『快晴の出会い』
その日は端的に言って、とてもいい天気だった。
雲一つない快晴の空から降り注ぐ陽気は、思わず鼻歌がこぼれそうなほど心地よい。
ここ数日、大地を押し流さんとばかりに降り続いていた雨も、家々を叩き潰そうと吹き続けていた暴風も、すべては大自然のエッセンスとばかりにそのなりを潜めていた。
「――ああ、なんて世界は美しいんだ」
少年の口からまろび出たのは、青が高く広がる大空に、緑が深く生い茂る森林に、ちっぽけな人間が抱く自然な感傷だった。
色素の薄い茶色の髪が涼風になびき、前髪が額をくすぐる感触に思わず琥珀色の双眸を細める。――直後、少年の頭髪は重力に逆らうように真っ直ぐ天に伸びた。
正確には少年が落下の軌道に入ったので、茶髪は引力の原理に従っただけである。
足場がなくなったのは唐突なことだった。ほんの数瞬、後ろを見ていただけだ。その間にずっと続いていた森は開け、いつの間にか足は宙を掻いていた。
意外と空って走れるもんだ。なんて感想が浮かぶこともなく、実質二秒にも満たなかった滞空時間で少年にできたのは、空と森の美しさを愛でる自然賛美だった。
「おおおおおお――ッ!?」
絶叫を上げながら、じたばた宙を掻いたまま少年が垂直落下する。と、その無様に回転していた足がうまい具合に崖の壁面を噛み――常識外れの壁走りを実現した。
「お? 何だ!? イケるのか? やった、イケる! 万歳三唱! イケ――ごぁ!」
地面まであと半分にしたところで、右足が左足に引っかかった。つまり自分で自分の足につまづいて顔面を強打。そのまま顔面を支点に全身をすり下ろしながら着弾。
火薬玉が爆発したような音と砂埃が森に舞い上がり、羽を休めていた鳥たちが「勘弁してくれよ」と迷惑そうに飛び去っていく。中には情けなく転落死する動物をディナーにする小ずるい鳥もいたが、落下した少年に息があると見るや彼らも姿を消していった。
天運だけでなく鳥にまで見放された少年は、そんな惨状の中でにやりと笑う。
「ああ、いい空だ。幸せだね、俺は」
ニヒルな笑みのまま、震える手足をフルに使って立ち上がる。強がり丸出しな誰も騙せないような言葉を、誰にでもなく自分に言い聞かせながらのスタンバイ。
「そう、俺は幸せ。全然不幸じゃない。空の青さを無心で見れて、むしろラッキーだもんな。そうそうできる体験じゃない。思えばラッキー続きじゃないか」
例えば嵐をしのぐために泊まった麓の村の宿屋。料理はうまかったし、従業員は優しかった。風雨で予定以上の宿泊をするとき、明らかに足元を見られてぼったくられたのは厳しい社会の現実を学ぶ授業料と思えばよし。
授業料を払ったおかげで王都行きの馬車に乗れなくなったが、知る人ぞ知る幻の山道を紹介してもらえて運がいい。モンスターにかじられたような跡が残る看板とか、やけに悲壮な顔つきで握り飯を持たせてくれた宿屋の主人とかは思い出の海の中だ。
肝心の握り飯は食おうとしたところで鳥にさらわれた上に、その鳥を追いかけて山道を外れたのだが、大自然の雄大さを肌で味わう大切さは何物にも代えがたいはず。
――そしてまあ、なんやかんやあって崖から落ちた。
何より背中を預けた岩壁の硬さと鋭さを見上げて、自分が生きている奇跡に感謝。何事も今、こうして生きている幸いに比べれば些細なことだと思えるものだ。
だいぶ角度のある断崖絶壁だけに、よくもまあ死ななかったものだ。
「普通なら死ぬ高さから落ちて生きてんだから、これもラッキーじゃないか」
節々は痛むが動けなくなるほどじゃなし。こんな山中で身動きできなくなれば、待ち受けるのは餓死か衰弱死か魔物の餌。全部から逃れていいこと尽くめだ。
「ダカラオレ、シアワセ。フコー、チガウ」
人間、許容量を超える不幸を受けると、むしろ自分の境遇は幸せだと思い始めるものである。そんな自己防衛に浸りながら、重い体を引きずって歩き出す。絶壁から落下したものの、場所は相変わらず森の中。だが、変わらない状況を前に少年はさらに笑う。
