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selection.08 ミルのいない一日(前編)

「ぷるひゅるー……しゅかー……」


 いびきである。


 その日、厳選王子ラグラのいびきは、彼がいつもぐっすりと眠る寝室からではなく、大きく設けられた書斎の執務机から聞こえるものであった。彼がその上半身を投げ出した机の上には、無数の紙が乱雑に放られている。ラグラは自らの腕を枕に、しばしの間、こうして寝息を立てていた。


 ので、ある、が、


「ぷるひゅるー……しゅかー……。ぷるひゅる……ん……?」


 しばし後、すなわち、後ろのカーテンから朝日が差し込む時間帯になると、ラグラは健康的に目を覚ます。ごしごしと目をこすりながら、上体を起こす。薄暗い室内に人影はなく……、いや、書斎の片隅、本棚にもたれかかるようにして眠っているのはフィリシスだろうか。彼女の腕に抱かれたノイズラプターのノイノイが、耳を畳んでその頬をぺちぺち叩いている。フィリシスとノイノイには、上から毛布が掛けられていた。彼女の前には大量のセミの抜け殻が並べられている。


 そうか。眠ってしまっていたのか。


 大きく欠伸をしながら、改めてそう思う。

 昨晩は、ダンジョンから掻き集めてきた苔の検証で、ずうっと机に向かいっぱなしだった。食堂で夕食を摂らなかったのも、ベッドで睡眠を摂らなかったのも、果たしていつ振りだろうか。おかげで肩が凝った。


 暇なプラチナランカーを大量召集しての、苔の大捜索。結局のところ、成果はほぼ挙げられなかった。フィリシスがセミの抜け殻しか拾ってこなかったのもあるが、苔型魔導書自体が、大して見つからなかったのだ。発生率が低いのか、探し方にコツがあるのか、そもそも発生条件が特殊なのか。あらゆる可能性が考えられ、そこにもまた検証の余地がある。

 当分は、ダンジョンと書斎の往復になりそうだった。まぁ、それも悪くはない。


 その時、ラグラの肩からずるりと毛布が落ちる。昨晩、ミルがかけてくれたものであろうか。まったく、気の利くメイドである。

 いつもの朝だと、ミルが優しく起こしてくれたりするものだが、今日は珍しく自分で起きてしまった。そろそろ腹も減ってきたところである。


「おーい、ミルー」


 ラグラは机の上の書類を眺めながら、メイドの名を呼ぶ。


 が、


「………」


 返事がない。


「なん、だと……」


 ラグラは掠れた声で呟いた。


「ミル! おーい、ミル! 腹が減ったぞ! ミル、朝飯はまだか!? ミルゥゥー!!」


 だが、いくら呼べど叫べど、あの最強のメイドがラグラの前に駆けつけることはなかった。


 おかしい、と思うと同時に、ラグラはハッとした。書斎の片隅に掛けられたカレンダーを見、そして気づく。厳選王子ラグラの顔が、みるみるうちに青くなっていった。


「し、しまったあああああああ!!」

「うぅー……ん」


 ラグラのやかましい独り言を耳にして、フィリシスも目を覚ます。


「なによー。うるさいわねー。どうかしたのラグラ」

「大変だ……。大変だぞフィリシス……。すっかり忘れていた。どうかしてしまうかもしれん……」

「なになに?」


 フィリシスは片腕でノイノイを抱いたまま、眠そうに目を擦る。一方のラグラは、眠気など完全に吹き飛んでしまっていた。顔面蒼白といった勢いで、ダラダラと汗を垂らしている。ぎち、ぎちとロボットのようなムーブでその顔をフィリシスに向けると、彼は泣き笑いのような表情になって言った。


「今日は俺が、一ヶ月で一番恐れている日だ……。まさかこのタイミングできてしまうとは……迂闊だった。すっかり忘れていた……」

「何よ。今日は何だって言うのよ」


 フィリシスの問いに対して、ラグラはたっぷりと溜めを作る。しかしやがて意をけっしたようにこう言った。


「今日はミルの公休日なんだ」





 帝国東部の領地、ゼルシア自治領。


 冒険者ギルドの総本部がある、冒険者達の総本山だ。総本部長のノルンバッカー氏は自治領長も兼任し、総督府の権威もほぼ及ばない。自治領とは言いつつも、事実上の独立国のような扱いとなってなっている。

