『本題の前のニアミス』
『カインド・ベル』と名づけられたその店は、その軽やかな店名とは違って、正直とても流行っているとは思えない雰囲気を漂わせていた。
扉通りの盛況さには劣るものの、店の外の通りからはかなりはっちゃけた活気が聞こえる。通称『冒険者通り』と呼ばれている通りは武器防具屋を基本に、魔法屋や薬草専門店など冒険者が旅支度を揃えるための店構えが並んでいる一角だ。真向かいの店などまさに冒険者に依頼を斡旋する冒険者ギルドであったほどだ。
その王都において結構な需要のある通りのど真ん中という好条件。そんな中にあってこの宿屋カインド・ベルは悲しいほど寂れていた。
やや年季は入っているものの、建物は他の店よりかなり大きい。店内スペースは広く、奥のカウンターを中心に二十席以上の客席が食事を行う場所として開放されている。それでも入り口から見て左側の大きな空間が遊ばされていて、店全体の大きさを持て余しているのがわかった。右奥には二階への階段があり、踊り場を挟んだ上階には談話室のような空間と、宿泊客の客室が並んでいるのが見える。
店内は隅々まで清掃が行き届き、埃一つ落ちていない究極の清潔感。かといって潔癖な印象を与えないのは、小窓の前の小さなテーブルに置かれた鮮やかな花々のおかげだ。
これだけ気を払われていながら、理不尽なまでに利用客がいない。人の気配が自分とティファ以外に全くないのだ。清潔すぎて鼠の気配すらないのがいっそ哀れだった。
「店の外じゃ爆発音も聞こえる過激派な活気なのに、どういうことなんだ?」
奥の厨房で恩返し料理を作っているティファを待ちながら首をひねる。宿にも泊めてくれるという話なので、まさに一宿一飯の恩義だなと思う。使い方が違うけど。
「メニューは……やっぱアルケスは読めないな。でも、金額設定は普通だよな」
書かれた数字を頼りに値段を推測。一応は商売人として立身出世を目指す身なので、貨幣の価値や値段の相場ぐらいは理解している。
「ちょっと金の亡者的な発言が目立つから、法外な値段が書いてあるかもと思ったけど、むしろ良心的……だよな。安定収入がない冒険者には優しいと思うけど」
「お・待・た・せ~って、あら? アルってアルケスは読めないんでしょ。メニューなんか見てて面白いことあるの?」
料理の皿を盆に載せて、湯気を漂わせながら戻ってきたティファが言う。エプロンドレスの裾を揺らす彼女は完璧に給仕で、付け加えれば可愛らしい給仕と補足できる。また一つ店の流行らない理由に謎が増えた。グキュルルルと腹が鳴る。
メニューを元の場所に戻して、その疑問を悟られないように髪をかき上げる。
「フッ。どの程度の値段設定をするのか、参考にしようと思って。王都ですでに自分の店を持つ一国一城の主だろ? 学ぶべき点は多いと思ってさ」
「その仕草気持ち悪い。……一国一城の主なんて大層なもんでもないわよ。あたしの代になってから寂れる一方。頑張っても頑張っても、客足は遠のくばっかりなのよね……」
ポーズへのダメ出しにショックを受けつつ、沈んだ表情のティファが気にかかる。
「ティファの代になってからって言ったな。結構、年季の入った建物だけど……」
「この宿屋はあたしのお祖父ちゃんのお店だったの。流行り病でお祖父ちゃんが死んじゃって、あたしが店を継いだのよ。お祖父ちゃんの大事なお店を守りたくて」
でも全然ダメ、と悲しげに首を振る。
「両親が旅商人だったから、子どもの頃にお祖父ちゃんに預けられてずっとここで育ったわ。お祖父ちゃんのお店はすごく流行ってたわけじゃないけど、お客さん達の笑顔でいつも溢れてた。そんなお店が大好きだったの」
「いい、お祖父さんだったんだな」
「……うん。でも、そのお祖父ちゃんも死んじゃった。でもあたし、お祖父ちゃんのお店を守るために一生懸命努力したわ。小さい頃から手伝ってたから仕事はわかってたし、お店の経営だって一から勉強したの。なのに、どんどんどんどんお店は寂しくなっていっちゃう……もう、お祖父ちゃんに顔向けできない」
うっすら瞳を潤ませたティファは、自分が口走った弱音と相手を思い出して慌てて、