「この俺がただ漫然と崖を駆け下りただけだと……そんな風に思ってもらっちゃ困るぜ」
すでに崖を華麗に駆け下りたことに記憶を修正した上で、少年は先ほどの落下のときに見えた景色を思い出す。実質は一秒に満たないが体感時間はうだるほどあった。あの瞬間のはるか遠くまで見渡した光景に答えが――青一色だった。
「空の馬鹿野郎」
空が綺麗なら腹が膨れるか。空が綺麗ならこの世から迷子は消えるか。空が綺麗なら魔王は世界征服をやめるだろうか。青空のくれた感動など一時しのぎじゃないか。
「でもまあ、行き先がわからないってことは逆にどこにでも行けるってことだよなっ」
切り替えの早さが若さの特権。客観的に見た状況に比べて悲観度の足りない少年の顔と頭が、不意に聞こえた音に反応して引き締まった。その音は――、
「流れる水の音……ってことは、川が近い!」
言うが早いか、重傷とは思えない身のこなしで走り出す。水音の発信源に向かって数分走ると、程なく木々の道が開け、小さいながらも川原を発見することができた。
飛び込むような勢いで――実際、足がもつれて顔から川に着水して、尻を上げただらしない格好のまま給水。握り飯以来の燃料補給に力がみなぎり、体力気力全回復だ。
「我ながら現金な体だよ、まったく」
鈍痛は遠のき、首や肩を回して問題のないのを確認。服が破れて泥で汚れた以外、落下前と変化はない。澄み切った水をもう一口いこうと、少年は再び身を屈めた。
妙な音が聞こえたのはそのときだ。川を挟んで対岸、そちらの茂みから音が聞こえた。しかもそれは聞き間違いでなければ人の声だったように思える。
「人がいるなら助かった。まさか道に迷った人じゃないだろうしな」
うっかり道に迷った事実を認めながら、少年は川を飛び越える。それから初対面は印象が大事と、乱れた髪を整えて、自分的に最高の笑顔で茂みの向こうへ。
「やあ、どーも、こんち! ハッピー? ハッピーついでに聞きたいことが……」
その最高の笑顔が、目の前の光景を目にしたことで引きつって硬直する。
三人の男が一人の少女を押し倒し、今にも狼の欲望を果たさんとしていた。
少年の時間が氷の割れるような音と共に停止し、スマイルも予想を超えたアンハッピーさに対抗できない。お呼びでない空気で全身を脂汗が濡らしていた。
「あー、えーっと……?」
「あんだぁ、このガキ」
少女の上半身と下半身をそれぞれ男が一人ずつ担当。余っていた男が下から見上げるように少年を覗き込む。引きつる笑顔に映る男の瞳はマジで、態度はチンピラじみているが、身なりの小奇麗さが山賊である可能性を否定していた。
近隣の町で暮らす、後ろ暗い職業の男達だろう。暴力的な商売をする彼らは非常に厄介で、その上に虫のようにどこにでも湧く。群を抜いて治安のいい王都にも一人見たら五十人はいるらしいと、流れの商人に聞いたことがあった。都会は恐い。
「んだよ。こんなとこで何してんだ、ガキ」
「あーっとですね……実は山道で迷いまして。王都への道を教えてもらえるとありがたいなぁなんて思ってみたりすること山の如しなんですけど山の中だけに」
威圧する男に正直に言うと、男は少年の態度を嘲るように笑い、親指で道を示した。
「ここを真っ直ぐで山道に出る。道を沿って下れば王都だ。わかったな」
「は、はい。どうもありがとうございます……」
礼を言いながら頭を下げて、そのままさりげなく少女の様子を窺う。ひょっとしたら合意の上の展開かもしれないし、空気の読めない奴扱いは恥ずかしい。
黒と白を基調としたエプロンドレスに身を包んだ少女は、白磁のような色白の肌を恐怖に青ざめさせている。山吹色の髪を頭の両端で縛り、背丈はやや小柄な方か。笑顔の似合いそうな愛らしい顔立ちで、浅葱色の瞳がそれを引き立てている。
――その瞳が大粒の涙を湛え、表情は悲痛に歪んで少年を見ていたのだが。