 そのゼルシア自治領の一角にある冒険者御用達レストラン〝白鴉亭ピュア・レイヴン〟に、彼女はやってきた。


「はーい、いらっしゃいませー! ようこそ……あら、ミルアルアじゃない!」


 店の看板娘であるアイシャが、笑顔で出迎える。


「久しぶりねー。今日、休み?」

「うん。とりあえず、なにか適当に食べ物と飲み物」

「わかったわー。ごめんね、今忙しくって! ちょっと好きな席で休んでて!」

「ん」


 ミルアルアはキャリーケースをがたがたと引きずり店内に入ると、カウンターにほど近い一人用席に腰掛けると、足を組んで読みかけのミステリー小説を取り出した。

 ミルアルア・リアは、月に一度、こうして故郷の街を訪れる。冒険者時代の顔なじみの店で丸一日、溜め込んだミステリー小説を読み潰して過ごすのが、月に一度の贅沢である。ゼルシア史上最強の冒険者と呼ばれたのはもう随分昔の話であって、今の彼女は、大陸北端部の辺境にある城で働く、しがないメイドだ。


 それでも、こうしてゼルシアのレストランで食事をとっていると、


「あの、ミルアルアさんですよね……!?」

「ん……」

「あの、10歳で大海のダゴンをソロ討伐し、プラチナランクに上がったっていう! オレ、ずっとあなたに憧れていたんです!」


 このように、声をかけられることもある。


 すでに、ある程度の場数を踏んでいると思しいその冒険者は、やや興奮した面持ちでミルアルアの席の前に立っている。顔をあげると、彼の肩越しにちょうど、アイシャが皿とジョッキを持って出てくるのが見えた。


「あの、もし良かったら、このあと一緒にクエストを……」

「今日は休みだから」

「あ、そ、そうですか……」


 冒険者はあからさまに肩を落とし、がっくりと去っていく。ミルアルアはそのまま手元の小説に視線をおろすが、アイシャは去っていく冒険者の背中をじっと見送りながら、テーブルの上に運んできた皿を置いた。


「まだ結構いるのよねー。ミルアルアのファン」

「もう12年前だし、活動期間も短かったけどね」

「それだけ伝説的ってことよ。打ち立てた偉業だってひとつやふたつじゃないんだし」

「そういうのは良いよ。で、これ何?」


 白い皿の上には、網状の焦げ目がついた魚の切り身が、じゅうじゅうと音をたてている。


「カイザーサーモンのグリル。ミルアルアが来たって言ったらお父さんがね。あ、これサワークリームね。あとベイクドポテト」

「野菜欲しいなぁ」

「サラダね。わかったわ。はい、あとこれ、エールよ。好きよね?」


 どん、とテーブルの上に置かれたのは、やたら大きなエールジョッキだ。ゼルシアは冒険者の集う土地、多くの冒険者は宵越しの銭を持たぬ大酒飲みであるため、比較的安価で粗悪なエールがこうした大ジョッキで提供される。白鴉亭もまた例外ではないのだが。


「好きだけど、最近あまり飲んでないな……」

「あら。一人晩酌とかしないの?」

「あまりね。でもこれはありがたくもらうよ。ありがとう」


 そう言ってミルアルアは、小説の栞をはさんで一度しまう。


「ねーちゃん! こっちにもエール!」

「ラム肉のグリル4つ追加!」

「こっちはパン持ってきて!」


 活気あふれる店内である。そこかしこから、ウェイトレスのアイシャを呼ぶ声が聞こえてきた。


「はーい、順番にお伺いしまーす! じゃあね、ミルアルア、昼過ぎには一度落ち着くと思うから!」

「うん。のんびり待ってる」


 ミルアルアは頷き、アイシャが飛んでいくのを見守った。


 テーブルの上にはサーモンのグリルとエールジョッキ。このレストランで出てくる料理は、別に素材が厳選されているわけでもなければ、卓越した調理法で手が加えられているわけでもない。カイザーサーモンは高級食材であるものの、おそらく質自体は粗悪なものだ。

 12年、あの城で暮らしているミルアルアだが、しかしこうした低質な〝ごちそう〟というのも、なかなかに捨てがたいと感じている。舌がしびれるような俗っぽい味付けが、正直好きだった。


 今頃、ラグラ坊ちゃまは城に一人か。と考えたものの、すぐに思い直す。


 そうだ。今はフィリシスがいるのだった。二人で留守番というのは初めてである。ゴーレム達にあらかじめ家事の指示は出してあるし、どうせ明日には戻るのだから、そう必要以上に心配することもないだろう。

