『敵意の矛先』
広げた書状をくしゃりと握り締め、ティファは唇を噛んで肩を震わせていた。
最初の衝撃から立ち上がったティファの身を震わせるのは、例えようもないほどに湧き上がってくる灼熱の憤怒であった。
「何よ……みんなもう、あたしには付き合ってられないってこと?」
片付けも手伝わず、めそめそしている姿に愛想を尽かしたということか。それにしたって話し合う余地も残さず、無言で去っていくなんて人情に欠ける話じゃないか。
「そうよ、そんな勝手なこと……まだ、あたしは何も言ってないのにっ」
丸めた契約書を握ったまま部屋を飛び出し、色んな感情ごちゃ混ぜで冒険者通りに駆け出す。アル達が出たのがいつかわからないが、今から捜せばそう遠くには――、
「おっとぉ? こいつは忙しなく、夜逃げか何かするところだったか?」
足が止まる。店の入り口、下卑た声でいやらしく笑うのはゴロツキの男達だった。
ティファを待ち受けていたのか、それともたまたまタイミングがかち合ったのか。数日前にやってきて、そのまま退散したときの顔ぶれが並んでティファに嘲笑を向ける。
「夜逃げっていうのは借金で首が回らなくなったりした債務者がするのよ。あたしはどこにも借金なんかしてないし後ろめたいこともない。逃げる必要なんかないわっ」
「おいおい、聞いたか? このお嬢ちゃん、ついに大事なお爺様の宿屋を完全に潰しちまったってのに、後ろめたくもなんともないとよ!」
「――っ!」
けらけらと耳障りに笑い、ティファは区切りをつけたはずの屈辱に目を見開く。喉が凍りついたように硬直し、ため息のようなかすかな吐息が力なく漏れた。
「しっかし、派手にやったもんだなぁ? なんでもドラゴンがきたとかって話じゃねえか。しかも、ご立派な共同経営者様方を訪問して!」
「風向きが変わるかもなんて期待してたのかもしんないが、なるほど変わったじゃねえか! より悪い方向にだけど……ギャハハハハ!」
この男達はいつもこうだ。こうしてティファの必死の努力を嘲笑い、積み上げたものなど何の意味も価値もないと踏みにじる。祖父が死んでしまってからの一年半、ティファの必死の努力はずっとゴロツキ達に嘲られてきた。
「何なの? どうしてあんた達はいつもそうやって、あたしの邪魔をするの?」
「はあ?」
「あたしのお店に来るお客さんに嫌がらせしたり! 新しいお客さんにも常連さんにも手を出して客足を遠ざけたり! クレーマーを雇って謂れもない中傷したりよ!」
奴らの手口は陰険で、そして対処は致命的に遅れた。ティファが何かおかしいと気づいたときにはすでに、祖父が築き上げてきた店の信用は崩されてしまった後だった。
唐突に亡くなった祖父。その店を守るために経営を学び、必死になって戦った日々。
――まだ十六の少女が一人で背負うには重すぎる荷物を懸命に守ったと、周囲の人々は褒めてくれた。でも、結果が出ないのなら何の慰めにもならなかった。
これまで彼女は自分に降りかかる災厄の責任を、誰かに転嫁したことは一度もなかった。泣き言の一つでも口にする間に、一つ何かするために動かなくてはならなかった。
だからこれがティファにとって初めて、不条理の答えを誰かに求めた訴えだった。
男達がまともに答えるなんて思えない。それでもティファは叫ばずにはおれなかった。差し伸べられる手を拒絶し続けたティファに、初めて支えられる安らぎを与えてくれた仲間を失ったばかり。そんな心に隙間風が吹き込んでいたから。
せめてどうして自分がこんなに理不尽に辛い目に遭うのか、納得のいく答えが――、
「――別に、理由なんかねーよ」
「え?」
耳朶を打つ言葉の意味が理解できず、伏せていた顔を上げたティファの眼前、先頭の男がこれ以上ないほど悪意に歪んだ顔を近づけて、言った。
「お前の祖父さんに恨みはねえ。お前自身に恨みもねえ。正面の店の姉ちゃんが気に入らなくて八つ当たりしてるわけでもねえ。ねえねえねえ、恨みつらみは存在しねえ」
いっぺんに流暢に罵り、それから半壊状態の店構えを指差して続ける。