「やだな、あたし。今日、会ったばっかりのアルにこんなこと言って……」
「いや、全然構わない。むしろ立派だと俺は思うよ。俺と同い年なのに、立派な目標を持って努力してるんだ。ティファのお祖父さんだってきっと喜んでくれてるよ」
――そのアルの言葉を、ティファの努力を祝福するように、ベルが鳴り響いた。
それは店の来客を告げる扉の軽やかな音だ。思わずティファと一緒に振り返ると、入り口には確かに人影があった。濃い灰色のマントで頭まで覆った背の低い影だ。一メートル弱しか身長がないので、人類種のお客だろう。
「ほらな、ちゃんと努力は実るんだ。さ、接客してこいよ」
「うん、行ってくる。料理、冷めない内に食べてねっ」
カウンターを抜けて、ティファがどこか晴れ晴れしい表情で客に向かうのをウィンクで見送る。堪え切れずに微笑が浮かび、穏やかな気持ちが胸に広がった。
きっと今までは運の巡り合せが悪かったのだ。しかし、懸命に努力する人間を必ず誰かが見てくれている。今すぐには無理でも、きっとティファの状況は好転するだろう。
「これからの王都での俺の生活と、ティファの未来にささやかなる幸運を――」
キザったらしくも食事の前に天に囁き、手にしたスプーンでまずはスープを一口。喉を温かく潤そうと舌で味わって――世界が暗転した。
電撃を受けたように視界が激しく明滅し、穏やかだったはずの鼓動が妙に劇的に高鳴る。口から意味を成さない声が無自覚に漏れ、スープを味わった舌が、スープを通した食道が、そしてスープを受け入れた胃が危険度最大の侵入者の存在を激痛で報告する。
これは痛恨の一撃……! 魔王軍に蹂躙されて、焼け野原にされる無力な村のように内部から破壊に陵辱された。いや、やめて、そこはダメ。
無限の彼方へ飛びそうな意識を繋ぎ止めて、最善の回避行動を取ろうとする。口の中のスプーンを取り出すべきだ。だが体が動かない。まったくもって言うことを聞かない。涙が滂沱と流れ落ち、諦めそうになると一気に今生とサヨナラしそうになる。
――おお、アルよ。こんなところで死んでしまうとは情けない。
誰かの苛立つ声が聞こえて奮起、甘くて優しい暗黒の女神の抱きすくめを拒絶した。その効果ではっきりし始める意識に、ふと違和感のある光景が映し出される。
はて、この後頭部は誰のものだろう。目の前の頭は見覚えがあるが、この光景には見覚えがない。ただ、なぜかとても懐かしい感覚だけある。まるでずっと一緒だったのに、自分の陰の存在だから目に入らなかったというような悲しいデジャヴが――、
「……これは危ないですネ」
と、呟くような声に続いて後頭部を掌で押される感覚があった。
そのまま目の前の後頭部に突っ込み、ぶつかると目を閉じるが衝撃はない。恐る恐ると瞼を開けると、そこにはスープの名残を残したスプーンが存在していた。
「お、俺は……無事に帰ってこれたのか?」
スプーンを置いて、手で体や顔を触って無事を確かめると、アルはカウンターに倒れ込んで、今生きている喜びに涙を流した。命拾いの感想は本日二度目だが、二度目は一度目と比較にならない絶望だった。どう足掻いても絶望。今の絶望に比べれば崖から落ちる程度など苦難にも入らない。あのぐらいで命拾いと思った俺のバカバカ。この際、食べ物なら何でもいいとか思ってた俺の胃袋もバカ。そしてティファはもっとバカ。
「おやおやおや、無事に戻れてよかったですネ。人のものならいざ知らず、自分の後頭部を自分で眺めるなんてチャンスは滅多にないないですヨ?」
おどけた調子の声に振り向くと、そこにはこちらに手を伸ばした姿勢の女性が立っていた。おそらく、女性である。漆黒のローブで全身を覆い、顔は鼻から下の部分しか見えないので、声色でそうと判断する他にない。怪しげな風体だが、挙動は妙にコミカルだ。ただ、どんな怪しい人物であろうと命の恩人であることは違いない。
アルは突き出されていた手を両手で握ると、心からの感謝を込めて頭を下げた。
「本ッ当にありがとう! 見ず知らずの人、あなたは俺の命の恩人だ!」