 それに仕事は仕事。休みは休みだ。ミルアルアはプロフェッショナルとして、公私は混同しない。


 今はこの、低俗な魚のグリルに、舌鼓を打つべきなのだ。


 ミルアルアはナイフとフォークを手に取り、周囲の冒険者に比べればいささか上品な仕草で、カイザーサーモンを切り分けにかかった。





「ミルって休むのね」

「契約上な! この12年間無遅刻無欠勤。公休日は月に一度という無敵っぷりだ」


 ラグラとフィリシス、そしてノイノイは書斎を出、大食堂に向けて廊下をさまよい始める。厳選王グラバリタが自ら素材を集め、設計し、そして築き上げたこの城は、その廊下も過剰に広く長い。壁には厳選された超一流の絵画や調度品がかけられ、さらに床には厳選された超一級の鎧や彫像が並べられている。

 足元を彩るのは、厳選された超一級の赤い絨毯だ。貧乏貴族程度の財力では踏むことにすら躊躇するであろう高級ジュエルビロードがふんだんに使われている。


 ミルがいないのであれば、二人は自力で食堂に向かうしかない。とはいえ調理はミルではなく調理ゴーレムの仕事だ。黙っていても食事は出る。フィリシスは、自分の手で食材を調理できないことをまだ悔しがっている様子では、あったが。


「そういえば、ノイノイの分のご飯って出る?」

「む?」


 その言葉を聞き、ラグラは振り返る。フィリシスの腕の中で、ノイズラプターのノイノイは現在ぐっすり寝息を立てていた。基本的にノイズラプターは夜行性なのだ。フィリシスの顔面に高周波ブレード(弱)をぶっ放しまくって疲れてしまったのもあるのだろう。見れば、フィリシスの顔は度重なる高周波による刺激を受け、血流がよくなっているような印象があった。

 ノイノイがこの厳選城にやってきたのは、成り行きである。ラグラとしてはさっさと捨てさせたかったのだが、フィリシスは頑なで、結局連れて帰ってきてしまった。さすがに家まで来てしまうと、捨てて来いとは言い難いし、罪のないノイズラプターの幼体を殺すような悪趣味はない。


「まあ好きなものを食わせればよかろう」


 ラグラは特に興味を示さず、そう言った。


「詳しく調べていないからわからんが、地上のノイズラプターに比べて潜在的な個体能力が高い。せっかくなので好きに育ててみろ」

「あ、そうなの?」

「プラチナクラスのダンジョン内、それも下層域に出現するモンスターは、全能力値の内最低でも2つ、最大レベルの潜在能力を持って生まれてくる。潜在能力の高さは、レベルの上昇による能力値の変化に大きく関与するのだ。まあ知っていると思うが」


 そう、だからこそ、この城で働くゴーレム達の親個体も、ダンジョン内で厳選する必要があったのだ。

 ノイノイは厳選されたノイズラプターではない。だから、ラグラもさほど強く惹かれているわけではないが、それでも地上の高山帯に出現する個体よりは、強力なものに育つ可能性がある。だからこそ、フィリシスに好きなように育てろと告げたのだ。


「もっとも、貴様がこの城にいられるのは……」

「わかってるわよ。アヒルちゃんの調整でしょ。それをサボる気はないから安心して!」

「なら構わん」


 ラグラは以前ほど、フィリシスを邪険には思わなくなっている。本人からしても不思議なことではあったのだが。原因はよく、わかっていない。まぁ、自分自身が不快でないならそれでいいと、ラグラは思っていた。いま彼にとって一番大事なのは苔の魔導書に関する検証であり、次に大事なのは早く朝食を食べることだ。


「ねえ、ラグラー」

「今度はなんだ!」


 後ろから何度目かの声かけをされ、ラグラはややイラついた声で振り返る。フィリシスは眠ったノイノイを抱きしめたまま、周囲をきょろきょろと見渡した。


「さっきから同じとこ、ぐるぐる回ってる気がしない?」

「なんだと?」


 フィリシスの仕草に合わせ、ラグラも視線を周囲に向ける。だが、すぐに嘲笑した。


「貴様はまだこの城に来て日が浅いからわかっておらんようだな。俺の親父が建てたこの城は、とにかく無駄に広く似たような廊下が続いている。おまけに入り組んだ分岐路がたくさんあるから、そう感じるのも仕方あるまい」


