで知識を得たのか、そもそもなぜネズミが喋っているのか疑問に思っているが、言いたくなさそうな雰囲気を察して黙っている。
ルピタは自分の表情が硬い事を自覚し、黙っていれば内心を悟られる事はないと自負している。そのためカースが出会って数日で自分の内心を読み取るようになった事に驚き、驚いている事も読まれてまた驚いた。カース曰く「雰囲気が素直過ぎる」らしいが、ルピタの両親や兄でさえ無表情の下を見透かす事はできなかったのだから、これはカースが特別ルピタと相性が良いという事なのだろう。
ルピタも命の恩を抜きにしてもカースを好ましく思っている。カースは本当に美味しそうに物を食べる。食べているのを見ているだけで嬉しくなり、一緒に食べればさらに楽しい。
いきなり心に踏み込んでくるような事をせず、適度な距離感で助けてくれる事も、身近な家族や友人に突然命を狙われるようになり、精神的に疲弊していたルピタには有り難かった。
近寄って抱きしめるだけが思いやりではない。距離をとって見守り、自分の足で立ち上がる手助けをしてくれるカースの気遣いをルピタは身に染みて感じていた。
そんなルピタの一日は日の出前に始まる。朝一番に良い魔物情報を手に入れるために早起きするカースに合わせている内に、ルピタも自然と空が白む頃に目覚めるようになった。身だしなみを整え、頭巾を頭に巻く。ルピタの髪は二週間の内に伸びていたが、年頃の少女にとってはまだまだ見せられる長さではない。頭巾は欠かせなかった。
二人と一匹で食卓を囲む楽しいひと時を過ごし、カースが仕事に出かけると、ルピタは早速カースの部屋の掃除を始める。
埃を払い換気してゴミを出し、服を洗濯し、毛布と一緒に干す。穴が開いたり破れたりしている服があれば、自費を出してラティに買ってきてもらった裁縫道具で繕う。一通り終わったら自分の部屋も掃除し、一階に降りてまばらな宿泊客の雑談に耳を傾ける。
ロトカエルしかいない閉鎖的な里で育ったルピタは街の常識に疎い。教養として幾らか習ってはいるが、十分とは言えなかった。もしもっと街の常識――――門番に金を掴ませて街に入った事を黙っていてもらったり、財布をポケットに入れず懐深くにしまう事を覚えていれば、追跡はマシなものになっていただろうし、髪を売って得た金をその日の内にスられる事もなかっただろう。そういった常識や心構えを、外に出られないため、雑談から学んでいた。
その知識はこれから生きていく中で確かな力になるし、カースの役に立つ事にも繋がる。
ラティから自分に使われた回復薬の値段を聞かされたルピタは唖然とした。見ず知らずの行き倒れに気軽に使う金額ではなかった。ではカースは裕福なのかとも思えばそうではない。回復薬はカースの半年の収入と大体同額だった。カースは中堅の魔物ハンターで、平均的な成人男性の軽く倍は稼いでいる。
食事に散財しがちな相方にその金額を貯金させるまでの苦労話を恩着せがましく語られたルピタは、多いとは言えない自分の収入を可能な限り返済に充てる事にした。命の恩は返しきれるものではないが、金なら返せるのだ。大金ではあっても、返済に一生かかる金額ではない。
だからコツコツと返していく。金を返し、細かなところでカースを支えて恩を返す。それが自分のためでもある。
その日も、ルピタは宿借り亭一階の端で客の雑談に耳を傾けていた。いけ好かない金持ちから警備をすり抜けて家宝の魔道具を盗んだ武勇伝を聞きながら、視線は厨房で仕込みをしている亭主の手元に注ぐ。
ルピタの恩人は食べる事が大好きだ。ルピタもあの命の味がする粥を食べてからは、以前よりも食べる事が尊く、素晴らしいものだと感じるようになっている。カースは質素で味気ないパンでも美味しそうに食べるが、できれば元から美味しい料理が好きなのは一般人と変わらない。