「ノンノンノン、私への感謝は結構ですヨ。私の行動の全ては大いなる我らの父が下した天啓に他ならないのですネ。ですから私の行為であなたに利することがあったならば、それは私ではなく天上に在らせられる神の救済なのですヨ」
人によっては癇に障りそうな特徴のある喋り方だが、故郷で異形と触れ合って育ったアルはその辺りのことを気にしない。リュングダールは習俗も習性も種族も趣味も異なる集落だったから、大体のことは個性の一言で片付けていたのだ。
「そうか。それじゃ、神様とあなたに礼を言うよ。本当にありがとう」
「……面白い方ですネ、アナタ。大変気に入りましたヨ。では、私ももう少しサーヴィスして神の奇跡をお見せするといたしましょうかネ」
くつくつと笑ったあと、女性はカウンターに置かれた料理に掌を向ける。そして囁くように呪文と唱えると、淡い光が料理を包み込み、数秒で光が霧散した。
そして今のはと疑問の視線を向けるアルに、女性は料理を指し示して頷いた。
食べてみなさいという意味だろう。正直、尻込みせざるを得ない提案だが、先ほど女性が囁いたのは神言で、光は色からして白魔法だ。原理はわからないが、つまりさっきの状態では危なかった料理に魔法を使い、安全なものにしたということらしい。
神の奇跡は万能なんだなと納得して、再度スプーンですくったスープを口に運んだ。
暴虐の前に体はすでに限界を迎えていた。第一波を退けたことが奇跡だったのだ。次の一波が来る前にすべきだったのは降伏か和平の道だった。なぜ人は過ちを繰り返すのか。過去の歴史には何も学ばないのか。どれだけ文明が進み、知識を得ても争いがなくならないのは驕りがあるからではないのか。何たる傲慢。神をも恐れぬ不遜な思想に、今も昔もどうして誰も気づかない。申し訳ありません。自分が愚かでした。ああ、そう認めれば目の前には光り輝く温かな世界が――。
「そろそろ危ないですから戻ってきてくださいネ」
再びさっきと似たような感覚が後頭部にあって舞い戻る。帰還して最初にやったのはスプーンを放り投げて、後ろの女性を睨みつけることだ。
「どうでしたかネ? 神に、神に謁見することはできましたカッ!?」
鼻息の荒い興奮声で詰め寄られて、女性の評価がガクッと落ちる。
「っていうか、神の奇跡を見せてくれるんじゃなかったのか! 何も変わってなかったどころか追い討ち補正で余計に棺おけに近づいたわ!」
「私も解毒の神言を用いたのですが、毒性が強すぎて無理だったんですヨ。ですから趣向を変えて奇跡ではなく神自身に拝謁される経験をと……羨ましいですネ?」
「ましくねえよ! 無邪気な視聴者に黙って勝手に演目を変えるなよ! 『驚嘆、奇跡と栄光の白魔法』――それがいつ『悶絶、毒と魔性の地獄絵図』にすり替わったんだ!」
思わず大声で本音が出て、今の失言がティファに届いていないかと振り返ると、店の奥で客と話していたはずの彼女は向こうの事情で何やらヒートアップしていた。
ティファと言い合う客は被っていたマントを取り去り、今は素顔を晒している。一メートルほどの小柄な、しかしずんぐりむっくりとした体の上にあるのは五十代前後と見られる男の髭面だ。四頭身の髭のオッサンがティファと口汚く罵り合っている。ミニマムサイズの男はドワーフだろう。日の光が弱点だから、全身マント姿にも納得がいく。
不意にアルに気づいたティファが、口論を中断して俯きがちに歩み寄ってきた。
「ごめんね。ちょっとうるさかったかしら」
「こっちも忙しかったからそんなことないけど、何かトラブルか?」
話が悪い方向に行くのを避けて誘導すると、ティファは頬を膨らませて腕を組む。
「そうなの。何かワケのわかんないことばっか言ってて……またあいつらかしら」
「くぉらっ! まだ儂の話は終わっとらんぞ! とっとと戻れ、小娘!」
厳格というか頑固一徹というか、こうと決めたら絶対に譲らねえ的な性格が見え隠れする声を聞き流していたティファが、カウンターの上の料理を見て眉を八の字にした。
「あ……ひょっとして、口に合わなかった?」
ここで正直に「クソまずかったぜ、殺人コックが。お前の料理は黒魔法!」とか言えるのは余程の馬鹿か魔王だけだ。アルは馬鹿だったが、そこまで馬鹿ではなかったので笑顔で不安を否定した。