 そう言って、ラグラは更に前へ進む。フィリシスはやや納得いかなそうな顔をしつつも、ついてくる。


「確か食堂に繋がるのはこの扉だ。待たせたな。さっさと朝食を食って、俺は検証の続き、貴様はアヒルちゃんの調整をするのだ」


 ラグラは扉に手をかけ、押した。そこで彼らの視界に飛び込んできたものは、


「書斎じゃねーか!!」


 ばたん、と扉を閉める。


 そう、それは先ほど彼らが出てきたはずの書斎である。フィリシスの言った通り、彼らは同じ場所をぐるぐる回っているのだ。


「何故だ! 俺はちゃんと正しい道を進んできたはずだぞ!」

「とにかく無駄に広く似たような廊下が続いてるし、おまけに入り組んだ分岐路がたくさんあるから、そう感じるのも仕方ないわね」

「くそっ! ミル、ミルを呼ぼう! ミルなら俺たちが目隠ししていても正しい道を進んでくれる!」

「そのミルは今日お休みなんじゃないの?」

「そうだった!!」


 こういうことがあるから、ラグラはミルの公休日が恐ろしいのだ。その辺はミルもしっかりわかっていて、普段はラグラの寝室にアヒルちゃん厳選セットを置き、更に寝室から食堂に向かうまでのルートにロープを置いて行ってくれる。ラグラはミルが休む日は、だいたい寝室と食堂、そしてたまにトイレを往復しながら、アヒルちゃんの厳選だけをして一日を過ごすのだ。


 もちろん、それだけ準備をしても、ミルがいないことによる問題は数多く発生する。それでも辛うじてラグラは、その日を生き抜くことができていたのだ。しかし、この状況でミルの公休日に突入してしまうとは誤算だった。

 ラグラが歯をがちがち打ち鳴らしていると、フィリシスがいきなり胸を張って叫んだ。


「フッ、仕方ないわね! ラグラ」

「なんだか猛烈に嫌な予感がしてきた」

「私に任せて! あなたを確実に、大食堂に連れて行くわ」

「やっぱりか! やっぱりか!」

「安心して! 私は一億万年に一人の天才美少女よ!」

「そのフレーズが一番安心できないんだよ!」


 二人の至近距離での叫び合い。ノイノイは少し不快そうな寝顔になると、耳をパタンと閉じてフィリシスの胸元に顔をうずめる。ラグラもまた、そこにミルがいれば胸元に顔をうずめて泣き叫んでいたであろうというような表情で、地べたを這いずりまわった。


「ミルウウウウ! 助けてくれ、ミルウウウウッ!」


 叫ぶラグラの足を、フィリシスは強引にひっつかむ。


「幾ら助けを呼んでもミルは来ないわ。諦めるのね」

「貴様は今から俺が諦めなきゃならんようなことをするつもりなのか!?」

「さあ、もたもたしてる暇はないわ。お腹減ったし。行くわよラグラ!」

「嫌だああああ! 助けてくれえええええ! ミルウウウ!!」





「ん……」


 ミルアルアは顔をあげ、眉をしかめた。視線はどこか遠くを見つめ、そのまま目を細める。


 魚の骨が喉に詰まったのだ。


 仕事上のミスは一切犯したことのないミルアルアだが、プライベートで少し気を抜くとこういうことがある。慌てず騒がず、右手を自らの喉にあてがって、短い呪文を唱える。魔力が喉へ浸透し、異物を消し去った後、わずかに生じた傷を完全に治療した。

 こうした透過外科治療を行う治癒魔法は、どんなに才能があったとしても習得に5、6年はかかるとされている。だが、ミルアルアがこの魔法を習得したのは12歳の時。厳選王グラバリタに、わずか4歳となる息子の世話を任された時のことだ。習得には半年とかからなかった。


 当時、わずか12歳にして最強の冒険者として名を馳せていたミルアルアを、メイドとして再教育したのはグラバリタ本人である。冒険者として伸びたステータスはそのまま、大きく残された成長余地をメイドとしての能力値に割り振ったのだ。

 そうした再教育の家庭で、このような治癒魔法も習得させられた。研修と称されたステータス、スキルの調整は1年で終わり、それ以来、ミルアルアはラグラのお付きのメイドとして働いている。