カースには美味しい料理を食べてもらいたかった。そしてそれが自分が作ったものなら、言うことはない。だから、食事中も具材や味に注意して食べ、調理手順をよく観察し、味を盗む事に余念がない。亭主の作る料理はロトカエルの里の貴賓館で出される料理に勝るとも劣らなかった。
ちなみに亭主への料理の弟子入りはすげなく断られている。
武勇伝が足をトラバサミに噛まれ私兵が近づいてくる佳境に入り、亭主が川魚を鮮やかな手さばきで三枚におろし始めた時、宿の入口が開いた。
少し早いがカースが帰ってきたのかとルピタは腰を浮かせる。しかし入ってきたのがカースが兄貴と慕うヴァインだと分かり、会釈だけして腰掛け直した。
しかしヴァインはルピタに目を留めると、真っ直ぐ近づいてきた。
ルピタは何か御用でしょうかカースなら魔物狩りに出かけていますが、という礼儀正しい無表情で見上げたが、ヴァインには伝わらなかったらしい。咳払いして手に持った封筒を差し出した。
「ルピタ、君に手紙だ。ルーンハルト=ルフェインから手紙を預かってきた」
「兄さんから?」
ルピタは無意識に体を強ばらせた。優しかった両親も、どんな時も味方だと言ってくれていた祖母も、ルピタが異常を持っていると分かった途端に穢らわしい汚物を見るような目で殺そうとしてきた。兄は異常が発覚した時に里の外を旅していたため会っていないが、自分に好意的だとはとても思えなかった。
血濡れの凶器を向けられたかのように手紙を前に身構えるルピタに、ヴァインは気楽に言った。
「依頼人の立ち会いと許可の下で俺が中を検めてある。魔法はかかっていないし、毒薬が塗られていたり爆発物が入っていたりしない事は確認済みだ」
「……どうして」
意味もなく漏れた言葉に、ヴァインは肩を竦める。
「俺は手紙を届けるように頼まれただけだ。事情は知らんが、やっこさん俺がルピタと同じ宿に泊まってるって突き止めたらしいな。俺はただの配達役だから、受け取った後で読もうが破ろうが捨てようが燃やそうが関知しない。ま、不安ならカースかラティに相談するといい」
ヴァインは手紙をルピタの前に置き、手をひらひら振ると、階段を登っていなくなった。
ルピタは置かれた手紙をじっと見る。
読むべきか、読まざるべきか。
手をさまよわせる。
中身が良い内容であるはずがない。
しかし、もしかしたら、兄は、兄だけは自分の味方なのかも知れない。
そう。自分はまだ、あれから兄に会っていない。幼い頃、一緒に遊んでくれた思い出。足を怪我をした時、家まで背負ってくれた大きな背中。
しかし、同じように信じていた家族には裏切られた。兄だけは違うとどうして言えるのか。
でも。
いや。
もしかしたら。
しかし。
まさか。
たっぷり一時間は迷ったルピタは、結局、意を決して手紙を開いた。
「…………」
瞑っていた目を恐る恐る開き、書かれている文字を追う。
見慣れた兄の筆跡は、見慣れた文体で、自分を心配し、気遣う言葉が書かれていた。
自分はルピタの味方である事。
助けるのが遅れて申し訳なく思っている事。
安全な隠れ家を用意してある事。
一度会って状況を把握したい事。
そして、ルピタが許すなら、と、落ち合う場所と日時が書かれていた。
ルーンハルトは一人でルピタを追う能力が無いため、他のルピタ追跡者達の仲間のフリをしてやってきているらしい。ルーンハルトが追跡者の目を誤魔化し、またルピタが追跡者に見つからないようにするため、細かく落ち合う場所と日時、移動方法、格好、注意事項が書かれていた。
手紙の内容は合理的で納得できるものであったし、ルピタへの思いやりや気遣いに溢れていた。
ルピタは思わず泣きそうになり、しかし嫌な考えが頭を過ぎる。
この手紙が自分を釣り出すための罠だとしたら?