「違う違う。ちょっとこの人と話し込んでてな」
横の黒いローブを指差すと、そこで初めて存在に気づいたとティファは驚き、
「あ、これは気づきませんでした。申し訳ありません」
接客マニュアルを取り戻すティファに、女性はいやいやと手を振って寛大を示した。
「私の用事は後回しでいいですヨ。今はあちらのご立腹な男性を優先してくださいナ。今はこちらの彼こそが、私と神の助けを必要としていますからネ」
「そうですか? ではすぐ戻りますので、お待ちになっていてください」
ティファがぺこりと頭を下げて、また怒鳴るドワーフとの言い争いに戻っていく。その背中にひらひらと手を振っていた女性に顔を近づけて、低い声で問いかける。
「今のお言葉は一体どういう意味だ、いんちきシスター」
「いんちきだなんて人聞き悪いですネ。それに意味なんてそのままですヨ?」
座るアルから一歩下がって距離を開け、シスターは皿の上の料理を指差した。
「それ、全部平らげるのですよネ? 男の子の顔をしていましたヨ?」
癪だが、アルは無言でそれを肯定する。正直、スープ一口で瀕死になった。前菜だけでなくメインにまで手を出せばどうなるのかわからない。いや、確実に死ぬ。
今ならわかる。この店が繁盛していない理由は客が死ぬからだ。一度来た客は二度と来ないから繁盛しないのだ。国の調査機関はなぜ、問題を放置し続けた。
「そりゃ死ぬまで食べる人はいないからでしょうネ」
シスターの突っ込みを聞き流しながら、それでもとアルは覚悟を決めた。きっと、この料理を前にした数多の男達が同じ覚悟を固めたはずだ。
命ある限り、この料理に挑む。そして見事に打ち倒し、あの少女を悲しませない。
散っていた多くの戦士達の亡霊がアルの隣に立っていた。誰も来るなとは言わない。覚悟を決めた漢に対し、その言葉が侮辱でしかないことを彼らは魂で知っているのだ。
この料理の秘密は全て胃に収め、決してティファを泣かせない。
「まあ、何回臨死しても私がお救いしますヨ。安心して挑んでくださいネ♪」
命と引き換えにしても、時には男は踏ん張らなくてはならないのだ。
人はこれを問題の先送りという。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
文字通り死にかけた窮状を乗り越え、ふらふらしながらアルはカインド・ベルを出た。扉が閉まる直前まで背後にぴたりと寄り添っていたシスターに、恨み七割感謝三割の複雑な男心を視線でぶつけた後は、冒険者通りを千鳥足で歩き出す。
アルが王都エルベルムにやってきた最大の理由は、自分の店を持つためだ。そしてアルはすでに自分の城となる不動産との契約を、王都到着前に果たしていたのだった。
「確かにわが社の特派員から連絡を受けてるザンス。前金で十五万ゴールド頂戴してるザンス。ではではアヴァル様、おめでとうごザンス。この契約書の示す通り、こちらの物件はこの瞬間からあなたのものになりましてザンス」
通された応接室で向かい合う漢が、満面の商魂スマイルでそう言った。
仕立てのいい服を着た痩せ男だ。出っ歯とちょび髭と狐目が実に胡散臭くマッチしている。紳士然としているというか、そこを目指して失敗した感じのスタイルだ。
「契約はご完了ザンス。お役人方への諸所の手続きは全てこちらがやるザンスから、お客様は本日からでもその物件で寝食されて構いませんザンス」
差し出された握手に応じながら、男の笑みに笑顔を返す。
「いいお買い物をされましたザンスね、お客様」
「ええ。田舎から出てきた甲斐があったってもんです」
大物の空気で頷いて、アルは不動産屋『ハウス・ドノヴァン』を後にした。
立派な門構えの外に出ると、たくましい体つきの職員達が見送ってくれる。彼らに会釈して『駆引き通り』に出たアルは、受け取ったばかりの契約書に顔をほころばせた。
これでアルもまたティファと同じように一国一城の主というわけだ。この契約書を手に入れる経緯は運命としか言いようがなく、胸の内側に感動が溢れてくる。