「(懐かしい)」


 過去の思い出に浸りながら、ミルアルアは黙々と食事を続けた。


「(坊ちゃまは、喉に魚の骨を詰まらせることにかけては天才的だったな……)」


 ミルアルアがどんなに取り除いたつもりでも、必ず小さな骨がラグラの喉に刺さったものだ。だがそれも最初の数年だけである。ミルアルアはすぐに、あらゆる小骨を取り除く魔法を習得し、それ以来、ラグラは喉に小骨を詰まらせたことはない。


 しかし、なんだ。


 こうして日々の業務から解放され、ラグラが食べる魚の小骨に煩わされることもなく、のんびりと過ごせる時間は、やはり尊いものである。休暇というのは、素晴らしい。このなんでもないような時間こそが、ミルアルア・リアにとっての至高のひと時なのだと、改めて実感していた。

 さて、これを食べ終わったら、ミステリー小説の続きを読もう。やはり、ああした小説も、余暇の間に一気読みするに限る。


 そんな彼女の様子を、


「ミルアルア、ずいぶん幸せそうな顔してるじゃない?」


 カウンターから眺めながら、アイシャもちょっぴり嬉しそうに呟いた。





 一方、幸せでないのがラグラである。あれから30分が経過した。


 二人は、薄暗く湿り気のある洞窟を、かたや意気揚々、かたや鬱屈とした表情で進んでいる。フィリシスの腕の中で、相変わらずノイノイは寝息を立てていた。


「さぁ、ラグラ。元気を出して! もうすぐ大食堂よ!」

「どこが!?」


 フィリシスの激励にたまりかねたように、ラグラが叫び返す。


「昨日、大食堂から書斎に移動する途中でこんな洞窟通ったか!? 城に住んで長い俺ですら初めて来たぞこんな場所!」

「私にはわかるわ。きっとこの洞窟こそが近道なのよ」

「そこに移動するまでに所要時間の2倍を要すような道を近道とは言わんのだ!」

「私の嗅覚を信じて、ラグラ!」

「苔を集めようとしてセミの抜け殻集めるような奴の嗅覚をどう信じろと!?」

「あ、抜け殻のプディング食べる?」

「要らん!」


 ラグラとフィリシスの叫び声は、洞窟の壁に反響してやたらと大きく響き渡る。


 洞窟とは言っても、壁にはトーチが灯されていて、ところどころ人工的な意匠も見受けられる。そう考えると、ここは確かに間違いなく城の一画ではあるのだろうが、それ以外のことはまったく不明だ。何やら、自分たち以外の気配も周囲に潜んでいるような感覚がある。

 ミルがいれば何が出てきても瞬殺してくれるだろうという安心感もあろうが、当然、ミルはいない。この中で一番強そうなのが、フィリシスの腕の中で眠るノイノイというのが、なんとも心細い話である。


「大丈夫よラグラ、あなたはプラチナランクの冒険者なんだから」

「確かに俺はプラチナランクの冒険者だが、これは冒険じゃなくて家の中を歩いているだけだ! 家の中を歩くのに、冒険者としての実力はまったく意味をなさんのだ!」


 冒険者としての実力も何も、ラグラはレベルが高いだけで能力値が平均10以下のゴミユニットに過ぎない。ダンジョン探索やクエスト挑戦においては、それがある程度意味を成すと考えているらしいのが驚きだであった。

 とは言え基本、知識が権威を纏って怒鳴り散らしているような男である。ダンジョン知識の豊富な彼は、ダンジョンではそれを自らの心の鎧にすることができるのだ。その分、未知の場所には弱い。なにせ彼の精神スピリット値は2しかない。


「ラグラ、あれを見て!」

「今度はなんだ!」


 フィリシスが指差した方を、ラグラはやや忌々しげに見る。


「宝箱よ!」

「なんであるんだよ……」


 そう、フィリシスの指差す先にあるのは、ひとつの宝箱であったのだ。


 それだけではない。宝箱の左右には、二つの石像が互いに剣を交差させるようにして立っている。トーチが周囲を不気味に照らし出し、なにやら荘厳な、それでいて怪しげな、古代の神殿のような雰囲気を漂わせている。