宿屋に篭っている限り、追跡者は自分に手出しできない。穴蔵から誘い出すために、兄は肉親の情に訴えてきた――――
それは悪魔的な手段だ。ルピタは身震いし、そんな薄汚い想像をしてしまった自分が恐ろしくなる。
あんなに優しい兄が、両親よりも近しく育った兄が、自分を陥れるためにここまでするか? ただの被害妄想なのではないか?
手紙の内容を、兄を信じたい。
同時に、信じていた他のロトカエルに手酷い裏切りを受けた思い出がルピタを苛む。
「…………。……………………?」
手紙を凝視して苦悩するルピタは、ふと手紙が随分とよれている事に気付いた。
自分は強く握り締めた訳ではないし、ヴァインは配達物を雑に扱うような性格をしていない。
よく見れば、手紙は何度も書き直した跡があった。窓からの光にかざしてみると、消された文字の跡が途切れ途切れに拾い読みできた。
母が追跡者の増援を里長に要請した事。
ルピタが追跡者の一人を負傷させた罪で、捕まった後の拷問が決められた事。
そして、ルーンハルトもまた、ルピタが自分を信じてくれるのか不安に思っている。
そんな内容が書かれ、消されていた。
「あ――――」
改めて読み返してみれば、それは酷く繊細な手紙だった。将来への不安、家族への不信。そういったものに触れないよう、少しでも傷ついた心の慰めになるよう、心を尽くして言葉を選んであるのが分かった。
それを読み取った時、ルピタの心から疑いの霧が晴れた。
妹が兄を信じられるか不安に思っているのと同じように、兄もまた妹が信じてくれるか不安に思っている。ルピタはそう理解した。
兄妹が逆の立場でも、ルピタは兄にきっと同じようにしただろう。胸に温かさが溢れる。
手紙に記された場所と日時を確認すると、もう一時間も猶予が無かった。急な予定ではあるが、手紙の到着から落ち合うまでにあまり間を開けると不測の事態が介在しやすくなる。新鮮な情報と状況を元にした迅速な行動は確かに重要だ。
そしてこれほど短い予定を設定したという事は、ルーンハルトはルピタがすぐに手紙を読み、来てくれると信じていたという事でもある。
もう迷いは無い。外出準備をするために、急いで自室に向かった。
宿を出る時亭主にカースへの言付けを残そうと思ったが、見当たらなかったので置き手紙だけを残しておいた。
移動時間も含めると、待ち合わせにギリギリだ。フードでしっかり頭を隠し、服に詰め物をして体型を誤魔化し、靴の踵に布を詰めて身長をかさ上げし、指定の場所へ向かった。魔力で個人を識別できるロトカエルに変装は無意味だが、ルーンハルト曰く、足取りが消えたルピタに業を煮やし、追跡者達は顔写真と特徴を書いた手配書を配って一般人からも情報を募っているという。ロトカエルには無意味な変装でも、一般人なら誤魔化せる。
周囲に目を配りながら、不自然に見えない程度に急いで待ち合わせ場所に到着する。人目につかない、狭く込み入った路地裏だ。
そこには銀髪にオッドアイ、腕に包帯を巻いたロトカエルがいた。ルピタの兄、ルーンハルトだ。
「兄さん……!」
「ルピタ」
ルピタが囁くような小声で、しかし喜びを滲ませ言うと、ルーンハルトも微笑んでそれに答えた。
「生きていたんだな。情報が完全に追えなくなったから、もう死んでいるのかと思ったよ」
「心配をおかけしました」
「いや、全く構わない。ルピタは一人か? 尾行されていたり、誰か連れてきたりは?」
「いいえ、一人です」
「そうか。良かった」
ルーンハルトは安心したように息を吐くと、おいで、と言って両手を広げた。ルピタは我慢できなくなって兄に駆け寄り、
独りでにほどけ、刃のように振るわれた包帯に袈裟懸けに斬り払われた。
「本当に良かった――――やっとお前を始末できる」
崩れ落ちるルピタは、悪魔のように冷笑する兄を呆然と見上げた。