自然と、少年の心は固まった。
「なんだ? とっとと行けよ、腰抜け。それとも、お前も混ざりてえか?」
下卑た歓声が上がり、男の一人が少女の頬を叩いた。頬を赤くして目を瞑った少女の顔を、横になぞって涙が伝う。それが愉快なのか、男はもう一度手を振り上げ、
「か弱い少女に暴漢三人……これを見捨てて王都に行って、それで食う飯うまいかよ」
振り下ろす寸前の腕を掴み、少年は堂々と口上を言い放っていた。
場の空気がまた別の意味で凍りつき、男達が一触即発の雰囲気で少年を囲んだ。すでに刃物を抜いた男もいて、短絡的かつ直接的な示威行為に出る気満々だ。
その間に捕まっていた少女は立ち上がって、その場を離れようとしていた。しかし、自分を助けようと犠牲になった少年を見捨てられず、恐怖を堪えた顔で振り返る。
暴漢は三人とも地面に殴り倒され、少年がその上でストンピングを繰り返していた。
「――あれ?」
「これは襲われてた女の子の分! これは犯罪目的に使われそうになったナイフを作った職人の分! そしてこれはお前らを生んでくれたお父さんお母さんの分だ!」
「ぶべえ! がふん! はばらぁ!」
踏む踏む踏む。とにかくやたら滅多に容赦なく踏み続ける。寝そべる男達は悲鳴を上げ続けるが、それでも止めずに断固続行。何かちょっと楽しくなってきた。
「お前ら女の子一人にどんだけ卑劣漢だ、うすぬっかぁ! おまけにそのあと、俺に絡んできたのも俺が弱そうに見えたからだろうがぁ! 残念でしたぁ!」
全員がぐったりすると、少年はいやにすっきりした顔で爽やかに額の汗を拭く。と、こちらと微妙な顔で見ている少女と目が合った。
正直、途中から少し我を忘れてしまった感はあった。でも、それは女の子を悪の魔の手から救うためだから仕方ないという大義名分。そう大義名分万歳。だけど、助けたはずの少女が明らかに若干ひいているのを見るとその自信も揺らぐ。
「う……俺ではない何者かの意思が俺を……まさか、森の精霊が!?」
「そんな直接的な精霊の加護があるか! 誤魔化されないわよっ!」
「なーんでーだーよー! お前、森の精霊に会ったことあんのかよ! 会ったことないのにさも会ったような感じで俺の森の精霊とのコンタクトを否定しようってんなら出るとこ出た上で何を言おうとしたのか忘れましたすみません!」
言い訳失敗。項垂れる少年に、少女は自分の失言を恥じたように顔を赤らめた。
「えっと、今のはなし。ごめんなさい。その、助けてくれてありがとう」
「いや、いいんだ。正直、事情も確認しないで行動したから少し不安だったけど」
「事情……?」
「ほら、助けたはいいけど実は男達と君は同意済みで、あれはそういうプレイだったりしたら空気の読めない奴じゃないか、俺」
「今の発言が空気と女心読めてないわよっ!」
怒鳴る少女は襲われかけたわりに元気いっぱいだ。さっきまでの弱々しい感じはどこにいったやら。元気が出たならいいことだが。
「それはそれとして、こいつらどうするか。俺の故郷なら熊葬か鳥葬か花葬なんだけど」
「どこの未開の地の風習か知らないけど、ここに放置するのとどう違うの?」
「野ざらしの奥ゆかしい言い方だから。俺の故郷は控えめな善人が多くて」
少年が返事に、少女は頭痛でもしたように額に触れて首を振っている。男達に薬か何かを嗅がされていたのかもしれない。なおのこと正義の炎がメラメラ。
「さらに天誅」
「ちょ、拳の骨鳴らしてどうするつもり!?」
「すぐ傍に小さいながらも澄んだ川があるんだ……そこを処刑場に変える」
「放置してきましょう! わざわざ手を汚さなくても夜になったら魔物が出るから!」
「……そうか。都会だと魔物葬が流行なのか」
郷に入っては郷に従えという言葉もある。それに反撃は被害を受けた当人の意思が尊重されるべきだ。少女が魔物葬をご所望なら、まあそれで。