 だがここは神殿ではない。ラグラの家だ。厳選城モット・セレクションのどこかだ。父親の密かなインテリア趣味にしては、あまりにも品がなさすぎるし、チープだ。


 フィリシスは、感動に声を詰まらせたのように、こうつぶやいた。


「とうとう、たどり着いたのね……」

「どこにだ!」


 思わず突っ込みを入れてしまうラグラである。


「俺たちが目指しているのは大食堂だ! 断じてこんな怪しい神殿などではない!」

「ラグラ、空腹で叫ぶと目が回らない?」

「貴様の無軌道に振り回されてもう気絶しそうだよ!」

「とにかく宝箱よ。開けなきゃ」

「貴様の思考回路はどうしてそう死に急ぐようにできているんだ!? 人間になれとは言わんからせめて生物として必要最低限の危機管理能力を身に……」


 胸を張って宝箱に近づいていくフィリシスを、ラグラは追いかける。が、その直後、思い切り石の蹴躓いて、ずるべたーん! とスッ転んだ。


「あ、ラグラ大丈夫?」

「うっ……ううっ……」


 膝を抱え込みながら、嗚咽を漏らす厳選王子ラグジュアリー・セレクション。


「うう……。もうやだ……。もうやだよぉ……。ミルぅ……。早くご飯食べたいよぅ……」

「ラグラ……」


 ごしごしと目をこすりながら泣きじゃくるラグラの肩を、フィリシスがそっと叩く。


「大丈夫? ごめんね、私が、無茶させちゃったかしら……」

「うう……。ミル、ミルぅ……」

「とりあえず宝箱開けてくるわね」

「やめろよ!!」


 すぐに立ち上がって宝箱の方を向くフィリシスを、ラグラは必死に引き留めようとした。涙声に鼻水が混じる。


「こんなところにあからさまに置いてある宝箱に、トラップ仕掛けられてないわけないだろうが! もう少しモノを疑え!」

「大丈夫よラグラ。普通、自分の家にトラップなんて仕掛けないわ」

「普通は自分の家にもこんな怪しげな祭壇なんか置かねえよ! 君子危うきに近寄らずって言うだろ!」

「虎穴に入らずんば虎児を得ずとも言うわ」

「この状況で俺たちに必要なのは虎児じゃなくて食事!」

「今のダジャレ!? すごいわラグラ、なんて卓越したセンスなの!? 私感動してるわ」

「バカにされてる気しかしない……」

「じゃ、開けるわね」

「ちょっ……」


 フィリシスは、とうとうその古ぼけた宝箱の蓋に手をかけた。ぎい、という、錆びた蝶番ちょうつがいの軋む音がして、重い蓋が開く。ぱらぱらと落ちる埃や砂が、放置されてからの年月を感じさせた。ラグラは情けない悲鳴をあげて後ずさり、頭を抱えながら震えるが、しかし何も起こらなかった。


「………?」


 おそるおそる顔をあげると、フィリシスは開いた宝箱を前に平然と立っている。腰に片手をあて、もう片方の手でノイノイを抱いたまま、中を覗き込んでいた。


「な、なんともないのか……?」

「なんともないわ! 中には結構、色んなものが入ってるわねー。手紙っぽいのもあるわよ」

「手紙?」


 中から紙切れを取り出して、フィリシスは言う。


「そう。あなた宛てよ、ラグラ」

「親父からか!?」


 いきなりの事実に、ラグラは驚愕も露わに叫んだ。フィリシスは神妙な顔をして頷く。


 父・厳選王グラバリタ。彼の急な病没によって、ラグラは厳選城を一人で受け継ぐことになった。

 厳格だが、偉大な父である。彼がラグラに遺してくれたものなど、何もないと思っていた。遺言ですらシンプルなものだったのである。そんな父グラバリタが、まさか自分あてに手紙と宝箱を遺してくれているなどとは、ラグラも思わなかった。


「読むわね」

「ああ……」

「『我が息子ラグラへ。この手紙を読んでいるということは、おまえは俺が遺した秘密の暗号を解き明かしたのだろう』」

「それ今読んじゃダメな奴だ。しまってくれ」


 ラグラが冷静に言うと、フィリシスもやはり神妙な顔で頷き、手紙を宝箱に戻した。ぎい、という音がして、宝箱の蓋が閉まる。


「お父様、秘密の暗号を遺されていたの?」

「いや、知らん。何しろ急逝だったからな。そんなものを遺す暇すらなかったはずだ」


 ラグラは立ち上がりながら、膝の埃をはたいた。


「もしかしたら秘密の暗号を作ってる途中に死んだのかもしれんし……。ただ、後でマジで暗号が見つかるとちょっと気まずいので、見なかったことにしよう」

「そうね」


 二人は互いに頷き合って、父グラバリタが残した怪しげな神殿を後にした。

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