あれはさる事情で両親から勘当されて、故郷を離れて途方に暮れていたときだ。うらぶれた酒場でミルクを飲んでいたところ、七三分けに出っ歯の男に声をかけられた。そこでたまたま不動産を営む男と意気投合し、アルもたまたま実家から持ち出した父親のヘソクリで交渉成立――こうしてアルのサクセスストーリーが始まったわけだ。
「今、思い返しても神懸かった展開だ。まるで仕組まれてたようでさえあるもんな」
男の口利き通り、王都の物件を自分の懐は痛めずに入手することができた。ちょこちょこ小金を貯めていた父親の金だが、母親に持病の薬を買うと嘘をついて着服していた結果の金なので特に良心も痛まなかった。痛んだのは片親だけだ。
「あとは契約書の住所がどこだかわかんないことだな。王都に地理に明るくないし」
とりあえず足の向く先はティファの宿屋だ。彼女には恩返しの名目で宿を借りることになっていた。思ったより手続きが早く済んだので必要なくなったのだが、そのことも言わずにさようならは人情に欠ける。ティファとは今後も町中ですれ違った際には笑顔で挨拶を交わす仲でありたいので、今は彼女に会うのがベターだ。
ドワーフといんちきシスターがまとめていなくなっているとベストなのだが、経過時間が一時間弱だと微妙な線だな、などと思いつつ雑踏を歩き出すと、
「あの、少しお尋ねしても構いませんか?」
横合いから声をかけられ、聞こえた方角に振り向いたアルは反射的に息を呑んだ。
長く絢爛ときらめく金髪をそよ風に揺らし、湖面を映したように澄み切った青の瞳。雪原のように白く繊細な肌。全体的に細身ながら、出るところが出ている女体の理想形。
美女の見本ともいえる女性が悩ましげに眉を寄せ、アルに救いを求めているのだ。
漢を上げたばかりのアルが瞬間でも躊躇うような素振りを見せるはずもなかった。
「どうかしましたか、お嬢さん。何か困ったことでも?」
「はい。私だけではどうにもならなくなってしまいまして……」
「俺にできることなら火でも水でも魔王軍でも飛び込みましょう。何でもどうぞ」
自分でも何を言ってるのかわからなくなるぐらい熱を上げているのがわかる。いかに美女を目の前にしたとて、ここまで舞い上がる経験は今までになかった。
「まあ。助かります。お優しいんですね」
「いえ、とんでもありません。鳥が羽を休める止まり木を求めている。その止まり木になりたい。俺が思うのはそれだけです。あなたという鳥の心安らぐのが俺の今の望み」
興が乗れば言いそうないい台詞だが、俺はここまで軽い男……いや、漢じゃない。
内心と裏腹に美辞麗句を並べる違和感が、女性の耳を見たことで確信に変わる。
女性の耳は個性で済ますのが難しいほど長く尖り、人間との些細な違いを生んでいた。
目の前の女性はエルフだ。となれば、心を操られる感覚は魅了の魔眼か。エルフなどが特性として備える、イビルアイに囚われていたわけだ。
「さあ、何でもお申しつけください。例え千年竜から角を奪えと達されようとも、必ずやそれを成し遂げられるわけねえだろう馬鹿か俺はぁぁァァァ!!」
自我を取り戻し、痛む頭を振って女性を見ると、僅かな驚きを瞳に浮かべていた。
「別に魔眼なんかに頼らなくても、俺ができることならやるから。普通でいいよ」
「私の魔眼に耐えたのは同族を除けば初めてですよ。……驚いています」
「生憎、生まれつきそういうのが効きにくい体質で」
視野が広がって町の情景が戻ってくると、大声で自虐したアルを怪訝な目で周りが見ている。その人々に何でもないと笑顔とジャンプでアピールし、じと目で女性を見た。
「俺の故郷じゃ他人の心を侵すのにはキツイ罰が与えられることになってるんだけど」
「まあ。……生爪を剥がされたり、市中を引き回されたりするんでしょうか」
「発想恐いな! ……一年間、嫌いな食べ物を残しちゃいけなくなるんだよ」
「まあ。恐いですね。私は肉料理が苦手ですから」
くすくすと口元に手を当て上品に笑う姿はアルの言葉を冗談だと思ったようだ。無論、アルにとっては冗談でもなんでもなく死活問題でもある。リュングダールは習俗も習慣も種族も食文化も異なる多種族複合集落だ。この世の珍味は食らい尽くした。いや、ティファの料理があったのと忘れてた。世界は広い。ごめんなさい。