「扉が開くときのベルの音が気に入らねえ。小窓を彩る花瓶の花が気に入らねえ。並んだテーブルのテーブルクロスが気に入らねえ。古びた椅子と階段の軋む音が気に入らねえ。使い古されて日に焼けたメニューが気に入らねえ。看板娘の給仕服が気に入らねえ。嫌がらせされても微塵も揺るがない笑顔が気に入らねえ。強がって平然としてやがる元気な声が気に入らねえ。死んだジジイのために懸命に頑張る孫……そんな構図が気に入らねえ」
額と額が触れ合う寸前まで、男は顔を近付けてきた。その純然たる理不尽な剣幕に押され、ティファは涙ぐみながら膝を落とす。そうして座り込んだティファを見下ろして、ゴロツキは怒り一色だった表情を愉しげに歪めた。
「それだよ、お前のそんな顔が見てみたかった。泣けよ、わめけよ、当り散らせよ。泣きそうなの我慢してんじゃねえぞ、ガキが!」
動かないティファの肩を男は乱暴に足蹴にする。抵抗する力もなく蹴り倒され、ドラゴンとの激闘で汚れていた給仕服がさらに泥で汚れた。
「けっ。そうして下向いてるのがお似合いだぜ。俺らはお前が気に入らねえんだ。何回やり直そうとしたって、何回でも追い詰めにくる。とっとと消えちまえ。ぶっ壊れたこの店と同じで、甘っちょろい理想も壊れちまったんだよ!」
吐き捨てて、男は仲間を引き連れて店の前を立ち去っていく。
その背中に恨み言をぶつけることも、憎悪の視線をぶつけることもできず、ティファはただ地面に両手を突きながら、声にならない嗚咽を漏らしていた。
未だに手の中に握られている契約書が、風に煽られて擦れる音がする。それさえも煩わしくて、でもどうやったって手放すこともできない自分がいて。
ティファは言葉にならない思いを振り切るように、子どものように泣き続けた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「あ、そこの旦那、ちょいとお話があるんですがね」
そう卑屈に話しかけられたのは、バルト達と別れたアルが食事通りを歩きながら、久々にまともな飯を食えると涙を流して喜ぶ胃袋を押さえていたときだった。
声をかけてきた男を見て、アルは誰なのか思い出すのに数秒の時間を要した。なぜならその人物が腰を低くして、もみ手しながらへりくだる姿が想像できなかったからだ。
「あれ、あんた確か……カインド・ベルで会った喜劇役者の」
「違ぇし! ってか違います。いや、あんときゃとんだ失礼しました」
そう言って殊勝に頭を下げるゴロツキに、アルは違和感から眉を寄せる。二度ほど会った男の評価はゴロツキの典型。この変わり身は警戒心を抱くには十分すぎた。
「今回は一人なのか。三人、四人と増えたから、次は五人かと思ってたんだけどな」
男が一人だけなのを確認しながら手荷物を下ろす。てっきり、一人で歩いているアルを見つけた男がこれまでの報復をしようとしたのだと思ったのだが、拳を鳴らすアルを見た男は大仰な手振りでそれを否定してきた。
「ちょ、ちょいと待ってくださいよ、旦那! 旦那の強さはわかってまさぁ。とてもじゃないですが、もう馬鹿な真似はしませんて。今日はお話があって伺ったんですよ」
「伺ったって、道端歩いてた俺を見かけただけじゃないのか。――話、ねえ」
似合わない愛想笑いの男を胡散臭く思いながら、アルは拳を引っ込めて話を聞こうという姿勢を取る。男はありがたいと額を拭い、それから声をひそめるようにして、
「悪い話じゃないはずですぜ。何せ、旦那の懐に二十万の大金が入るってんですから」
二十万、という法外な大金を持ち出され、アルは驚きに顔を強張らせる。その態度に男は脈があったと思ったのか、目配せしてアルを人気のない路地に招き入れた。
「二十万なんて大金の話を聞かされて、旦那はおそらく胡散臭いとお思いでしょう。ですが、俺がこれからする話を聞いてもらえれば、納得してもらえると思いますよ」
日の差し込まない薄暗い路地裏で、湿っぽさを増すように低い声で男が語り始める。
「実は二十万って金がどこから出てくるのかっていうと、駆引き通りで一番の不動産屋『ハウス・ドノヴァン』の社長が直々に支払ってくれるんでさぁ」
聞き覚えのある店名にアルがぴくりと眉を動かす。確かその不動産屋は――、
「そう、旦那が土地の権利書を買い受けた店ですよね? 実は今回の大金のお話に、その権利書ってのが関係ありましてね」
男がちょいちょい手招きするので耳を近づける。そして含み笑い混じりの男は、