男達を軽々と茂みに放り込み、枝や葉っぱで多少デコレーションして解放する。手を叩いて一仕事終えると、少女はこちらを見て何を言おうか迷っている様子だった。
「ところで俺は王都に用があるんだけど、あいつらの教えた道は合ってた?」
「あっちは獣道しかなくて、どっち行っても魔物の住処直撃だと思ったけど」
「危ねえのと同時に奴らの性悪さに本気でびっくりだ。君も止めてくれよ。それどころじゃなかったとしても」
「乙女の生涯のピンチを見捨てるような人は、魔物にかじられても仕方なくない?」
暗に見捨ててたら見捨ててた発言。意外とおっかない黒い本音だった。ただ、直後に吹き出して悪戯っぽく笑うのを見て、少年も毒気を抜かれて笑みを作った。
どうにかその気まずい空気が薄れ、さあこれからどうしようか――そんなときだった。
「――え?」
がさ、と茂みをかき分ける音がして森が割れ、少年の背後を見つめる少女の瞳が凍る。つられて振り返り、少年は少女の凍結の理由に合点がいった。
――そこに堂々と佇むのは、まさしく森の王と呼ぶべき威容だった。
獅子の体躯に血吸蝙蝠の羽を携え、尾には頭部を持つ蛇。その顔は猿の顔に似ており、双眸は澄み渡るような青で、理知的な輝きさえ放って二人を見つめている。
「ま、マンティコア?」
「あー、忘れてた。そもそもこいつに追っかけられてたから崖とか落っこちたんだよ、俺」
震える少女の声に、少年が気の抜けるような声で追従。
鳥に奪われた食事を追って森に入り、なんの間違いかマンティコアの巣に入り込んだ。結果家主の怒りを買い、食うや食わずの逃亡生活だ。
「――――――――ッ!!!」
マンティコアがその口腔を開き、雄叫びを上げた瞬間に少年は身を翻していた。
爪が大地を抉り、吹き飛ぶ土塊は先ほどまで少年が立っていた大地そのものだ。すんでのところで致命の一撃をかわし、そして少年は少女の傍らにくると、
「ちょいと失礼」
「ちょっと!?」
困惑する少女を抱きかかえると、一も二もなく逃走に移った。
背を向けて全力で駆け始める少年を獲物と定めたのか、マンティコアが牙をむき出して追い縋ろうとする。が、
「置き土産だ!」
駆け出そうとするマンティコアの疾走が、その出鼻で潰される。
激痛に頭部を押さえて悶えるマンティコア。その猿の顔の右目に、投擲されたナイフが突き立っているのが少女に見えた。
安っぽい、どこにでもあるような粗悪品のダガーだ。急所を射抜いたその手際の良さに感嘆した上で、逃走の時間を稼ぐ少年の手並みにも驚く。
「でっかい猿顔さんよ! 俺らじゃなくて、そっちにも獲物ごろごろしてるよ!」
ついでに魔物葬に処したチンピラ共を、怒り狂うマンティコアの生贄に捧げる周到さだ。
しかし、マンティコアは今の一撃で完全に我を忘れたのか、容易く手に入る獲物など無視して逃げる二人を追って猛然と走り出した。
「やっぱダメか!」
「――走って! マンティコアは森の主だから、森から出れば追ってこれない!」
下ろして、と言いかけた少女は、少年の森を踏破する速度に目を見張ってその言葉を封じた。ぐんぐんと、足場の悪い道のりを駆け抜ける速度は風のようだ。
体長はゆうにこちらの六倍近くあり、木々をなぎ倒すように巨体を走らせるマンティコアと速度で張り合っている。自分の足で走るより確実だ。
やがて――、
「森を!」
「抜けた――!」
緑がいっぱいに広がっていた視界が開け、草原が二人の前に道を伸ばしている。
やや下りの急斜面が二人を出迎え、森を抜けた勢いのまま体が宙を跳ぶ。しばしの自由落下の感覚を味わいながら、その中でふと少年が、
「俺はアル!」
「え?」
聞き返す少女に少年は笑みを深め――着地の衝撃、駆け足の続行。そして改めて、
「俺はアル。アル=アヴァルだ。よろしく!」
人好きのする笑みでそう名乗った少年に、危機を抜け出したばかりの少女は気が抜けたように思わず笑い出す。それから、
「あたしの名前はティファ=ティアハート。助けてくれて、ありがとう、アル」