「嫌な記憶が脳裏をよぎって涙出てきた。……それで何を聞きたいんだって?」
「はい、それはですね」
一歩、女性がアルに身を寄せる。触れ合えそうな間近の美貌に眉を寄せるが、故郷には耳元で生臭い息を吐きかけながら話しかける知人もいたので疑問はない。
それよりも目の前の女性の瞳に憂いに惹きつけられる。鼻腔を掠める甘い香りが女性から漂い、怪しく濃密な色香に意識が朦朧と――、
「二度ネタやめぇぇぇいいいいい!」
「まあ。すごい」
甘美な芳香は幻惑の香り。二度目の魔眼を振り切って、魅惑の美貌から距離を置く。
「誘蛾香と魔眼の併用に耐えた人は初めてですよ。おめでとうございます」
「嬉しくねー! 何なんだ、あんた。俺に何か聞きたいのかたぶらかしたいのかかどわかしたいのか貢がせて破産させたいのかどれだ!? 都会の女は恐ぇよ!!」
「まあ。考えたこともありませんわ」
心外、という響きを声音に含みながら女性が微笑む。
「私、小心者ですからお願い事を断られてしまったらどうしましょうと。そのことばかりが気懸かりになってしまって。ですから断られないように念を入れて」
「魔眼と秘薬で確実な質問をってどこが小心だ。そんなまでして何を聞きたかったんだよ。はっ、国家転覆できるような秘密に関わってないぞ! 俺は! 本当だ!」
「はい、道を」
「は?」
頬に手を当て、聞き返されたことをたおやかな微笑を添えて言い直す。
「道に迷ってしまいましたので、教えていただきたいと」
「子どもの言い訳かぁ! 道を尋ねたくて魔眼と薬嗅がせる人間がどこにいるんだ!」
「私、エルフですし」
「そうか、エルフだったな」
勢い消火。故郷にはエルフはいなかったのでその辺りの経験則はなかった。エルフって意外とオーバーな考えをするんだなと、授業料と受け取ってアルは気を取り直す。
「じゃあ今までのは水に流すとして、残念ながら俺はエルベルムに来たばかりのおのぼりさんだから道を尋ねられると弱いんだけど」
「まあ。そうでしたか。冒険者通りの十三番目なんですけれど」
「人の話を聞けよ……と、言いたいところが冒険者通りなら案内できてしまう俺」
頭を掻いて、仕方ないなと思う。行きがかり上とはいえ見捨てるのは心が痛い。それに勘だが、この女性は断られれば同じ手段を別の人にも試しそうだ。
「冒険者通りになら案内するよ。そこからは別の人に細かい場所を聞こう」
「まあ。ご親切にありがとうございます。……お名前を聞いてもよろしいですか?」
「ああ……ティファ=ティアハートだ」
「そうですか」
口の中で確かめるように呟くと、彼女はじっと覗き込むようにアルの瞳を見て、
「ティファ=ティアハートさん。死に物狂いで私を目的地に連れて行ってくださいまし」
「名前併用の魔眼か……対象固定だから効果が高いのは知ってるけど、あんたその名前を言ってておかしいなと思わないのか」
「……ちょっと女性の名前な気がいたしますね」
それから雪のように白い手でアルの胸板に触れて、華奢な首を傾げて不思議そうに、
「……女性?」
「漢だ! 魂胆が見えたから偽名使ったんだよ! 魔眼を使うなぁ!」
「まあ。策士ですね」
悪気も悪意も罪の意識も良心の呵責もないように笑う。エルフ恐ぇ。
「冒険者通りまで行ったら俺が誰かに訊いてやるから、魔眼はやめてくれ」
「まあ。ご親切に。それにご安心してください。魔眼は使用限度で打ち止めです」
「打ち止めとかあるんだ……じゃあ、今日はもう安心なんだな」
「はい。誕生月のテベトまで、四ヶ月ほどは安心です」
「そんな限定能力を道案内に使ったのか……意外と豪胆だな」
内心で呆れながら、アルは先導するために歩き出す。そして、ついてくるエルフを振り返って、今度はこちらから尋ねた。
「それで、そちらさんの名前は?」
「プリカと申します。あなたのご本名も、お聞きしてもよろしいですか?」
しばし真実を答えるか悩んでから、さして悩まないで答えた。
「アル=アヴァル。もう、魔眼も秘薬もなしにしてくれよ」
プリカは頬に手を当て、たおやかに微笑んで何も答えなかった。