神様お願い
ホラー修行中。
プロトタイプ1号というところでしょうか。
オレの願いは、どうやら叶ったらしい。
千円札を賽銭箱に放り込んだだけの価値はあったということか。神というのは聞くばかりで仕事をしない奴というイメージを持っていたが、少しは見直す必要があったのかもしれない。あるいは、人間が思っている以上に現金だったということなのだろうか。
まぁ、結果さえ得られれば何でも構わない。
とにかく、オレの稼ぎを食い潰すだけの金食い虫は消え去った。面倒な雑務が少しばかり増えることにはなるが、元々飯の支度すら満足に出来ないような女だ。その程度の面倒なら許容範囲と言えるだろう。
それにしても、実家に帰る程度ならともかく、昨日まで我が物顔でゴロゴロしていた一人の人間を、痕跡すら残さず消してしまうとは思わなかった。アイツの私物は、無駄に終わったダイエット器具から結婚祝いにと贈られたタンスまで、すっかりなくなっている。ゴムの緩んだ下着や散乱していた女性誌といった、オレの神経を逆撫でする代物も見られない。
どうやら、本当に『消えた』ようだ。
確かに消えて欲しいと願いはしたが、まさか言葉通りに消してしまうとは、神の力というのもなかなかに侮れないということなのかもしれない。
いつもなら起きて顔を見る度に不愉快な思いをしつつ家を出ていたのだが、今日はそれがない。こんなに清々しい朝は久しぶりだ。昔は盆や正月になると実家に帰していたから、その間は平穏を満喫できたのだが、ここ最近は『ネットができない』とかいう下らない理由から日帰りで戻ってくることが通例だった。だからこそ、オレはしたことのない神頼みをするほどに精神をすり減らしたとも言えるのだが。いずれにしても、こうして平穏を得ることができたというのは喜ばしい。足取りも自然と軽くなった。
気分が良くて浮かれていたせいだろう。いつもより家を出る時刻が三十分も早い。いつもなら見かける近所の顔なじみも、登校中と思しき中高生達も、誰一人その姿を目に留めることはなかった。それどころか、まだ寝静まっている時間帯なのか、どの家からも生活音どころか気配すら感じ取れない。電線を占拠してやかましく囀る雀達も、通りかかる度に吠え立てる学習能力に欠けたバカ犬も、この日に限っては見られなかった。
その辺りの些細な引っ掛かりが明確な確信として理解されたのは、電車に乗り込んだ時だ。
いつもなら折り畳まれそうになる電車内に、その日は誰の姿もなかった。三十分早いというだけでは理由にならない。空いていること自体はおかしくもないだろうが、誰もいないというのはあまりに不自然だった。
ずっと向こうまで誰もいない車両が続いているという、まるで合わせ鏡の只中にいるかのような光景の中で、オレは確信を得る。この光景が、オレの願いによってもたらされているということを。
オレはあの時、満員電車に殺到する下らない連中の消滅も願っていた。ついでの願いまで叶えてくれるとは、神様というのも随分と気前が良いものだ。こんなことなら賽銭は万札でも良かったかもしれない。帰りに礼の一つでもしてやるとするか。
オレは生まれて初めて気分良く通勤時間を過ごし、定刻より三十分以上早く会社へと到着した。そこには誰も待っておらず、誰も訪れなかった。うるさい小言を並べるだけの上司も、陰口しか能のない行き遅れ共も、下らない趣味のために会社を食い物にしている同僚という名のクズ共も、誰一人現れることはなかった。オレは邪魔されることなく仕事を片付け、誰に咎められることもなく定時に会社を後にする。いつもなら家へ帰る時間を遅らせようと行きつけの飲み屋にでも寄っていくところだが、今夜からはその必要もない。自分だけの有意義な時間が待っている筈だった。
まったく、こんなことならもっと早くに神頼みをしておくんだった。今までのイライラが何だったというのか、過去の自分が嘆かわしいにも程がある。
オレは誰もいない電車を乗り継ぎ、最寄り駅の一つ手前で下車すると、あの日と同じように薄暗い住宅街の小道を辿った。今とあの時で違うのは、オレ自身の心持だけだろう。あの時はただ、周囲の全てが消えてしまえば良いと思っていた。むろん、そんな望みが本当に叶えられるなどとは夢にも思っていなかったが。
ライトアップもされずに赤黒く佇む鳥居をくぐり、境内へと足を踏み入れる。周囲を行儀良く囲んでいる杉林が、ただでさえ薄暗い神前を更なる闇で塗り重ねている。オレは指先すら見えない中でポケットから財布を取り出し、用意しておいた皺のない万札を取り出した。賽銭箱も良く見えないが、辛うじて判別できる輪郭を頼りに隙間へと捻じ込む。かつてのオレなら馬鹿馬鹿しいの一言で切り捨てた行為だろうが、こうして結果が得られた以上、相応の対価は支払うべきだろう。それが互いの信用へと繋がることを、オレは過去から学習している。
闇を払うようにして叶緒を探り、ガラガラと鳴らして拍手を二回行う。今回は特に願うワケではないが、これも礼節というものだろう。せっかく礼に訪れて、礼儀を欠いたのでは笑い話にもならない。
『そのようなこと、気にすることはありませんよ』
「んなっ!」
閉じかけた目を見開き、周囲を見回す。しかしそこに、人の姿どころか気配すら感じられなかった。
だが声が聞こえたことは間違いない。空耳とは思えないほど、いや他人の声とすら思えないほど、明確に聞こえた。
「まさか、神か?」
『はい、そう呼ばれる者です』
「丁度良い。直に礼を言いたかったところだ」
『その必要はありません。私は、貴方の願いなど叶えてはいませんから』
「では、何故連中は消えたというのだ!」
オレは真っ暗な虚空に向かって叫ぶ。その返事は、冷ややかな声という形を成して、頭の中心へと木霊した。
『私はただ、皆の願いを叶えただけなのですから』