「あの宿屋の土地……実は四分割の全てハウス・ドノヴァンが所有してたんですよ。だってのにあそこにはずっと昔から宿屋があって、王国の法律上、土地の所有者でも立ち退きは要求できなかった。そしてジジイが死んでいざ、と思いきや孫が頑張る頑張る」
聞き流せない情報があった気がするが、とりあえずアルは無言で先を促す。
「で、ドノヴァンさんは考えたわけです。あの土地を取り戻すためには、その孫娘を追い出すしかない。そこで俺らみたいな雇われクレーマーの出番でして、さんざっぱら店に嫌がらせを敢行して宿屋を潰そうとね。ところが娘がしぶとくて。客が来なくなれば冒険者紛いの手段で小金を稼いで、何とか存続させようとしやがる。何度か直接的に魔法で俺らに対抗しようとしてきましたが、店への報復があるとわかるとしおらしくなりましてね」
自身の手練手管を自慢するように鼻高々な男の態度。その男の言葉を吟味していく内、ふとアルの脳裏を掠めた一つの考え――、
「それじゃ……最初に俺がティファに会ったとき、山の中で無抵抗だったのは」
「ああ、店を守るためでさ。そこは旦那がいたんで、うまくいかなかったんですがね」
ずっと不思議に思っていたことだった。ティファほどの実力者が、どうしてあれほどゴロツキたちを恐れていたのか。山中で無抵抗だった。店に訪れた男達に怯えていた。それらは全て、ティファが店を守る過程で晒されてきた苛酷な道筋の傷跡だったのだ。
「で、なかなか進展がないもんですからドノヴァンさんも痺れを切らしまして。一計を案じる運びになったんですが、その端っこを旦那もかじってるわけですよ」
心当たりのない共犯発言。男はくつくつと喉を震わせながら権利書ですよ、と言った。
「土地の権利書を他人に、それもちょいと曰く付きの連中に売ったんです。そいつらが中から店をどうにかしてくれるのを狙ってね。まさか一週間足らずで結果が出るとは」
「店は半壊の粉々状態。まんまとお前らの期待通りってわけだ」
「その通り! で、ものは相談なんですがね。旦那が買い取った土地の権利書。あれをドノヴァンさんが二十万ゴールドで買い戻したいってんです。それだけあれば別の土地を買い取ることも、加えてドノヴァンさんはそのお世話も請け負うと……」
勢い込んで鼻息荒く言い募る男この言葉を止めたのは、小さいアルの笑い声だ。それは微かに鼓膜を震わす程度のものから、路地裏に響き渡る大笑いに変化する。
まさに笑いが止まらないという様子のアルに肩を叩かれ、ゴロツキの男も同じように笑い始めた。商談のうまくいく気配に、己の取り分を夢想して頬が緩みっぱなしだ。
「なるほど。それで四人から権利書を取り戻して、晴れてドノヴァンって人があの土地を手に入れるわけだ。しっかし、何でまたそんな手の込んだ真似までしてあの土地を?」
「それは知らされてないんですよ。でもまぁ、金さえ貰えりゃ小さいことですから」
「そりゃそうだ。ところで、俺のとこにあんた一人で来たけど他の面子は何してんの?」
「ああ、他の奴らはドワーフとかエルフさんのところに旦那と同じ交渉を……」
「そうか」
不意に笑いの消えたアルに、男はきょとんとした顔を向ける。直後、下っ腹を貫く拳の威力に男の体がくの字に折れ、薄暗い路地裏に胃の中身をぶちまけた。すっぱい臭い。
「おがっ……ああっ! てめ……何しやがる。は、話聞いてなかったのかよっ」
「聞いてたさ。右から左へ流れるように」
「それ、聞き流してんじゃねえ……がふっ!」
膝立ちの体にもう一発入れて路地裏の奥へ叩き込む。通りから視界も音も死角となった空間で、ゴロツキを引きずって誰にも気づかれない建物の間に挟んでおいた。
「か、金はどうする……てめ、商人じゃねえのか。金がいらねえなんて商人が……っ」
「商人失格か。人間失格より、マシだと思うけどな」
最後の一発で男を沈黙させ、食事通りに戻ったアルは足を向ける方向を少し迷う。だがすぐにその迷いを消すと、手荷物を背負い直して首を鳴らしながら歩き出す。
「ドノヴァン……か。あの野郎、ザンスザンス言ってて、出オチの奴にしては特徴的すぎて怪しいと思ってたんだよ」
笑顔で固い握手まで交わしたことは忘却して、アルの足はゆっくりと一点を目指す。
――ハウス・ドノヴァンを。




